第四章 崩壊の先へ16

「あなたがこのような行動に出る方だとは思いませんでした。まことに残念なことでございますな」
 デミルとアンダを一瞥し、騎士は吐き出すように言った。イゼットは眉ひとつ槍先ひとつ動かさず、ただ応じる。
「ええ、私も残念です。あなたがあのように考えていらっしゃるとは思っておりませんでしたから」
 先ほど、彼が男たちに命じた内容を持ち出しての切り返しであった。それがわかったのか否か、どちらにしろ不快感をあらわに、彼は眉を跳ね上げて、それから無表情に戻った。
 音はなく、白銀の光がはしる。騎士が剣を抜いたのだ。美しい碧眼に苛烈な炎がのぞく。
「今ならまだ間に合う。お戻りくだされ、従士殿」
「お断りします。私も自分の身がかわいいので」
 心にもないことを。この場にいる全員でないにしろ、やり取りを耳に入れていた人々は、二人それぞれに対してそう思ったはずだ。少なくとも、イゼットを見ていた三人は、にやにや笑ったり目をすがめたり、無言でかぶりを振っていたりした。
 もちろん、向かい合っている二人は外野の反応など知るよしもない。互いを狙う切っ先だけを見ていた。
 まわりは闇。天には星。風が鳴る。耳元を通り過ぎる、冷気。
 すべてを受けて、先に動いたのは金髪の騎士の方だった。両目が鋭く見開かれ、剣は強く振り上げられる。その動作とともに、敵意がすさまじい激痛となってイゼットの半身を襲った。しかしイゼットは人間特有の理性でもって痛みを無視し、槍を半回転させて剣を弾く。どうしても動きは鈍ったが、甲高い金属音と槍の衝撃に騎士は少しひるんだようだった。その隙を狙い、一息に、三突き。騎士は体をひねり、剣で弾き、頭をねじってそれをかわしたが、最後の一撃は避けきれなかったらしい。右肩から鮮血が激しく散った。その間にイゼットは大きく退いて距離を稼ぐ。今度は打ち下ろされた剣を、微妙にひねった槍の穂先で受け流した。そのままの勢いで一突きするが、これは避けられた。すばやく手の中で柄を滑らせて、槍を引く。二人の間に、また空隙が生まれた。
『あの隙は致命傷を招く』
 ふいに、メフルザードの声が響く。野に下って以降、積み重ね続けた鍛錬と実戦の記憶は、他人事のようにイゼットの中で再生されていた。
 容赦のない相手なら、すかさず突きにくるような隙。それをどうしてもイゼットは生んでしまう。痛みは今なおそこにあり、おさまるどころか強くなっている。そのうち右腕の感覚がなくなるのではないか、と錯覚するほどに。
――それがあるならば。それを逆用すればいい。
 隙ができるのならできるなりの、戦い方があるはずだった。
 今度はイゼットの方が動いた。鋭い突きを連続で繰り出す。痛みのせいで動きは大ぶりになるが、あえて構わなかった。体をかがめて攻撃をかわした騎士は、そのままイゼットとの距離を詰めてきた。彼が大きく槍を回転させると同時、剣が光となって動く。後退しようとするがわずかに遅く、横に滑った刃がイゼットの胴を裂いた。飛び散った血のしぶきは夜を赤く染め上げる。浅いとはいえ傷は傷。血の喪失と実感をともなった痛みを、それはイゼットにもたらした。だが彼はひるまない。――目に見える傷にも、見えない痛みにも、とっくに慣れた。
 騎士がさらに踏み込もうとしたとき、イゼットは再び柄を滑らせた。石突の少し上を持った彼は、それをそのまま振り下ろす。速度をもって下ろされた石突が金色のこめかみをかすり、左肩を強く打った。騎士はうめき声を上げて動きを止める。震えた手から剣が滑り落ち、甲高い音が鳴る。
 若者は、そのすべてを見届けずに身をひるがえした。うなるような罵声と物騒な音が追ってくる。もう一人の騎士か、それとも先ほどの彼が這いずって追ってきているのか――ちらりとイゼットは考えたが、振り返ることはしない。足を進めることに全神経を集中させた。そうこうしているうちに、追ってきていた音が消える。代わりに彼の隣に現れたのは、小さな相棒だった。
「このまま抜けましょう、イゼット!」
「了解」
 元気のいいルーと並んで、岩と細い木が交互に立つ道へと入っていく。やや遅れて、デミルとアンダも追いついてきた。アンダはいつもの仏頂面だが、デミルはなぜか満足げな表情である。誰も、その理由を深く尋ねようとはしない。今はただ、視線を交わしあう。そうして彼らは騎士たちに背を向け、夜陰の中に飛び込んでいった。

 デミルたちの言っていた「無人の小屋」がどこかは、しばし経ってわかった。隊商宿の跡地だろうか、開けた場所に名残のような小屋が建っていて、そこにラヴィとヘラールがいたからである。馬たちはそれぞれのご主人を見つけると嬉しそうにする。
「ラヴィ、お待たせしました」
 ルーはすぐさま駆け寄って声をかける。反応したラヴィにもう一言話しかけてから、嬉しそうに彼の首を軽く叩いた。
 イゼットの方は、ルーと違い、待ってくれた馬をねぎらうことができなかった。それどころではなかったのだ。敷地に踏み込むと同時に、足を止めてうずくまる。とっさに槍を立てて支えにしたが、それすら危うかった。
 今まで無視できていた右半身の痛みがどっと襲いかかってくる。頭の中が、真昼の砂漠に放り出されたかのように熱かった。
 明かりが灯る。デミルが 行灯 ランプ かなにかに火を入れたらしい。
「おいおい。坊ちゃん、真っ青じゃねえか」
 イゼットは応じようとしたが、すぐに口を閉ざした。吐き気がこみ上げる。胃がひっくり返りそうな不快感があって、それはいつまでもおさまらなかった。『もの』を出さなかったのが奇跡に近い。
「今にも倒れそうだぞ、こいつ」
「本当に倒れられる前に運び込むか。傷の手当てもせにゃならんし」
「ボク、道具用意しますね」
 三人のやり取りを遠くに聞きながらも、イゼットは体を前に進めた。小屋の入り口までは歩いたが、その先は無理だった。デミルに引きずってもらって小屋の奥で横になる。そこへちょうど、ルーがやってきた。それがわかるのも元気な声と気配を感じたからで、人の姿やまわりの景色はまともに見えていない。にじみ出る嫌な汗を感じつつ、目を閉じる。世界が遠く、ぼやけていた。今回の傷ていどなら自身で手当てができるのに、今はもう指の一本も動かせない。茫洋とした光と、色と、声と。それから、つんとした薬のにおいを無防備に取り入れて。イゼットはそのまま、眠りの泥濘に沈みこんだ。

