第二章 ルシャーティの修行6

 デミルとアンダが休息を終えた頃には、世界はすっかり日暮れの色に染まっていた。四人は緊張感と倦怠感をそれぞれに抱えながら、隊商宿の外に出る。
 先導するアンダはずっと無言だ。すぐ後に続くルーも、厳しい表情で黙りこくっている。広大な平野に足音だけが響いた。
 やがてアンダが足を止めたのは、隊商宿跡の外れ。赤い大地のほかに、なにもない開けた場所だった。ルーとアンダが向かい合う。イゼットとデミルは、黙って二人から距離を取る。
 相棒のどこか冷たい横顔を見ながら、イゼットは槍を握りしめる。金属の柄が光を反射し、橙色に輝いた。蒼穹を仰ぎ見る。西の果てに、 太陽石 ヘリオライト のような夕日が浮かんでいた。さえぎるもののない陽光は、まっすぐに人間たちを照らして、濃い影を伸ばした。
 その光にひるむこともなく、アンダは大きな目を見開いてルーに向き合っている。しばらくは彫像のように立ち尽くしていたが、やがてそっと口を開いた。
「……約束だ」
 繰り返しのような言葉に、ルーは静かにうなずいた。
「決闘ですね」
「そう」
「始めましょう」
「いいんだな?」
「もちろん」
 短いやり取り。そこに籠る感情を読み取ることは、イゼットにはできない。炎のような光を透かして輝く白皙と、ただ強い黒瞳を、声を発することなく見ていた。
 少女と少年の間には、二人だけの時が流れている。まるで、そこだけが音も景色も遮る壁に囲われてしまったかのようで。
 ややして、少年が短く息を吸った。ふだんの振る舞いからは想像のつかぬ、朗々とした声が響く。
「我、ガネーシュ 氏族 ジャーナ の戦士ヴァサントの息子、アンダレーダ」
「我、アグニヤ 氏族 ジャーナ の戦士ジャワーハルラールの娘、ルシャーティ」
 仰々しい名乗りに、ルーもなめらかに応じた。
 イゼットは、服を引く感覚に気づいて顔を上げた。無意識のうちに、左手が、右腕の袖を握りしめていたのだ。刻まれた皺を気にするより先に、震えが走る。
「風の精霊に誓い給う、不屈と貫徹を」
 自分がここにいてはいけない。そう思うのに、体が動かない。
「炎の精霊に誓い給う、誠実と奮戦を」
 誓いの口上が終わる。二人は再びにらみ合う。戦いの前とは思えぬほど、その表情は凪いでいた。
「いざ――」
 夕日色の視線が、剣先のごとくからみあい、そして。
「――参る!」
 重なった一声とともに、二人の狩人が地面を蹴った。

 空が、大地が、雄叫びを上げた。
 イゼットはそんなふうに錯覚した。とっさに目をつぶる。遅れて響いたのは、人同士がぶつかり合う音だった。
 鋭く突き出されたアンダの右脚を、ルーが斜めに構えた腕で受け止めている。骨の五本十本は砕けていそうな音がしたのだが、本人たちは眉ひとつ動かさない。舞うような軽やかさで退いたルーが、助走をつけて駆け出す。対するアンダは獣のごとく背を丸めた。互いを見据え、激しい叫びをほとばしらせて、駆ける。
 何度かの攻防の後、ルーの蹴りをかわしたアンダが、身を沈めて跳ね上げる。疾駆する鹿のような身軽さで、彼はルーに飛びかかった。ルーは、表情をひとつも変えずに少年の拳を受け流す。それからすばやく彼の腕をとらえ、軽くねじった。
 小さな体はつかのま宙に舞い、地面に強く叩きつけられる。細かな砂礫が、衝撃とともに舞った。小さなうめき声が響く。しかし、アンダはその力と執念でもってルーから逃れ、また俊敏に起き上がった。二人は両目に烈火を宿してにらみ合う。そして、またぶつかった。
 短い交錯。その間に、何度も拳が交わった。イゼットには彼らの動きが追い切れない。音と、大気の震えとでなんとか状況を判断するしかなかった。もちろん、優勢劣勢を見分ける余裕などない。
「いやあ、こりゃなかなか決着がつきそうにないね」
 のんきな声が流れてくる。イゼットは視線をクルク族の二人に留めたまま、隣の男に向けて口を開いた。
「状況、どこまでわかりますか?」
「残念ながらほとんど追えねえな。クルク族ってのは、どういう体の造りをしてんのかね?」
「さあ……」
 それはむしろ、イゼットの方が知りたいところである。少し首をかしげた彼は、再び少年少女の決闘に意識を戻した。
 少し集中をそらしている間に、地面があちこち陥没し、穴もあいている。短時間でどれだけの力が渦巻いたのか嫌でもわかる光景だった。
 若者の眼前を、赤い衣が横切る。姿勢を低くして駆けたルーは、追って来たアンダの蹴りを跳んでかわす。それは間一髪の回避だった。衝撃がわずかに足をかすったらしく、少女は顔をしかめる。それでも動きに鈍りはない。地面に手をつき半回転して、すぐさま前に飛び出した。すばやく反撃に転じた相手を見て、アンダが軽く目を見開く。けれども、動揺は一瞬のこと。ルーの蹴りを受け流し、鹿のようなしなやかさで彼女の左側に動いた。ルーはすぐさま身をひねり、彼の攻撃を受け止めた。
