第四章 崩壊の先へ1

 細く、高く、音がする。背筋をぞわぞわと撫でて不安を掻き立てる。それはさながら、娘の悲鳴だった。どこからともなく奏でられる悲鳴に肩をすくめながらあたりを見回せば、見えるのは岩ばかりだと気づく。風の音が洞穴の中に反響しているのだった。
寒々しい声を聞き流しつつ、イゼットは薄い闇の中で背伸びした。寝起きでまだまだぼんやりしている頭の中が、少しずつ晴れてくる。頭を振って霧の名残を振り払うと、彼はそっと立ち上がった。
 イゼットの頭ぎりぎりに天井がくる狭い洞穴だが、たった二人の旅人が暑さ寒さをしのぐには十分だ。
 同行者をむやみに起こさないようにしながら、洞穴の入り口近くまで行く。膨らんでもったりした荷物に手を伸ばし、引き寄せた。そのとき、彼のそばで黒くて丸い頭の影がもぞっと動く。振り返ると、外套を掛布にしている小柄な少女が寝ぼけ眼でこちらを見上げてきていた。
「うにゃ……」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「いえ……ふつうに起きました……おはようございます」
「うん、おはよう」
 しつこいくらいにまばたきするクルク族の少女に、イゼットはほほ笑んだ。気が抜けるやり取りをしながらも、彼は荷物の口を開けて、中に手を突っ込んだ。葉や小さな袋に包んでいる保存食を取り出して、布の上にひとつずつ並べていった。いまだに眠そうなルーを改めて見やり、ちらりと苦笑いする。
「近くに細い川があったから、少し顔洗ってきたらいいよ。その間にご飯の準備しとくから」
「ふぁ……そうしますね……」
 ルーは、あくびを噛み殺しながら、おぼつかない足取りで洞穴の外へ出ていった。動きに合わせて揺れる赤い衣装は、焚火の炎のようである。去り行く姿を横目にイゼットは黙々と食材を並べていった。
 洞穴の先に広がる風景はどことなく記憶にある。聖都はもう目の前だ。だが、心は自分でも驚くほどに凪いでいた。変な方向に吹っ切れたのか、それとも諦念か。自身のことなのに、よくわからない。
 首をかしげつつも一通り準備を終えて、自分の水筒を振っていたところで、ルーが戻ってきた。先刻より幾分かすっきりとした表情をしている。
「お待たせしました!」
「おかえり」
「そこの川の水、とってもきれいですね」
「飲み水にも使えるよね。出る前に汲んでいこうか」
 嬉しそうにうなずいたルーは、弾むようにイゼットの向かい側に座った。掛布がわりに使っていた外套を荒々しく羽織る。裾が風をはらんで低く鳴った。
ものも揃って、人も揃った。確認したイゼットは「じゃあ、食べよう」と切り出して祈りの文言を口にする。向かいから、まったく違う言葉が聞こえてきた。アグニヤ 氏族 ジャーナ の火の精霊に捧げる感謝の言葉だ。すっかり耳に馴染んでしまった。
 改めて、自分が遠いところへ来た実感を噛みしめながら、最後になるかもしれない旅の朝餉を楽しんだ。
 朝食を終えてもなお、空は暗かった。出立の準備をして馬に乗ったところで、ようやく東方の空がうっすら明るくなる。夜明け前の空を仰ぎ、口もとをほころばせたイゼットは、ヘラールに出発の合図を出した。
「イゼット?」
 後ろからついてきているルーが、怪訝そうに尋ねてくる。若者が妙に急いているように見えたのだろう。彼は馬上で一瞬だけ振り返って、笑んだ。
「日の出までに聖都の近くまでいこうと思って」
「……? なにかあるんですか?」
「うん。行けばわかるから、ちょっと急ごう」
 そうして馬を走らせていると、ほどなくして幅の広い街道に出る。その先、城壁のような壁を備えた都市の影が見えた。二人がその姿を視界に入れたときに、昇った太陽の光が城壁を照らし出す。
 荘厳な石壁と、大礼拝堂の青い屋根が朝日に照らされ、浮かび上がる。
 止まったイゼットの隣で、ルーが深く感嘆の息を吐いた。彼女を乗せているラヴィが、軽く鼻を鳴らす。
「昔一度だけ、聖都に来たことがあったんだ」
 イゼットは口を開いていた。ほとんど無意識で、自分の声が自分の耳に入って、ようやく気がついた。
「そのときに見た、朝の聖都の風景が好きだったから。ルーに見せたかった」
「そういうことですか……」
