第二章 お互いの秘め事6

 声が、とぎれとぎれに聞こえる。少しずつ近くなってゆく。二人は並走していたが、途中でルーが均衡を崩した。太い枝を見つけるなり、飛び上がってそれをつかみ、体を大きく回転させて前へ跳ぶ。さながら曲芸のような大胆さで、前へ前へと進んでいった。イゼットは、小さな姿を見失わないようにしながら、茂みをかき分ける。
「く、来るなよ!」
 幼い声がはっきり聞こえると同時、視界が開ける。見覚えのない少年が一人。彼は太い木の枝をにぎって、三頭の獣と対峙していた。一見、狼のような獣はだが、なにかがおかしい。
 イゼットの、巫覡シャマンの感覚に近い部分が、不穏にざわついた。だが、彼が行動を起こすより少し早く、ルーが飛び出した。木の枝を鉄棒がわりにした勢いで、少年と狼の間に飛びこんだのだ。少年が半泣きで叫んで、後ろに尻もちをついた。
「ルー!」
 イゼットは、思わず警告の叫び声を上げる。だが、彼が危惧した展開にはならなかった。
 ルーが割りこんでくると、狼――に見える獣たち――は、彼女をにらんだ。それからイゼットを一瞥すると、半歩ずつ後ろに下がった。
 そして、次の瞬間、火が消えるように姿がほどけて消失したのである。
「――え?」
 思いもよらぬ展開に、その場にいた三人は呆けた声を上げる。まっさきに我に返ったイゼットは、とりあえずルーのもとへと駆け寄った。
「い、今のは……」
「あれも、『幻想』だったのかも。さっきの妙な木を触ったときと似たようなものを感じた」
「なるほど。本当にふしぎな場所ですね」
 ルーがため息をつき、構えを解く。ひとしきり感心すると、まだ唖然としたままの少年を振り返った。イゼットも、彼に視線を向ける。
 質素な胴衣シャツ筒袴ズボンを着て、赤と黄色が美しく入り混じった帯を腰のあたりで締めている。短い黒髪は乾いて乱れ、あちらこちらに跳ねていた。扁桃アーモンド型の目が、まっすぐに二人を見上げている。
「えっと、カマルくん、ですよね。ご無事ですか?」
 少年は「へっ?」とひっくり返った声を上げる。
「ええと、なんでおれの名前知ってるの」
「あ、そうか」
 ルーは今気づいたとばかりに目をみはった。
「すみません。さっき、キールスバードの喫茶店チャイハネで外の騒ぎを聞いてしまったもので」
喫茶店チャイハネ? ああ……さっきの『お客さん』って兄ちゃんたちのことなのか」
「はい。ボクはルー、あちらはイゼットといいます」
 ルーはしおらしく礼を取る。その姿に影響されたのか、少年――カマルも慌てて立ちあがり、会釈した。イゼットも軽く応じると、数歩前に出てルーの隣に並んだ。
 察しのいい少年は、気まずげに目をそらす。イゼットは苦笑しつつ、そっとしゃがみこんだ。少年の目を低いところから見る形で、向き合う。
「……カマルくん。いきなりで悪いんだけど、お姉さんを探しにきたんだよね」
「……そうだよ」
「村の人たちがどうして止めたか、わかった上で、来たの?」
 カマルはしばらく、うつむいたまま唇をとがらせていた。しかし、イゼットが目をそらさないでいると、ゆっくりうなずいた。
「サミーラ姉ちゃんだけじゃない。今までいろんな人が森に『のまれた』。何度も、そういうの、見た。入るなって言われるのはわかってた。おれだって、また人がいなくなるのは悲しいって思う。でも……」
 イゼットは口を挟まない。ルーも、隣で神妙な顔をして黙っていた。
「でも。姉ちゃんがいないまま村で暮らすのは、もっと悲しいんだ。そんな悲しい思い、するくらいなら」
 少年の目に、涙がにじむ。彼は一度、唇を結んだ。言葉を出すのをためらうように。
 イゼットは、心を固めながら、言葉を待った。
 そして、大きな瞳から雫がこぼれた。
「悲しい、くらいなら、姉ちゃん探しにいった方がいい。それで、死んだってかまわない、って思った」
「うん」
「だって、だって、ひとりぼっちは嫌なんだ」
「……うん」
 イゼットはそっと手を伸ばして、ぼさぼさの黒髪を整えるようになでる。
