第四章 崩壊の先へ18

「――そうか、それだ」
 ファルシードが、淡白な表情のまま指を鳴らす。アンダが彼に、すがめた目を向けた。
「こいつの言うことを信じすぎない方がいいぞ。雑に生きてる人間だから」
「重要な手がかりであることには違いない。聖教以前に伝わっていた話、ってところが特に」
 文書管理室の青年の言葉に、人々は顔を見合わせる。
「その話をたどって調べていけば、月輪の石のことがわかるかもしれない、ってことか」
「うん。少なくとも、月輪の石が割れる現象は、何度も起きていることなんだ。その原因、そして今までどうやって『替え』の石を調達していたか――この二つが解明できれば、本部の態度も変わるかもしれない」
「あんたの探してきたこれじゃ、だめなのか」
 アンダはぶすっとした様子で、散らかしたままの紙を指さす。今、ちょうど、ファルシードはそれを束ねなおしているところだ。彼は手を止めぬまま、かぶりを振る。
「言っただろう。『会議』で証拠として採用されなかったって。この資料は価値あるものだけど、それだけでは弱いんだ。聖教本部の人間なら、いくらでも解釈を変えることができるのだしね。文書管理室でさえ、例外じゃない」
「ファルみたいな人の方が、珍しいんだよなあ」
 イゼットが笑って言うに、アンダが湿っぽいまなざしを向ける。小屋の中に流れる奇妙な空気を意にも介さず、ファルシードが言葉を続けた。
「一番いいのは、御使いご本人に出てきてもらうことなんだけどね」
「聖教徒が聖教に喧嘩売ろうってか? 思い切ったことするねえ」
「聖教を否定するつもりはありませんよ。月輪の石とイゼットの件に関しては、正しい対応をしてもらいたいだけです。昔は聖教の中でそれができていたのだから、おかしなことではないでしょう」
「物は言いようだな」
 デミルが傷を歪めて笑う。紙束をまとめなおして、床で端をそろえている青年の表情はほとんど動かない。少なくとも、気を悪くした様子はなかった。
「そういえば、イゼットはこれからどうするつもりなの?」
 小屋の壁にもたれているイゼットを見やり、ファルシードは小首をかしげる。イゼットは、少し悩むふりをして、曖昧に笑った。
「とりあえず、ルーの修行は見届けるつもり。その後どうするかは、まだ決めてない。けど、そうだな、さっきの話を調べて回ろうか」
「家には顔出さなくていいのかい」
 デミルが、大剣を研ぎながら口を挟む。必要ない、という意味でかぶりを振ったイゼットは、己の両手を広げて、じっと見つめた。
「……顔を出すべき相手が、もういませんから」
 空気がひび割れた。イゼットが顔を上げると、少し顔をひきつらせたファルシードと目が合った。その表情を見て確信を得た彼は、笑顔を作って手を振る。
「ファルが持ってきた情報のふたつめは――母上のことだろ」
「知ってたんだ」
「拘留場に行く前に、シャーヤール兄上にお会いしてな。そのときに聞いた」
 剣の音に負けないよう、意識して声を張る。本当のことを言うと、ファルシードはさらに目を開いてから、眉間にしわを寄せた。
「それは……最悪だな」
「だろ?」
 うなるように呟く友人の声は、今まで聞いたことがないほどに低く濁っていた。これほど彼の内心があらわになることはめったにない。両目をしばたたかせたイゼットは、次の時に噴き出した。母のことで沈んでいた心が、ふわりと軽くなった気がする。
 お互いの世界でわかりあう二人を、残る三人は怪訝そうに見ていた。そのうち、ルーが口を開く。
「えっと、なんの話ですか?」
 その声が震えていることに、きっとルー本人は気づいていない。イゼットとファルシードは、顔を見合わせる。音のない問答が行われて――ルーに目を向けたのは、イゼットだった。
「母上が、亡くなられたそうだ」
「えっ」
 ルーは声を上げたきり、固まってしまった。言葉を探すように唇が動いているが、実際にそれが形になることはない。
 金属の音が、止まった。戦争屋の男が、剣を研ぐ手を止めて顔を上げていた。
