第一章 まどろみの終わり4

 夜を越し、夜明け前。灼熱の時間になる前に、イゼットたちは町を発った。例の荷車はルーの愛馬であるラヴィに牽いてもらう。この牡馬は小柄だが、力と体力はやたら有り余っているのだ。今のところ、人ひとり乗せた荷車も問題なく引っ張ってゆけそうである。加えて主人のためなので、だいぶ張り切っていた。
無理をしすぎないように、と宿屋の主人に送り出されたイゼットは、急いで、けれど飛ばさぬよう馬を進める。ヘラールと名付けた雌馬は、人間たちの重苦しい空気を察してか、いつもよりおとなしい。
 道行は静かだ。だが、イゼットの心は急いていた。焦燥に焼かれそうになるたび全身の痛みで我に返る、ということの繰り返しだった。旅立ってからは一度もなかったことだ。ギュルズに着く前に、自分を見失ってしまいそうで、漠然とした恐怖に時折身をすくませる。それでも、相方のことを思えばとどまるわけにはいかない。いつになく多くの感情(にもつ)を抱え、彼はひたすらに前進した。
 ほどなくして、ペルグとイェルセリアをつなぐ――あるいは隔てる――山岳地帯に入る。次の修行場だという山道ほど険しい場所ではないが、見通しと足元は悪かった。ルーを看るために休憩をはさむこともあり、歩みはぐんと遅くなった。
 それから五度目の休憩の折。イゼットは、ルーの腕に発疹があることに気づいた。少しだが熱もある。やはりただの風邪ではない。こういう症状に効く薬の話を聞いたことはあったが、その薬は市場に並んでいるようなものではないし、イゼットに調合の技術はない。他の医者から拒まれるとすれば、ギュルズの医者に会いにいくしかなかった。
 おびえるように掛布を握りしめる少女の指は、頼りない。ものを言う力もない彼女は、暗闇に放り出された子どものように顔を歪めていた。昨日と違って涙を見せずに泣く相方に、イゼットができることは限られている。水を少しずつ飲ませて、穀物と果物をすりつぶしたものを食べさせてみているが、それすらも辛そうだ。
 若者は荷車によりかかりたい衝動に耐えながら、ルーを休ませ、再出発の支度をする。いつもより憔悴しているその背中を二頭の馬が心細げに見守っていた。

 二日半かけて山岳地帯を抜けたイゼットは、それからさらに二日ほど馬を走らせた。こまめに休憩をとった割には、早くギュルズへと近づいている。もっとも休憩というのは名ばかりで、イゼットは最低限の睡眠しかとっていない。本人も、良くないと頭ではわかっている。じっとしていると心の方がおかしくなりそうで、つい動き回ってしまっている、という具合だった。

 アルトヴィンを出てから、七度目の夜。二人と二頭は、しばらくぶりにまともな野営をしていた。
今夜は、比較的気温が高い。だからだろうか、馬たちは気持ちよさそうに寝息を立てる。イゼットはそれをながめながら夜の番をしている。交代できる人がいない以上、自分が頑張るしかないのだった。とはいえここは大きな街道の近く。危険な獣も人間も少ない。いつもほど気を張らなくてよいのは、ありがたかった。ルーの具合も、良くはならないが悪くもならない。今は眠っているのか、荷車の上も静かだ。
 ほのかに明るい月を見上げる。衣服のこすれる音が、あっけなく夜の空気にのみこまれた。
 そういえば、最近、音がない。ふとそんなことを思って、イゼットは自嘲した。それもそのはず、自分自身の口数が減っているのだから、音がなくて当然だった。
 少し前まではそれこそが当たり前だった。一人旅で何を話すわけもない。後先を考えてはへこたれそうになり、だからこそ見ないふりをしながら、足を引きずるように進んでいた。
 ルーと行動するようになってから、旅が楽しくなったのだ。彼女一人が口を閉ざすだけで、日々は簡単に色を失った。夜はこんなに冷たかったのだと思い出す。
 汚れた衣に顔をうずめる。それすら気休めにならず、かえって布の感触と砂のにおいがうっとうしい。かぶりを振ったイゼットは、とりあえず眠ろうと目を閉じた。
 視界が本当の闇に覆われるはずのとき、しかし彼の眼前は白く染まる。
 目を見開いた。なにか来たのかと、思わずあたりを見回した。しかし、鳥の一羽もいない。自分たちだけが佇んでいる。見間違いかと息を吐いた。間もなく、光はまた現れた。白に目がくらみ、左右の眼球の奥が痛みに締めつけられる。思わず両目を手で覆い、うずくまった。それでも世界は白いままで、光は消えない。
 最初こそ混乱した。しかしイゼットはすぐに思い出した。前にも似たようなことが起きたと。
 ヤームルダマージュで紫色の煙に飛び込み、歌を聞いたときのこと。当時は眼球が痛むことなどなく、光が見えた時間も短かった。今度は、いつまで経ってもおさまらない。そのことで生じた動揺がさらに別の苦痛を呼んだ。わかっていても、抑えがきかないときがある。イゼットは槍だけをお守りに、猫のように身を丸めて、声を殺して耐えていた。
 ルーたちを起こすわけにはいかない。見せてはいけない。知られてはいけない。倒れるわけにはいかない。あの兄妹の家にたどり着くまでは。
 呪文のように、言葉を自分自身に刻みつける。思考を止めないことで、なんとか苦痛から意識をそらす。ただ、それもいつまでもつかはわからなかった。
 光が強まった。熱が全身を串刺しにした。イゼットはこらえきれずにうめいた。瞼を狭めても、何一つ世界は変わらない。
 目の前になにかの影が現れた。影は流れるように輪郭を持ち、色に染まる。すぐには見当のつかなかったそれの正体に気づき、イゼットは久しぶりに、現状とはまったく違うことを考えた。