 小さな肩が震える。
「嫌なんだよ……!」
 とうとうカマルは、声を上げて泣き出した。気を張るのをやめたからか、全身から力が抜けたように、その場に座り込んでしまう。イゼットはしばらく、少年をなだめることに専念した。その隣をルーがそっと離れる。彼女は彼女で、自分ができる仕事をしようとしていた。
 そして、カマルがようやく落ちついたとき。なおも背中をさすりながら、イゼットは連れを振り返った。
「――ルー」
「うん。道、ふさがっちゃいました」
 落ちついた声が返る。イゼットは眉をひそめた。なんのことかわかっていないカマルは、目を瞬かせた。イゼットが、指をさして「ほら」と言うと、彼の顔がこわばる。蛇行した道を、二人と同じように通ってきた彼もまた、その異常に気づいたのだ。
 イゼットが指さしたのは、今しがた通ってきた道が伸びていた場所。しかし、そこにはいつの間にか木が生い茂っていて、道を隠してしまっている。
「な、なんで? さっきまで道があったのに……」
 驚きのあまり涙も引っ込んだのか、カマルが弾かれたように立ちあがる。イゼットは、軽く少年の腕をひくと、一緒にルーの方へ歩いた。先ほどのように木の幹を叩いてみるが、今度は揺らぐ様子がない。
「だめか。どうなってるんだろう」
「わかりません。ただ……もしかしたらこれが、人がいなくなった原因かもしれません」
「あ、そうか」
 イゼットは、キールスバードの少年を見やる。
「カマルくんはどうやってこの道に入ったの? 最初は見えてなかったでしょう」
「あ、うん。そうなんだけど。たまたま、本当にたまたま……」
 カマルはなぜか、頬を赤くした。イゼットとルーがきょとんとしていると、「笑うなよ」と前置きされる。
「たまたま。木の前で石につまずいて……。んで、木に頭をぶつけるところだったんだけど、頭はぶつけずに転んだんだ。おかしいなって思ってみたら、木がなくなってて、道ができてた」
 やたらと「たまたま」を強調した少年の言葉を聞き、イゼットは少し考えこむ。少年と少女が、ふしぎそうに首をかしげた。
「ってことは、もしかして、ほかの人々もそういう偶然でこの道に入りこんでしまった、ってことか?」
「そうなりますね」
「ここがクルク族の修行場なら……どうしてそんな、ほかの人々まで命の危険にさらすような『からくり』が施されてるんだろう」
 ルーが頭の角度を急にした。クルク族、という言葉に驚くカマルの姿には気づいていない。
「危険なのは『木々と幻想の修行場』だけじゃないですよ。前の修行場の『獅子の牙』だって、なかなか危険です」
「でも、あの場所にはふつう近づかない」
 イゼットは、無意識のうちにこめかみに手を当てた。
「『石と月光の修行場』の最初の方に、分かれ道があったでしょう。あの道、俺たちが進んだ方向と反対に行くと、峡谷に出るんだ。多くの人はそっちの道を使ったんだよ。反対へ進んでしまったら、『獅子の牙』にひっかかるよりも前に、引き返したはず」
「な、なるほど……言われてみれば前の三か所の修行場は、絶対にクルク族以外は行かないだろう、っていうような所にあったし……変ですね」
 白い顔、黒い瞳に理解と不審の色をにじませたルーがうなずく。
 違和感は強まるばかりだ。なにか、おかしなことが起きている気がする。
 だが、何がおかしいのかは、考えてもわからぬだろう。引き返せない以上、このまま先へ進むしかない。
 そう結論づけたところで、二人は当面の問題を考えることにした。
「カマルくん、どうしましょう」
「どうしようもないな。まさかここに置き去りにするわけにもいかない」
 イゼットは、さらに眉間のしわを増やす。頭痛がしてきそうだったが、この際我慢するしかない。戸惑っている少年を見おろした。
「申し訳ないけど、君も一緒に来てほしいんだ。サミーラさんを探すことにもつながるだろうし」
 イゼットがそう言うと、カマル少年は顔を輝かせて「わかった!」と応じる。その元気な声が、疲労を少しだけ吹き飛ばしたとか、吹き飛ばさなかったとか。