「そりゃ本当か。まだ体を悪くするような年じゃないだろう」
「ええ。しかし、最終的には季節の病が悪化して、亡くなられたそうです。どうも、それ以前から体調を崩されていたみたいですね。あくまで噂話の又聞きですが――」
 そこまでは流ちょうに話していたファルシードが、ふいに言葉を止めた。口そのものが、凍りついたかのような反応を、残る人々はいぶかった。明らかに躊躇した彼はしかし、続きをしぼり出す。
「聖院の襲撃事件の報がアフワーズに流れた後から、病気がちになったとか」
 誰かが息をのんだ。全員の視線がイゼットに集まった。むろん、そこに他意はなく、無意識のことであったはずだ。しかし、イゼットは、視線を意識せずにはいられなかった。心が軋むのを無視できなかった。
「イゼット」
 いつもどおりの、友人の声が響く。
 彼の目は、まっすぐにイゼットを見ていた。
「あえて言うよ。君のせいじゃない」
「ああ。わかってる」
 一度、断言してから、イゼットは己の影を見た。こぼれ落ちてきた前髪を、左の指で乱暴につかむ。
「わかってる、つもりなんだけどな」
 かすれた音はそれでいてなお強く、聞いた者の心をひっかく針となる。
 針先はむろん、音を発した者にも向いた。

 火は消した。だから、外へ出た。
 凍てつく空気は、ゆえに澄み切っている。天に雲はひとつもなく、散らばる星とりょっぴりふくらんだ月がよく見えた。
 イゼットは空を見ている。小屋のかたわら、槍を左のわきに抱えて。いつかにも、こんな時間があった気がする。不確かな思い出は、水中に沸き立つ泡のごとく、浮かんで弾けた。
 我知らず、腹をさする。そことも違う、もっと深いところにモノがわだかまっているのを感じた。太陽のようなぬくもりと、雪のような冷たさを併せ持つそれは、まるでこちらの心をあざ笑うかのように揺れている。
「眠った方がいいと思うけど」
 淡白な声が、ふいに響いた。それまで静まり返っていた地上を、足音が揺らす。イゼットはゆっくりと振り返り、肩をすくめた。
「そっちこそ――二人して出てきて、どうしたんだ」
 悪意はなく。ただ、からかうように言うと、小屋から顔を出したファルシードが、真顔で小首をかしげた。その陰には、クルク族の少女がいる。
「ルーがそわそわしてたから」
「すみません」
 うなだれている彼女の耳は、ほんのり赤いが、夜の中にいる人々はその変化に気づかない。ファルシードはルーの手を引いて歩いてくると、そのまま当たり前のようにイゼットの隣に座った。
「おまえこそ、戻らなくていいのか?」
「戻ろうと思っていたところだ。けど、伝え忘れたことがあったのを思い出した。伝言だ」
「伝言?」
 イゼットが首をかしげると、ファルシードは、す、と指を二本立てた。そのうちの一本、中指を折り曲げる。
「まず、ハヤルから。『こっちはこっちでできる限るのことをする。だからおまえ一人で無茶をするな、抱え込むな。おまえが元気でいてくれたら、それでいい。猊下のことは任せておけ』。それと『ルーに謝っとけよ、馬鹿野郎』だってさ」
「――『ちゃんと正直に話して怒られました』って伝えておいて」
 思いがけない言葉に胸を突かれる。それを押し隠して、イゼットは両手を挙げた。それを見、ファルシードは淡白な視線をルーに向けた。彼女は「おあいこ、ですから」と元気に言う。彼女の言動に苦笑してから、青年は「わかった」とうなずいた。
そして、人差し指を折る。
「もうひとつ。猊下から」
 しん、と。天地が穏やかに冷える。イゼットは静かにその先を待った。
「『私は大丈夫。だからあなたは生き延びて。あなたが少しでも多く笑っていられることを願います。どうか、気に病まないで。何があっても、何を言われようとも、私の従士はあなただけ。そのことに、変わりはありませんから』」
ファルシードは低く、ささやくように言った。その声は、彼ら三人の中にしか響かない。
 ルーが息を詰める横で、イゼットは瞑目する。