誰かの声がする。
『我々は、かの世界に干渉すべきではない』
 その声は、幼い頃につけられた家庭教師を連想させた。それほどに心がこもっていなかった。
 いや、もしかすると、それ以上かもしれない。
『しかし、あれはかつての同胞が生み出した歪みだ』
 文章を読み上げるがごとく。
 一切の心というものが欠落した声が。
『ゆえに、我々が消し去らねばならぬ』
 告げる。
『そのための物が必要だ。それを、おまえに任せる』
『僕は、あれを扱ったことはあっても、作ったことはありません』
 別の声がした。
 やはり心のない声は、しかし、幼い子どものようだった。
 かみ合わない。それが恐ろしい。
『しかしそれはおまえにしか作れぬものだ。我々の中で最も力の強いおまえだから、命ずるのだ』
 また、もとの声が響く。
『道具を作り、それをかの世界にもたらせ――他の“使い”と同様に』
『わかりました』
 やり取りには、最後まで、情がともなわなかった。

 イゼットは、はっとして顔を上げる。一面の白。すべての光を弾く色が、目に飛びこんできた。まぶしさによろけた彼は、短い下草にしりもちをつく。
「どこだ、ここ」
 漏れ出た声は、いやに反響した。頼りなく、そして気味が悪い。
 あたりを見回す。ひたすらに白い空と草原ばかりがあった。終わりも、始まりも、境界も見えない。
 なにも、ない。
 ひどく恐ろしかった。
 震えあがりそうになるのをなんとかこらえて、立ち上がる。そのとき、数歩分先に光るものを見た。石のようだった。その形から最初、『月輪の石』ではないかと思った。しかし違う。なにかが違う。
 もっと近くで見たかった。なにが違うのか確かめたい。見て、触れて、考えたい。
 なのに、できない。
 いつになく心が縮み上がって、足を踏み出すことすら、できない。
『道具を作り、それをかの世界にもたらせ』
 知らない声が、頭の中で反響する。
 知らない。なのに、知っている気がした。
 聞きたくなかった。知りたくなかった。
 そんなことのために人を弄ぶなと、怒れたらどれほど楽だっただろう。
 うめいた。泣き叫んでしまいたかった。
 再び座り込みそうになったとき。初めて、人の気配を感じた。
「大丈夫か」
 静かな声が降る。顔を上げると、知らない青年がこちらを見下ろしていた。鍛えた体、若いながら老成した雰囲気を醸す美貌、そして黒い髪に、蒼紫の瞳――。
 イゼットは息をのむ。その色彩を、彼は知識で知っていた。イェルセリア古王国の王族の、色。
 青年はイゼットの動揺を知ってか知らずか、眉一つ動かさず、手を差し伸べてくる。
「立てるか?」
「あ、はい……」
 イゼットは驚きも疑問もつかのま忘れ、青年の手を取った。ふらふらしながらも立ち上がる。青年はその手をひいて、光るものの方へ歩き出した。その足取りには迷いがない。
「おまえが今、何を感じているのか……あるていど想像はつく。怒るのも当然だし、むしろ怒るべきだ」
「あの」
「だが、今のままではどのみちおまえ自身の体が壊れてしまうからな。それは、よろしくない。おまえもそれは望まんだろう」
 彼が何を言っているのか、イゼットにはあまりわからなかった。それでも、自然とうなずいていた。そうしているうちに、光るものの前にたどり着く。丸い宝玉のようであるそれは、光っているのと、白い空に同化しているのとで、形も色もわからない。それを見て、青年が目を細めた。
「やれやれ。聖女の従士がこの立場とは……世の中わからないものだな。それは俺も同じだが」
 なぜ彼がイゼットのことを知っているのだろうか。疑問が頭をかすめたが、それを口に出す前に、青年が光るものを指さした。
「さあ、触れてみろ。こういうのは、『存在』を知るところから始まるんだ」
「触れて……大丈夫なんでしょうか、これ」
「大丈夫。少なくとも火傷はしない」
 軽く笑いながら言う青年に背を押され、イゼットは光に手を伸ばす。ややして、かたい感触と冷たさが伝わる。表面に、五指が触れた。その瞬間、光の洪水が視界いっぱいに押し寄せる。
「うわっ……」
 自分自身の叫びが終わるより前に、世界が遠のきはじめた。秀麗な顔に微笑を浮かべ、背を向ける青年の姿が遠くに映る。イゼットは、思わずそちらに手を伸ばしていた。
「待ってください! あなたは、いったい――」
 声は、最後まで響かない。
 視界は光に閉ざされる。
 しかし、すべてが消える直前に、彼の声がはっきりと聞こえた。
『俺は、理を外れた亡霊――その、残りかすのようなものだ』