 ルーは、ちょっと頬を染めてうつむく。イゼットはただ街を見ていたから、彼女がほほ笑みつつも眦に涙をにじませていることを知らないままだった。
 二人ともそれきり、しばらく佇んでなにも言わなかった。曙光が空を覆った頃になって、ようやくルーがぽつりと呟いた。
「聖都って、きれいな街ですね……」
「そう、だね」
 美しい都市の中で待っているのは、決してきれいではない人の情だろう。ぼんやりとそんなことを考えたが、それは今さら足を止める理由にはならない。冷たい空気を吸い込んで、イゼットは都の姿を目に焼き付けた。

 祈りの時間が過ぎると、城壁のまわりがにわかに騒がしくなる。イゼットとルーはそこを逆手に取って、聖都へやってくる人々の中にまぎれこんだ。やはり見渡すと 巫覡 シャマン が多い。だが、イゼットたちとそう変わらない旅人の姿もある。イゼットは城壁の周囲をざっと見渡し、最後に城門に目をとめて、ため息をつきそうになってのみこんだ。
 神聖騎士団の騎士だろう。いかつい男数人が、そのこわもてを周囲に見せつけて検問を行っている。見る限り、そこそこに厳しそうだ。そしてイゼットたちには、検問に引っかかるかもしれない不安材料がある。考えたくはないが――思わず少女の方を顧みた。
「うーん……検問やってますね……。ボクが足引っ張りませんかね……」
 彼女自身も心配しているらしい。太い眉が下がっている。イゼットも少し悩んだが、すぐにかぶりを振って雑念を追い出した。
「まあ、行ってみよう。ここで立ち止まっててもしかたがない」
「そう、ですね」
 不安な顔を一瞬見合わせつつも、人の列にまぎれこんで進んでいく。列の進みは遅いが、流れが止まることは今のところほとんどない。そうこうしているうちに、二人の最前、修行者らしい 巫覡 シャマン が、検問の騎士に恭しく礼をとって過ぎていった。
「次」
 静かな、しかし腹の底に重く響く声で呼ばれる。つかのま顔をこわばらせたイゼットは、けれどなんとか馬を進ませた。騎士の前に立ち、軽く聖教式の礼を取ってから、荷物の中から金属の板を取り出した。縦長の長方形で、鏡のような銀色のそれは、イゼットが前に使った傭兵の身分証ではない。聖都やイェルセリアの首都でも通用する、公的な通行証だ。出発の前の夜、予定を尋ねにきたユタが去り際にくれたものだった。
 騎士はその板を穴が開くほど凝視してから、小さくうなずく。しかし、次に二人の顔を見て、あからさまに眉を寄せた。
 イゼットの少し後ろでルーが身を縮こまらせる。 クルク族 ルー か、それとも 従士 イゼット か。彼の目に引っかかったのはどちらだろう。二人の上に緊張が走った。しかし、騎士はすぐに目をそらすと、姿勢を正して胸に手を当てた。
「よろしい。通りなさい」
 低音が空気を鳴らす。二人は小さく頭を下げ、門をくぐっていく。騎士たちの姿が見えなくなったところで、揃って安堵の息を吐いた。
「あ、危なかった……」
 ルーのことを見咎められても厄介だが、この聖都にあってはもっと厄介なことがある。イゼットが行方不明の従士だと気づかれることだ。忘れていたわけではなかったが、見覚えのない騎士の視線を感じて、初めてそのまずさを実感した。ユタと、ハヤルに感謝しなくてはならない。
「でも、通れてよかったですね。これからどうしましょう?」
 ルーが落ち着きなくあたりを見回しながらも問うてくる。イゼットはとりあえず、街の奥の特に大きな建物を仰ぎ見た。
「とりあえずは、本部の方に行ってみよう」
「がってんです」
 うなずいたルーを見返して、その後思い出したように、イゼットは彼女の名を呼んだ。
「そうだ、ルー。難しいことを言うようだけど……本部のまわりでは、なるべく名前を呼ばないようにしてくれると助かる」
「え? ……あ、そうか。下手に知り合いに見つかると大変ですもんね」
「そういうこと。正式に本部に入れたら気にしなくてもいいけど、それまでは……」
「わかりました。気をつけますね」
 妙に力強くうなずいたルーは、なぜかラヴィの頭を軽く叩いた。牡馬は嫌がっている様子はなく、一瞬振り返っただけだった。
 その様子に軽く笑ったイゼットは、それから自分の相棒に合図を出す。そして馬たちが進んでいく先にあるのは、ロクサーナ聖教の総本山。イゼットの あるじ が待つ場所だ。