 これはこれでいい、と思う一方で、アイセルを置いて逃げてきてしまったことに、苦みを感じてもいた。割り切れるものではなかった。
 彼女は自分の従士がどう思っているのか、わかっていたのだろう。思い切って逃げ出した先で、それでも葛藤していることを。許しを得たからと言って、それですべてが消えるわけではない。だが、それも全部承知の上で、あえて伝言をファルシードに託した。
 主人の姿を思い浮かべる。
 かつてより背が伸びて、大人びた顔つきになった少女。
 けれど気が弱いところは、だからこそ背伸びしがちなところは変わらない。
「お許しください。私は一度、従士であることを捨てます。しかし、この先もずっとあなたの従士であることは変わりません」
 ここにいない、彼女に向けて、ささやく。
 直接届くことはない。それでも。
「あなたは決して孤独ではない。どうかそのことを、忘れないでください」
 目を開く。静かなままの青年に、ほころんだ顔を向ける。
「そう、伝えておいてほしい」
「――わかった」
 ファルシードはただ、受け入れた。それがたまらなく、ありがたかった。
 深く、深く息を吐く。それからイゼットは、友人と相棒を見た。陽の色の瞳に、感傷の影はすでにない。従士であり、一人の若者である彼が、ただ在った。
「それからファル。さっき俺たちに話したこと……あれは猊下にもお伝えしたのか」
「いや。これからだ。まずは、君たちに知らせるのが最優先だと判断した」
「そっか。なら、それと一緒に俺がこれから話すことも、伝言として持っていってくれないか」
 ファルシードは少しふしぎそうにしたが、うなずいて、前のめりになった。
 イゼットは口を開く。それこそ、二人にしか届かぬように言葉をつむぐ。
「月輪の石は、おそらくファルの言ったとおり、『浄化』に関係がある。けど、石はおそらく本体じゃない。あくまで、その力を収めるための器の一つ」
 禁忌に触れている。そう感じていた。
 自分は今、暴いてはならぬものを暴いているのだ、と。
「そしてもう一つの器が――人だ」
 軽く、拳をにぎって、自分の胸に置く。
「本体は、人の中に入っているんだ。歴代の聖女たちは、おそらくそれを受け継いできた」
「ちょっと待って……」
 ファルシードの顔が、青白い。夜だからそう見えているというわけでも、ないのだろう。
「どうして君が、そんなことを知ってるの」
「『それ』が俺の中にあるから。そして『それ』が知らせたから」
 白い空と草原。光を放つもの。みずからを亡霊と名乗った、王家の色を持つ青年。夢のようであった出来事の色彩は、イゼットの中でもだいぶん褪せている。だというのに、なぜか、それがあったという事実だけはくっきりと覚えているのだ。頭の中に直接、情報を叩きこまれたみたいに。
「とにかく、本来なら猊下が持っているはずの力が俺の中にあること。それと六年前の事件が大きく関係しているかもしれないこと。これは、伝えてほしい」
 イゼットが念押しして言うと、ファルシードは青ざめたままで「了解」と応じた。そこでようやく、場の空気がゆるむ。それは、今まで黙って聞いていたルーが、うあぁ、とうめいて頭を抱えたからかもしれない。
「なんだかややこしいことになってきましたね……もうボク、頭が爆発しそうですよ」
うなるように呟き、マグナエのない頭をかく姿は正直そのものだ。だからイゼットも、思わず笑って、ぼろを出した。
「俺もだよ。知らされた、とは言っても、俺自身まだ把握しきれてないんだ。うまく説明できないけど……俺が知らされたことは、まだぼんやりしていて、感覚的なものなんだよ。だから、ルーの修行が済んだら、裏付けを取るためにも月輪の石のことを調べてみる。聖教がどうとか、猊下がどうとかという以前に、俺自身のためでもある」
