第四章 崩壊の先へ11

 走って、走って、走って。ひときわ大きな明かりを見つけて、ルーは足を止めた。体の内側が燃えるように熱い。心臓が暴れている。浅い呼吸の音を聞く。立ち止まって初めて、ルーは己がどれほど必死に走ってきたか気づいた。こめかみのあたりから頬をつたって流れ落ちる汗を指先でぬぐい、彼女は明かりを見上げた。礼拝堂の入り口の篝火である。小さな――田舎の町のそれよりは大きい――礼拝堂だが、静かに燃え続ける火に照らされる姿は十分以上に荘厳さを醸していた。
 ここはどこだろう。ルーはようやく、それを考えた。振り返ると、通りのむこう側に大礼拝堂の影が見えた。先ほどよりも大きく感じる。ちゃんと本部の方へ近づいてはいたらしい。ルーは、ほっと胸をなでおろした。だが、安堵の後には不安の雲がむくむくと湧いてくる。
 ハヤルの言葉が頭の中で反響した。これから聖教本部に行ったとして、自分はいったいどうするのか。どうすればいいのか。イゼットをこのままにはしておけない。それは確かだ。だが、彼を救い出すには、何をすればいい? 自分に何ができる? ルーには、まるでわからない。策の一つも思い浮かばない。行き場のない思いばかりが頭の中で繰り返し回って、ついには彼女の歩みを止めさせた。
 夜の中で揺れる火が、足元に影を生む。うなだれたルーは、影が揺らめくのを見た。自分が自分を嘲笑っているのを見た。
「おろ? 誰かと思えば……ルーちゃんじゃねえか」
 場違いに陽気な声が後ろからやってきたのは、影が少し薄くなったときだった。ルーは弾かれたように振り返る。神聖騎士団の誰かかと、一瞬身構えたのだ。だが、相手の顔を見る前に、違うと気づいた。ルーにここまでなれなれしく接する者は、聖都にはいない。
 ぬうっと、陰の中から人が現れた。大柄なペルグ人の男で、顔には不敵な笑みを湛えている。そのせいか、唇の右下の傷が少し歪んで見えた。ルーの知る、そして久々に会う相手だ。
「デミルさん!? なんで……」
 名を呼ぶ声は上ずった。聖都にいそうもない傭兵は、からからと笑って振り返る。
「いつもの通り、アンダくんもいるぜ」
 彼が言ったそばから、ガネーシュ 氏族 ジャーナ の少年が姿を現す。彼はルーを一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。それきりそっぽを向く――かと思いきや、怪訝そうな表情でルーをながめる。なにかを探すような動きにルーは気づいた。だが、それを言う前にデミルを見上げた。
「あの……どうして二人がここに?」
「んあ? 俺らがシャラクにいちゃだめか?」
「いえ、だめじゃないですけど。聖都とか、あまり好きではなさそうなので」
「まあ確かに、こういう場所は好きじゃない。つーか大嫌いだ。できれば来たくなかったが」
 何を考えているのかよくわからない笑みをのぞかせ、デミルは頭の上の方をがりがりとかいた。
「依頼人が聖都にいてな。仕事の報告でしかたなーく来たのさ。やっと報告が終わったものの、夜になっちまったんで、しかたなーく宿を探す途中」
「はあ……」
 今から宿探しなのか、などと思いながら、ルーは呆けた相槌を打った。デミルの雰囲気と聖都の雰囲気が違いすぎるからか、妙に浮いているというか、こちらが夢を見ているような心地である。しかし、次のデミルの問いでルーは目を覚ました。
「そっちこそ、坊ちゃんは一緒じゃないのか」
 ルーは息をのんだ。落雷のような衝撃に耐えた後、むなしさにかぶりを振る。
 夢なものか。すべて現実だ。デミルとアンダがここにいるのも、イゼットが隣にいないのも。
 とはいえ、イゼットの素性を知らない二人に、何をどう説明したらよいかわからない。説明してよいとも限らない。ルーがしかめっ面のまま黙りこんでいると、それまでずっと視線をさまよわせていたアンダが、急に口を開いた。
「ここ数日、大礼拝堂のまわりがうるさかった。あいつが本当に聖女の従士なら、それに関わってるんじゃないの?」
「おお、なるほど。さすがアンダ」
「って、ええっ!?」
 感心するデミルの向かいで、ルーは転びそうになる。仰天するあまりに口をぱくぱくさせていると、二人ともから不審なものを見るような視線を向けられた。
「うるさい」
「いや、うるさいのはすみませんがそれ以前に! なんで二人が聖女の従士のことなんて知ってるんですか!?」
「え? まじであたり? 俺すげえ」
「すごいのはおまえじゃなくて、ペルグ人の情報網だろ」
 にこにこしているデミルに、アンダが律儀な指摘をする。二人とも変わらないのは結構だが、ルーの疑問には何一つ答えていなかった。彼女が怒って「ちょっと」と再びうなると、なにか言おうとしたアンダを手で制し、デミルが話を始めた。
 いわく、セリン――イゼットの母親はもともと、ペルグ人にとって特別な存在だったらしい。『巫女姫』と彼は呼んだ。その巫女姫はのちにヒルカニア貴族の第三の妻となるわけだが、その後のセリンの情報を、占領地のペルグ人はつかんでいた。デミルは彼らが広めた情報を風のうわさで聞いたという。
「例えば『ほかの妻の嫌がらせがすごいから離れに移された』とか『子どもが生まれた』とか、『その子どもが従士候補に選ばれて聖院に入った』とかな」
「そ、そんな情報、どうやってつかむんですか」
「そりゃつかんだ奴らに訊いてくれ。俺は又聞きしただけだからな」
 デミルは飄々としている。どこまで信じてよいか、ルーにはわからなかったが――彼がイゼットの正体に気づいていたのは事実なのだ。
「……じゃあ、アフワーズの貴族の息子、って聞いたときに、もう気づいてたんですか?」
「おおよそはな。ただ、『聖院に入った』後のことは知らなかったから、従士があんなところにいるのは変だなーとは思ってた」
 ルーは黙った。ますます顔に力が入る。たぶん、眉間のしわが一、二本増えた。不快感をあえて隠さぬ彼女の様子を気にするでもなく、デミルはすっと目を細めた。
「で? その従士殿は今、どこで何やってんの? 穏便に戻ったわけじゃねえんだろ。――じゃなきゃ、ルーちゃんがここにい続けてるのはおかしいもんな?」
 尋問のような、でなければ品定めされているような気配を感じる。前には傭兵、横には小さな同胞。観念するしかないらしい。ルーは、大きく息を吐いた。

