第二章 紅の誓い8

 あちこちで雷鳴に似た音がこだまする。炎の勢いは収まるところを知らず、赤い舌をぐんぐんと天へ地へ伸ばしていた。惨状は夜にまぎれてはっきりとは見えない。どれだけの破壊が、崩壊が起きているのか想像もつかない。それゆえに、ぞっとする。
 イゼットもアイセルも、つかの間よぎった感情をすぐに忘れた。走る、逃げることに徹して、自分たち以外のものに対する感情を忘れようとしていた。紺と紅のまだら模様が描かれる地をひたすらに蹴って北を目指す。
 怒号のようなものをイゼットは聞いた。追手。当然だ。彼らが何を叫んでいるのかはうまく聞き取れない。ひょっとしたらイェルセリア語でもペルグ語でもヒルカニア語でもないのかもしれない。声が迫る。イゼットは足を速めた。距離を広げては詰められて、逃げれば追いすがられて。幾度も幾度も繰り返す。
 あちらこちらで火の粉が舞った。地表から立ち上る熱のおかげで夜とは思えぬほどの汗が噴き出す。吸い込んだ空気は熱く、砂のような感触がして喉にへばりつく。いつもより呼吸が浅くなり、ともすればせき込んでしまいそうだった。
 角を曲がる。崩れた外壁が目に入る。イゼットが遠くの人影に気づいたのは、炎と煙からなるべく遠ざかろうと、聖院の建物から少し離れたときだった。次の突き当り。その裏から、人影が半分見えている。立ち止まろうとしたときには、遅かった。視線の先でなにかが光る。それを認識した次の時、黄金色のまぶしいものが飛んできた。イゼットはとっさにかがむ。アイセルを巻き込んで引き倒す形になってしまったが、彼女も自分も守るにはほかにどうしようもなかった。光と熱が目前で弾ける。そこから火が沸き起こる。熱さと痛みがどこかに走った。イゼットは思わず、アイセルのいる方に体を丸める。耳を突いた悲鳴が、自分のものとは到底思えなかった。
 小さな主人が泣きそうな声で自分の名前を呼ぶのを聞いて、イゼットはほとんど無意識に謝った。苦痛を振り切り、槍を支えに立ち上がる。再びアイセルの手を取って、よろめきながら走り出す。しかし、そのときには、追手の声と足音はかなり近くまで来ていた。
 後ろの方で、何度も先ほどの光が瞬いた。そのたび、ごうっと火が起こり、激しい熱が追いかけてくる。時折アイセルをかばったイゼットは、腕や足、背中や横腹に何度か『それ』を食らった。火傷になっていることは確実だが、彼は無視して足を進めた。
 その途中、熱をはらんだ風に乗って、鉄錆に似た臭いが鼻をつく。何事かと視線を巡らせ、窓枠が焦げた聖院の建物を見た時、彼は愕然とした。かたわらにいるアイセルも、大きく震えて言葉にならない声を上げている。
 かたい地面が血にまみれていた。その上に横たわる、無数の人の躰。そのどれも、まったく動く気配はない。そして、そのすべてに大きな裂傷や刺傷があった。赤にまみれた騎士の制服を見つめ、イゼットは我知らず拳を握る。しかし、遠くに怒声を聞いて我に返ると、次期聖女を顧みた。
「……参りましょう。私たちは、なんとしてでも生き残らなければ」
 沈痛な面持ちでうなずいたアイセルを促して、イゼットは惨状に背を向ける。それでも血のにおいはこびりついて、いつまでも消えてくれそうにない。
 それからどのくらい時間が経った後だろう。がむしゃらに走ったり止まったりを繰り返していたイゼットは、半ばから折れて倒れた柱を見つける。形があった頃の聖院の影と重ねて、すぐに北門が近いと気づいた。このまま逃げ切ろうと足に力を込めたとき、斜め後ろによぎる人影を見た。
 甲高いアイセルの悲鳴が響く。見覚えのある銀色の光が、目の端で瞬いた。
「危ないっ――」
 とっさにアイセルの腕を強くひいたイゼットは、体ごと抱え込んだ。その拍子によろめいて、柱の傍らに背中から倒れる。振りかざされた剣は、ひゅっと空を切ったのち、持ち主の方へ戻る。
