第一章 雲と雷の修行場4

『灰の泉』はさほど大きくなく、かたわらには狭い道がのびている。泉の前に馬を止めてすぐ、ルーは左を指さして、小首をかしげながら何事かを呟いた。先ほど見かけた標識の確認でもしているのだろう。
 一方、イゼットとアーラシュは手早く水を水筒に汲み、隣で馬たちに泉の水を飲ませた。危険だらけの山の中、休憩は必要といえど、長居は無用である。人馬の水分補給が済むと、山の珍客たちは泉を視界に入れたまま、ゆっくりと動きはじめた。
「灰の泉を左に回れ……って、あの道に行けってことでいいんだよな?」
「そういうことだと思う」
「です」
 先ほどのルーと同じように指さし確認をするアーラシュに、イゼットは曖昧にうなずいた。その横で、ルーは力強くうなずく。
 律儀にも泉の左側へ馬と足を進める三人は、泉の青色が背後へ消えるまで無言だった。言葉を発してはいけない、あるいは、注意を怠ってはならないという奇妙な緊張感が、彼らの中にあったのだ。
 そうして、人ひとり通るのがやっとの道へ踏み入ったとき、ルーがまた声を上げた。
「あ! 見つけました」
「今度は……岩に彫ってある?」
 泉のそばに佇む岩を白い指が示す。それに気づいたイゼットも、ヘラールを止めて頭を軽く傾けた。壁画のように彫られている『もの』をまっさきに把握したのは、今度はアーラシュである。
 地上からそれを見た青年は、乱暴に頭をかいた。
「こりゃ……これも、矢印か?」
 彼が妙にうわずった声で呟いた、その内容をよく見ようと、イゼットたちは身を乗り出していた。彼らに向けて、アーラシュは手振りも交えて内容を伝える。
「上向きの矢印しかないぜ」
 荒れてかさついた人差し指が、真上を示した。つられて、イゼットとルーは上を向く。しかし上には空しかなく、またかかりはじめた鉛色の雲ばかりが見えた。それ以外、変わったところはなにもない。
 三人は、無言で首をかしげあう。しかし、直後に馬たちがそわそわしだしたので、我に返った。ルーの顔つきが一瞬で険しくなる。耳をそばだてた少女は、潜めた鋭い声を放った。
「まずい――なにか落ちてきます!」
 突然の警告とその内容に、アーラシュが「はあっ!?」と戸惑いの声を上げる。彼を横目に無言で手綱をにぎったイゼットは、あいた方の手で古い友人の腕を強引につかんだ。アーラシュはつかのま顔をこわばらせたが、すぐに両腕をイゼットの胴体に回し、軽快な身ごなしで雌馬に飛び乗る。一連の出来事は、数を二つ数える間に起きた。
 馬たちが走り出す。それと、背後から低い音が響いたのは、ほぼ同時のことであった。ずずず、と重いなにかが滑るような音、それは次第に、地鳴りへと変わっていった。
 なにかが崩れた。それは雷鳴のような音からも、風に乗って吹き付けてくる砂塵からも知れる。
 馬たちは、なおも落ち着かない。しかし、一応災いのもとから離れているおかげか、かろうじて人間たちの指示を呑んでくれていた。
 互いの声も聞き取れないほどの音に覆われて、ぎりぎり馬で動けるかどうかの不安定な地面を走る。山はかすかに揺れていて、ときどきルーが体勢を崩すこともあった。
 すべてがおさまった後、イゼットたちはようやく背後を顧みて、無言になった。自分たちが来たばかりの道を、ごろごろと丸い落石がふさいでいる。石の大きさはさまざまだが、小さなものでも人の頭ひとつぶんはあった。
「おっかねえや」
 アーラシュが、かろうじて、という様子で呟いた。それは、ほとんどうめき声のようなものだったが、ぶきみに静まり返った山中にはよく響く。
 イゼットは、ため息をのみこんでかぶりを振った。
「……とりあえず、来た道は戻れなくなった」
「まあ、引き返すつもりはないので大丈夫だと思います。けど、こういうことが頻繁に起きるとすごく疲れそうですね」
「勘弁してくれ。こっちの身がもたねえわ」
