第二章 お互いの秘め事10

 驚きが過ぎ去ると、カマルはそのまま声を上げて泣き出した。サミーラも、思わずといったふうに駆け寄って、弟を抱きしめる。イゼットもルーも、姉弟の再会を邪魔せぬよう静かに見守った。もちろん、危険が迫っていないかを探りながら。
 二人が落ちついてきた頃を見計らい、イゼットはサミーラに、ここへ迷い込むまでの経緯を尋ねた。その「経緯」は、ひどく奇妙だった。
 サミーラの語ったところによると、彼女はもともと、森から少し離れた緑地へ薬草を摘みに出かけたという。薬草摘みは月に二度ほど行っているそうで、その日もいつもどおりに済ませた。しかし帰り際、どこからか子どもの助けを呼ぶ声が聞こえた。本当に子どもがいるなら放っておけないと思い、声のした方へ歩いていき、ふと気がついたら森の中にいたという。
「すぐに出なくてはと思って歩きまわった結果、迷子になってしまったんです。途中で籠を落としたことに気づいたけれど、もうどう行けば戻れるかもわからなかったので、ひたすら歩きました。それで、ここまで来たんです。森の様相を見る限り、かなり奥の方じゃないかと思って……引き返そうとしたのですが」
 サミーラの手が震え、水筒が水音を立てる。ルーが渡したものだ。
「そのときに、いきなり地面が割れたんです。なすすべなく下まで落ちて、自力で地上に行くこともできず……今日まで、雨水だけを頼りに命をつないでいました」
 淡々と語るサミーラだったが、その言葉の終わりだけがかすかに揺れた。三人とも、聞かされたことの壮絶さに息をのむ。少しして、ようやっと、ルーが口を開いた。
「よくそんな状況で生きのびられましたね……」
「キールスバード周辺はわりと雨が多い土地だから、助かりました」
 サミーラは悪戯っぽく言い、不器用に笑みを浮かべる。これにはさすがによい返事が浮かばず、イゼットもルーも苦笑した。その横で、カマルがはなをすする。
 サミーラは、弟を改めて見やった。
「ごめんなさい、カマル。つらい思いをさせたでしょう」
 頼りないほど薄い手が、黒髪を優しくなでる。カマルは小さな声で「だいじょうぶ」と言いながらも、目を泳がせていた。――続く、姉の言葉を予想していたのかもしれない。
「でも、町のみんなに黙って森へ入るのはだめよ」
 カマルは黙したまま、小さくうなずいて、けれどその後「でも」と呟く。弟の「でも」を姉はやんわりとさえぎった。
「心配をかけた手前、強くは言えないけれど……危険なことはしてほしくないの。それに、旅の方まで巻きこんで……」
「いえ、それは」
 イゼットは思わず大きな声を出す。姉弟の視線が集中すると、顔の前で手を振った。
「俺たちは、俺たちの用事があって来たんです。カマルくんとはその途中で出会ったんですよ」
「用事? この森に?」
「シュギョーだってさ」
 サミーラが、弟によく似た目を見開くと、その弟が澄まし顔で言った。ますますわからないと眉をひそめる娘に、ルーが詳しいことを説明した。
「クルク族の修行……そんなものがあるなんて、聞いたことないけれど」
 サミーラは、説明が終わってもなお、難しい顔で考えこんでいる。理解はしてもらえたが、納得はしていないようだ。ただ、これ以上はイゼットにもルーにもどうしようもなかった。
「とりあえず、サミーラさんはもう少し休んでください。その後に、これからのことを話し合いましょう」
 イゼットがほほ笑んで、荷物の中から食料の包みを取り出すと、サミーラもようやく顔をほころばせた。

 これからのこと――つまり、サミーラとカマルの姉弟をどうするか、ということである。カマルの目的は達成されたので、彼らがこれ以上森にいる理由はない。森にいても危険なだけだ。しかし、キールスバードへ帰すとなると、それはそれで越えなければならない壁がある。
「来ることはできましたけど、帰ることができるかは、わからないんですよねえ……」
 あたりを見回しながら、ルーが不穏なことを口走った。
「帰れなきゃ修行にならないじゃないか」
「それはそうです。だから、奥までたどり着いたら、また抜け道で外へ出られるようにはなっているはずです。でも、途中で引き返すことができるかと言われると――微妙なところです」
「なるほど」
「あの変な木とか隠れた道とかが、また出てきてくれるかどうか、わかんないからか」
 聡いカマル少年が、神妙にうなずいている。イゼットとルーも、顔を見合わせて、しぶい表情でうなずいた。現実は曖昧で苦々しい。
 イゼットが「靄」をたどれば、今まで通ってきた道を再び開くこともできるだろう。しかし、イゼットとしては、ルーひとりをこの妙な場所に残していくのが嫌だった。
 イゼットとルーがうんうんうなっている横で、しかしサミーラとカマルは意外にも平然としていた。
「やっぱり、私たちも最後までついていった方がいいのかもしれないわね」
「姉ちゃんもそう思う?」
 姉弟二人は、なぜか楽しそうにそんなやり取りをしている。さすがに、ルーが「それはそれでどうかと……」とためらった様子を見せるが、二人は気にした様子がない。
「今さらだよ、ルー」
「そうね。それに、これはクルク族の儀式のようなものなんでしょう? そんなもの、めったに見られないから、いい機会かもしれないわ」
「だなー!」
「ええ……? 二人とも、それでいいんですか?」
 ルーが口をあんぐり開けて固まっている。イゼットは、なんとなく離れたところで成り行きを見守っていた。
 案外肝が据わっているサミーラが、ルーにきらきらした目を向けると、彼女はとうとう折れる。
「わかりました。でも、本当に気をつけてくださいね。サミーラさんは具合が悪くなったら言ってください」
「わかりました。あと、私のことはサミーラでいいですよ」
「あ、がってんです。サミーラも力を抜いてください」
「ありがとう。よろしくね、ルー」
 話し合いが終わると、二人は笑って握手を交わす。何やら友情が芽生えたらしい女たちのかたわらで、男二人も「よろしく」と今さらな挨拶をした。
「じゃあ、しゃきしゃき出発しましょう!」
 ルーが気合十分の声を放つと、残る三人はそれぞれにこたえる。イゼットがうなずき、カマルが拳を突き上げ、サミーラがほほ笑んだ。
 いざ出発しようとしたそのとき、イゼットはふと振り向いた。耳元でなにかをささやきかけられた気がしたのだ。しかし、背後には誰もいない。かすかな風の音が通りすぎる。
 気のせいだったのだろうか。イゼットは、首をひねりつつも、前を向きなおす。その瞬間、明るい色の瞳が、『見えざるもの』を映しだした。
 鮮やかな緑の上を這うように、青黒い靄が立ち込める。靄は生き物のようにうごめいていて、薄くなったり濃くなったりを繰り返していた。その靄のある一点が、草葉の先を覆い隠すほど濃い闇と化した瞬間、それは突然形と硬質な光を持って、地へと突き出した。靄が鋭利な刃と化したとき、若者の中の『なにか』が警告の叫びを上げる。
 考える前に、音を紡ぐ前に、彼は駆けだしていた。
 青黒い刃がはしる。向かう先は、なにも知らない少年の足もと。
「カマルくん、逃げろ!!」
 イゼットが叫ぶと同時。衝撃が、地から天へと突き上げた。
 カマルがよろめく。そのすぐ下に亀裂が走る。

――間に合わない。

 一言が頭の奥で弾けた一瞬後。イゼットは地を蹴り、少年を突き飛ばしていた。