 デミルが小さい口笛を吹く。
「『落ちこぼれ』とか言われてるから、どんなもんかと思ってたが……いい戦いをするじゃねえか、ルーちゃん」
 イゼットは何も言わずにうなずいた。彼の声は耳に取り入れていたが、その内容はどこか靄がかかったように響く。イゼットの意識は、やはり決闘の場に向いていた。
 互角の戦いをしているように見えて、ルーがじわじわと押されている。アンダの拳をかわしつつ、歯を食いしばっている彼女に気づき、陽の色の瞳に雲がかかった。
 じりじりと後退しているルーは、けれど苛烈な意志を失っていない。アンダの攻撃が途切れた瞬間に、大きく踏み込む。そして、胸めがけて腕を突き出した。アンダはすんでのところで下がって避ける。しかし、その動作が少しばかりぎこちない。風に翻弄される紙のような頼りなさもあった。
 それでもクルク族の強靭さは健在だ。アンダはその場で踏みとどまり、前へ飛び出す。彼の足が離れた瞬間、地面がひび割れて、ぼこっと砕ける。砂塵が舞った。イゼットは反射的に顔をそらす。
 彼が顔をそらして、上げる。その短い間で、少女はさらに追いつめられていた。かがみこんで相手の蹴りをかわし、周囲に顔を向けている。どう考えても詰みの状況で、しかし黒い瞳に火が灯る。一つ数えるより早く、ルーは体を反転させて駆け出した。アンダやデミルが唖然とするほどの速さだ。そして向かった先は、隊商宿の敷地内。
――かつての隊商宿には、宿そのもの以外にもいくつかの建物がある。倉庫や娯楽施設に使われたのだろう。それらが林立している隊商宿跡の敷地は、意外と入り組んでいる。相手に背を向けて走り出したルーは、建物と建物の間に広がる迷路へと自分から飛びこんでいったのだ。
「ほう?」
 デミルの目が、悪戯を思いついた子どものそれのように光る。彼は、口だけでほほ笑むと、腰を上げた。そして振り返るなり、イゼットの腕をつかんで引っ張ってくる。
「ちょっ……デミルさん?」
「追いかけようぜ。おもしろそうだ」
「いや、さすがに危険でしょう」
「だーいじょうぶだって」
 うきうきと呟く戦争屋の様は、四、五歳のやんちゃな男の子とさほど変わらない。イゼットは、眉間にしわを寄せる。舌のそばまで出かかったため息を止めて、デミルに続いた。
 ルーは、狭く入り組んだ小路をジグザグに駆けていく。後を追うアンダの視界にとらえられまいとしているかのようだった。何度目かの曲がり角で振り向いた彼女は、足元に落ちている陶器の欠片を投げつけた。アンダは顔をそむけてそれをかわす。勢いを失わなかった欠片は、イゼットとデミルの方に飛んできたが、とっさにイゼットが槍を傾けて、とばっちりの被害を防いだ。口笛を吹く男を横目でにらんだが、すぐにルーたちの方へ視線を戻す。
 ひとしきりアンダを翻弄したルーが、やがて行きついたのは、ほかより背の低い、四角い建物だった。入口の横に三つの壺が頭を並べている。
 鷲のように駆けた少女は、その壺の一つを勢いよく蹴りつけて、高く跳んだ。人々が唖然としている間に、壁を軽々と登っていく。
 ややして、我に返ったアンダがその後を追おうとした。しかし、蹴られて倒れた壺が、彼の前にごろごろと転がってくる。さすがのアンダも反応が間に合わず、壺に足を取られて転んだ。前のめりになって、倒れる。緑の衣が舞い上がり、茜色の残光を透かす。その瞬間、濃い影が差した。
 建物の壁をひと蹴りして、空中で回転したルーは、その勢いのままアンダの上に「落ちて」くる。彼女の意図に遅まきながら気づいたアンダは、起き上がろうとしたようだ。しかし、ぎりぎり間に合わなかった。少女は体ごと、少年の背中に強すぎる一撃をお見舞いする。
 形容しがたい、しかしぞくりとするような音が響く。イゼットは体の芯が冷えるのを感じた。大丈夫だろうか、と目を凝らしたが、アンダは平気そうな様子で起き上がっている。すでに夜が漆黒の翼を広げはじめていて、二人の表情はよく見えない。
 しかし、間もなく声が闇をかきわけてきた。狼のうなり声に似たそれは、隠し切れない苦渋を内包している。
「…………降参。おれの、負けだ」
 アンダの小さな言葉を、イゼットの耳が拾う。若者は小さく息をのんだ。紺碧に没しつつある小さな影を見失わぬよう、目を見開く。
 人の形はそれでも薄れていく。ルーとアンダの存在を示すのは、若者にはわからないクルク語のやり取りだけだ。しかし、決闘の終わりを知るには、それだけで十分だった。
 つん、と冷え切った空気が、静かに地上へ降りてくる。