 心細げな顔で豪胆なことを言うルーを見やり、アーラシュが首をすくめる。一人のときじゃなくてよかった、と彼が呟いたのをイゼットは聞いたが、それについて言葉を挟むことはしなかった。そのかわり、無意識のうちに頭を抱えていたが。
「にしても、さっきの矢印のことはもう少し考えたかった」
「上、上ですよね……」
 ラヴィをなだめながら、ルーが神妙に考えこんでいる。イゼットは、アーラシュに馬から下りてもらった後、彼女が頭から湯気を出しそうなほど悩んでいるのに気がついて、また上を見た。
 落石があったばかりの岩壁は、そうとは思えないほど重く沈黙している。軽く見上げただけでは、縞模様のできた壁がえんえん続いていることしかわからない。しかし、さらに頭を上げたところで、イゼットは違和感をおぼえた。
 崖になっている岩壁。その上に、何やら影が見えた。木ではない。人工物のような、四角いものだ。彼はとっさに頭を戻す。ヘラールが一瞬、こちらを見た気がした。
「ねえ、ルー」
「ひゃい?」
「あれ、なんだろう」
 よほど集中していたのか、変な声を上げたルーは、イゼットの指さした方を見て、目玉がこぼれ落ちそうなほどに瞠目した。
「あれ……たぶん石板です」
「石板って」
「『まっすぐ進んで、灰の泉を左に回れ』って書いてあったのと同じものです」
 つまり、次の行き先を示す標識ということだ。それを聞いたアーラシュが、胡乱な目で崖の上をにらみつける。
「こんなところに、遊びみたいな細工しやがって。昔のクルク族ってのはどういう神経をしてるんだ?」
 まったく同感であったが、イゼットは唇を笑みの形にしただけで、なにも言わなかった。
「ご先祖ですからしかたないですね。ちょっと確認してきます」
 微妙な空気を共有する男たちの横で、ルーがマグナエを外している。表情はすでに、気合満点のときのそれだ。イゼットはむろん、止めようとはしない。今さら止める気はなかった。
「気を付けて。一応下で見てるから」
「ありがとうございます! ラヴィも、ちゃんと待っててくださいね」
 ルーはラヴィから意気揚々と飛び降りる。岩壁に駆け寄ると、しばし表面を観察し、出っ張りを見つけ出してそこに足をかけた。
「では、行ってきます!」
 振り向いて、拳をにぎりながらそう言い残した彼女は、そして軽々と壁をのぼっていく。以前の修行場で似たような経験をしたからか、今度のイゼットは落ち着いて少女を見送ることができた。
 どんどん小さくなる姿。それを、目に焼き付ける。見えなくなっても道筋を追う。万が一なにかあったときに、すぐ動けるように。
「なあ、イゼット」
 横合いから声がかかる。アーラシュだ。
「今さらだけど、止めなくてよかったのか? クルク族とはいえ、落石があったばかりの壁をのぼるとか……」
「ルーだから大丈夫なんだよ。それに、止めて聞く子じゃないからな」
 イゼットは笑う。そこには屈託もなにもない。アーラシュはもの言いたげな表情で、けれどひとつうなずいて、岩壁を見上げた。冷たい風が髪をなでる。
 イゼットはふと、自分がまったく気まずさを感じていないのを自覚して、首をひねった。どういう心境の変化なのか、逆に、どうしてあのときはあれほど心が乱されたのか。自分のことなのにわからない。
 それぞれが無言で思い悩んでいるうちに、ルーが戻ってきた。彼女もまた、困った顔をしていた。何を見つけたのか、慎重にイゼットが尋ねると、ルーはしょぼくれた子犬のようにうなだれたまま、ささやいた。
「この山を越えるんじゃなくて……もっと上に登らないといけないみたいなんです……」
 イゼットとアーラシュは、思わず顔を見合わせる。少女にかける言葉は、とっさには出てこなかった。
 時は、おそらく昼を過ぎかけた頃。黒い雲が西方より湧き出して、また蒼を覆い隠そうとしている。