 本来は、人が扱えるような力ではないのだろう。その思考は、数日前のアイセルの呟きと結びついた。人の身に余る強大なもの。それはもしかすると、聖教だけでなく彼の『体質』にも関わっているかもしれないのだ。すべては推測に過ぎない。忘れられた伝説の影に眠る真実は、いまだ輪郭すら持たぬ。イゼットは、これからそれを探るのだ。彼が、彼であり続けるために。
「なら、僕たちは僕たちで調べてみる。猊下もそうおっしゃるはずだ。ロクサーナ聖教の聖女としても、彼女自身としても、見過ごせることではないから」
「ありがとう。けど、危ない橋を渡るのは、ほどほどにしてくれよ。ファルたちがいなくなったら、意味ないんだから」
「どの口が言うんだか」
 ファルシードの手が伸びて、またイゼットの額を小突く。光がまた、瞬いた。だが今度は、ふらつかなかった。笑ったように、目を細めた。

 それからすぐ、ファルシードは聖都の方へと戻っていった。無事にたどり着ければいい。そう願う。彼のことに関して、イゼットたちは願うことしかできない。それ以上に、やるべきこともある。
 空が明るくなりはじめた頃、イゼットたちは小屋を出た。馬を走らせ、聖都が見えなくなったところで、デミルたちとは別れた。次会うときは――ルーの修行が済んだときだろう。
 二頭の馬が、急峻な地を駆ける。その背には、若者一人と少女一人。彼らの歩みを追うようにして。あるいは逆に、彼らを導くようにして。空は移ろい、世界は光に満たされる。
 一条の光が差した。それは瞬く間に、二筋、三筋となって、やがては大地を包みこむ。
 ヘラールの手綱を取り、馬上で体を保ちながらも、イゼットは顔を上げた。紺碧の空に、黄金色の 紗幕 ヴェール が広がる。
 夜明けだ。
 大きく息を吸う。馬の腹を叩く。そしてそのまま、走る。
「ルシャーティ!」
 前を向いたまま、イゼットは相棒の名前を呼ぶ。
「はい!」
 元気のいい声は、右斜め後ろから返ってきた。
 色の変わる空と山影。それから顔をそらさずに、若者は笑う。
「もうしばらく、よろしくね」
 そのとき、彼女がどのような表情をしていたか、イゼットは知らない。それでも。
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします、イゼット!」
 返った声は、何よりも鮮やかでまぶしい、喜びに彩られていた。
 朝を迎えた世界を彼らは進む。
 目指すは、北東。『雲と雷の修行場』があるという、国境の山だ。

 移り変わる空の下。少し高いところから、シャラクの方を向いている影があった。一頭の馬。それに騎乗する人、一人。その後ろには、旅の荷物だろうか、袋がくくりつけられている。その大きさは、彼の顔ひとつと半分ほど。
 聖なる都を睥睨する彼は、まだ若いように見えた。鼻は高く、目は細く。暗い色の瞳は、人によっては神秘的と感じるであろう悪戯っぽい光が宿っている。町娘が熱を上げそうな整った相貌を持つ彼は、乾いた風に黒髪を遊ばせたまま、じっと聖都の方を見ていた。
 その沈黙を硬質な音が破る。
『……聞こえているかな』
 感情を伴わない奇妙な声が、反響して響く。まわりに、彼以外の人はいない。それでも彼は、うっすらと笑んで声にこたえた。
「聞こえてるぜ。シャラクの外にいる」
『そう。ちょうどよかった』
「その口ぶりだと、お仕事の時間ってやつか。それとも嬉しいお知らせかな?」
『両方』
 彼は、姿のない者と会話を続ける。美貌のわりにふてぶてしい様子を見せる彼は、短く歌を口ずさみ、それから相手をうながした。
「何を感じ取ったんだ」
『“月”が目覚めた。昨晩から気配を捕捉している』
「ほう? で、その宿主がここらへんにいるのか」
『そう。僕が誘導するから、気づかれないように追ってほしい』
 淡々と来る要求に、彼は再び口の端を曲げた。手綱を持ち直す。
「また、難しいことをおっしゃる。だが、まあ、やってみよう」
 言い終わるなり、道の方を向く。馬の腹を蹴って、駆け出した。
 東から陽光が照りつける。星彩の下の夜は、遥か遠くに去っていったのだ。ここからまた、生ける者の時間が始まろうとしていた。