 なぜ、『これ』が見えるのか。

 呈した疑問に答えは返らない。
 穏やかな眠りすらも経ないまま、彼は八度目の朝を迎える。

 薄い青の端にほんのり桜色を足した空が、緑豊かな丘陵の頭上に広がる。その恩恵を丘の下の町も余すところなく享受し、人々はのどかな営みを続けている。祈りも終わったこの時分、鬼ごっこをしていた男児も、織物をしていた娘も、自分たちの仕事を切り上げて家路についていた。
 この頃に店じまいをするのは、診療所も同じだ。ただ、そこの主は町で唯一の医者なので、時間外に人を受け入れることも少なくない。今日は今のところ、緊急事態の気配はなさそうだ。家いえから立ち上る炊煙をながめながら、医者の助手であるベイザは、夕飯のおかずを卵にしようか野菜の肉詰めにしようか考えていた。その間にも、動かす手は止めない。今日の患者の一覧はまとめた。最後の診療が終わったあとに看板をひっくり返せば、本日の業務は終わりである。手慰みに外の掃除をしていた彼女が、どこかから飛んできた枯れ枝を横の薪入れに放り込んだとき、診療所の扉が開いた。
 元気のよい老人が出てきて、扉の向こうにお礼を言っている。元気といいつつ彼は畑仕事で腰を痛めていた。だからこそここに通い詰めているわけだ。
扉を閉めた老人は、ベイザを見つけると手を振ってくる。彼女も長い衣に覆われた手を振り返した。一、二年前までは彼女が肉体労働をしていることに良い顔をしていなかった人だが、最近は愛想よくしてくれる。この家の主(あるじ)の軟弱さと適当さを見て、あきらめてくれたのかもしれない。
 中でせっせと書き物をしているに違いない医師(ドクトル)に代わり、『開いてます』と書かれている看板を返そうと、ベイザは戸口へ向かう。しかし、彼女を切羽詰まった呼び声が止めた。
「おおい、ベイザ! 診療所閉めちまうのか!」
 坂になっている道を、青年が駆け上ってくる。生まれも育ちもこの町で、かつてはやんちゃ坊主だった人だ。今は家の畑作を手伝っているからか、顔も体も日に焼けている。その彼を見やり、ベイザは肩をすくめた。
「当たり前でしょ、アリ。もうこんな時間だよ。それともまさか、急患か?」
「そのまさかだ!」
 立ち止まって汗をぬぐった青年は、息を整えもせず叫ぶ。
「イゼットが患者を連れてきたんだよ」
「は? なんだって?」
「しかも相当無茶したみたいで、着くなりあいつもぶっ倒れたんだ。やばそうなんだよ、すぐ来てくれ!」
 のみこめなかったがために発した反問すらも、別の驚きに飲み込まれる。口を開閉させたベイザは、一度体を震わせてから、すぐそばの扉を蹴破った。遠くの鳥すら飛び去る轟音を立て、扉は内に開かれた。中では情けない男の悲鳴がこだまする。
「うわっ! いきなりなんだい、ベイザ」
「兄さん、来て!」
「えっ。僕、これから器具の注文書を作らなきゃいけないんだけど……」
「明日手伝ってやるから、そんなもんは後回し!――急患だ!」