 イゼットから聞いた、デミルたちの知らない部分、そして現状。それらをルーは二人にすべて話した。聖都の夜は相変わらず静かだが、前より静けさは気にならない。それよりも気を揉むのは、二人の反応であった。
デミルは腕を組んでしきりにうなずき、アンダは黙って大礼拝堂――本部の方をにらんでいる。二人とも、なにを考えているのか、表面からはうかがい知れない。
「思ったより面倒くさいことになってんなあ」
 ふいにデミルがぼやいた。どこか眠そうな表情だが、両目の光はまだ強い。
「だから聖教には関わりたくないんだ」
「同感」
 目を本部へ向けたまま、アンダが吐き捨てる。デミルがそれに両手をあげて応じた。気軽に見える会話はけれど、どこかぎこちなく響いた。
「しかしまあ」
 なんと続けたものかと戸惑い、黙りこんでいるルーを見やり、デミルがまた頭をかいた。両耳についている銀の飾りが、火の明かりを反射して光る。
「イゼットも難儀な性格してんな。やってもないことで裁かれるとわかってて、わざわざ牢屋に入りにいった、ってこったろう」
「それは――!」
「偉いさんがさっきの話を信じてくれるわけもねえ。加えて今の聖教の勢力図を見れば、従士殿がにらまれるのは当然だ。あの坊ちゃんも、そしてルーちゃんもわかったうえでここに来た。違うかね?」
 なにも返せない。ルーは頬を紅潮させたままうつむいた。そうすることしかできなかった。
すべて承知の上で選んだ道。それはわかっていた。ルーも納得しているつもりだった。納得したうえですべてを覆せないかと、心のどこかで思っていた。だが現実には、暗い都のただ中で立ち尽くしていることしかできない。
「それでも――ボクは、このまま終わることに納得ができないんです」
 ルーはまた、消えない思いを口にした。己に言い聞かせるかのように。アンダはこちらを見ない。デミルは表情を変えない。だが、ややして、長く長く息を吐いた。
「――なら、これからどうする?」
 ルーは顔を上げた。変わらぬデミルと目が合った。ハヤルにも同じような問いを向けられたが、そのときとは違うものが、胸の奥でひらめいた。

 自分には、なにもできない。
――本当に?

 目の前にいる人を見る。
 自分よりうんと力の強い同胞と、得体の知れない傭兵。そして自分。今、この場にいるのは、三人だけだ。
 ルーは唇を結んで二人を見回す。それからデミルに目を戻し――問いかけた。
「デミルさんは傭兵ですよね。傭兵は、お金をもらって戦いをする人のことですよね」
「そうだな。ま、報酬は金だけじゃねえが。要は見返りをもらえれば、依頼に応じて護衛したり殺したり、その他色々するのが傭兵さ」
 ウリグバヤットを四人で歩いたときのことが、鮮やかによみがえった。あのときの感情、会話、知ったこと。思い浮かんだことの中から、ルーはひとつの確信を得た。そして今回のやり取りでわかったこともある。
「なら、ボクがデミルさんに依頼をしてもいいですか」
「……内容と報酬しだいだな」
 アンダが、少しだけ顔をこちらに向けた。デミルの顔はなおも動かない。しかし、その目が一瞬だけ笑ったように見えた。
 ルーは呼吸を整え、姿勢を正し、己の胸を軽く叩いた。
「ボクと一緒に、悪者になってください」
 アンダがやっとまともに振り返った。デミルは「ほう?」と呟き、口の端を歪めてから問うてくる。
「報酬は?」
 ルーは、よどみなく答えを口にする。
 彼女の言葉を聞いた二人は、瞠目し、口を開いて固まった。