 その光景を遠くのもののように見ながら、イゼットは奇妙な違和感を覚えた。アイセルに声をかけ、身を起こし、とっさに相手を突きながらも、頭の中を覆う靄はそのままだった。槍を通してわずかな手ごたえを感じる。その隙に、再び二人は襲撃者たちに背を向けた。
 そのとき、激しい声が背を叩く。
「くそっ、もう少しで石が手に入ったのに!」
 石、という言葉が耳につき、イゼットは足を止めそうになった。慌てて状況を思い出し、走り出す。しばらくして火の手が及んでいない茂みを見つけると、二人はうなずきあってそのただ中に飛び込んだ。
 そこからだと、聖院がいつもより遠く見える。そして、炎と煙が立ち上るさまもよくわかった。あの巨大な建物がゆっくりと崩壊してゆくさまも。
イゼットはすぐに風景から目をそらし、自分の体をながめまわした。改めて見てみると、火傷と擦り傷と裂傷でひどい有様だ。着慣れた上衣もところどころ破けている。特に右腕に傷が多いのは、槍を振り回す方だったからだろう。
 少年は思わず顔をしかめる。自分の状況を認識すると、それまで意識の外に追いやっていた痛みが一斉に主張を始めたのだ。襲い掛かってきたそれにひとしきり耐えた彼は、波が一度引いたところで、主人の様子を確かめた。
 顔面蒼白で、体じゅうに汗をかいている。あちこちに擦り傷はあるが、イゼットほどの負傷はしていない。そのことにとりあえずほっとして、イゼットは彼女に話しかけた。
「もう一つの通路も敵には知られていないようです。このまま進めば、敷地の外に出られるかと」
 そうね、とうなずいたアイセルの表情は険しい。その目がしっかりと自分を見ていることにイゼットは気づいていた。しかしあえて何も言わず、代わりに追手が来るであろう方角に目をやる。
「アイセル様。おそらく敵の狙いは月輪の石です。……アイセル様ご自身ではなく」
「……ええ。でなければ、あんなめちゃくちゃな攻撃をしてくるなんてこと、あり得ないものね。石だけを手に入れて、どうする気なのかはわからないけれど」
 呟く彼女の手が、自然と胸元に伸びた。衣の上から、小さな石を握りしめる。
 月輪の石に何かしら「力」が眠っているということは知っている。しかし、具体的にどのような力かは、聖女本人ですらわかってはいないらしい。それを「彼ら」はどうする気なのか。気がかりはそれだけではない。二人に向かって降り注いだ、火炎と悪意を思い起こす。おそらく彼らは、聖女本人にほとんど価値を見出していないのではないか。
どうすれば、生き残れるのか。せめて幼い主だけでも。傷の主張を聞きながら、イゼットは思考に思考を重ねる。再び、追手の気配を感じ取ったとき――彼はアイセルを振り返った。自分とは対照的な夜色の瞳をまともにのぞきこんだのは、久方ぶりのことだ。
「『通路』への道はご存じですね、アイセル様」
「え、ええ。それは、もちろん」
 戸惑いをのぞかせてうなずいたアイセルに、イゼットは「お願いがございます」と前置きして、切り出した。
「月輪の石を少しだけ、私に預けてくださいませんか」
 アイセルは真っ白な表情で目を瞬く。イゼットは、焦燥が胸中を焼くのを感じながらも、穏やかに言葉を重ねた。
「敵の狙いが本当に石であるのなら、石を持っている者の方を重点的に狙うはず。そうなったら、敵の意識はアイセル様からそれますから、その間に通路を目指して走り抜けてください。今ならまだ、火の手も回りきっていない。間に合います」
 少しずつ理解が追いついたのだろう。アイセルの表情がゆっくりと烈しい色に染まった。顔を凍らせ、身を震わせる彼女は、今まで見たこともない目を従士に向ける。
「イゼット、あなた……!」
 少年は、あくまで静かにうなずいた。
「囮として、私を使ってください。アイセル様」