第三章 火の民の詩1

 無人の荒野を人影が走る。大地はほとんど砂漠のように乾ききり、ともすれば太陽の熱で燃え上がるのではないかというほど焼けていた。けれどもこの地に生きる人々は、熱砂ごときにはひるまない。先祖から今にいたるまで、何千年もの時をここで過ごしてきた民族だ。加えて『彼ら』は、かなり強靭な肉体と並外れた身体能力を持っている。
 アンシュはふと空をあおいだ。熱をはらんだ風が頬をかすめていく。それを黙って受け止めた。もうあと半月もすれば、この風も多少の水を運んできてはくれるだろう。
「おいアンシュ。行くぞ」
「……ああ」
 仲間の呼びかけにこたえて、青年は駆け出した。
 久方ぶりの、狩りの帰りだ。この時期は大型の獣に出くわすことが少ないのだが、今日は立派な鹿が獲れた。西の緑地の方から迷いこんだのだろう。思いがけないことは、重なるものだ。
 四人の狩人は静かに進む。なじみ深い集落の影を見出したところで、しかし一人が足を止めた。
「おや……誰か来るな」
 北西方向をながめた彼の言葉に、二人が怪訝そうな顔をした。残る一人――アンシュは、すぐには表情を変えなかった。その人影を自分も見つけて、予想が間違っていなかったとわかると、薄くほほ笑む。
「俺が行ってくる。みんな、先に戻っててくれよ」
「ん? しかしな、アンシュ」
「いいから。急いで戻って、族長に来客ありと知らせてくれ」
 きょとんとしている同胞たちに向かって、青年は歯を見せて笑った。
「それと、ジャワーフ殿に伝言。――『あなたの娘が大人になって帰ってきた』」

 イゼットとルーの二人は、順調に集落への歩みを進めていた。地理に明るいルーを先頭にして、馬を走らせること二日。そして、三日目の昼前に、奇妙に盛り上がる影を見つけた。
「あっ、ここです!」
 ルーの声がいつにもまして輝いている。彼女の喜びようをほほ笑ましく思うと同時に、イゼットはひどく緊張していた。
 この大陸の他の人々に比べれば、イゼットはクルク族との関わりが多かったといえる。しかし同時に、ルーとアンダが少々特殊であることも承知していた。果たして、部外者の――それも聖女の従士の――自分が、クルク族の集落に受け入れてもらえるのか、不安は結局、今日まで拭い去れなかった。
 一瞬、右半身の感覚がなくなる。ヘラールのいななきで、我に返った。
「ああ、ごめん」
 内心冷や汗をかきながら、イゼットは体勢を立て直し、手綱と体を操る。平衡を取り戻したところで、ルーの視線に気がついた。イゼットは曖昧に笑う。そこへ、白い手が伸びてきた。馬上で器用に体をそらしたルーが、明るい色の髪をかきまぜる。
「大丈夫ですよ」
「えっと」
「なにかあっても、ボクがどうにかします。イゼットは今回、ボクのお客様ですから」
「……うん。ありがとう」
 赤面したイゼットが、なんとかそれだけをしぼり出すと、ルーはいつもの笑顔を見せた。
 いつもどおりの穏やかな空気はしかし、近づいてきた足音に破られる。
「おーい、ルー! イゼット殿!」
 はきはきとしたヒルカニア語が響く。二人は顔を見合わせた後、声のした方を振り返った。名を呼んだその人の正体を知り、揃って相好を崩す。
「アンシュさんだ」
「アンシュ! お待たせしました!」
 安堵するイゼットのかたわらで、ルーが大きく手を振った。右手になにかを持ったままのアンシュが、軽やかな足取りで近づいてくる。彼の右手にあったのは、太い紐を結い合わせて先端に輪をつくったものだった。馬に挨拶をしたアンシュは、イゼットの視線に気づいたのか、からりと笑う。
「こいつは武器だ。輪っかの部分に石やら何やらを乗せて飛ばすのさ。慣れればなかなか使い勝手がいいぞ」
「なるほど」
「さあ、世間話は中に入ってからにしよう」
 言ったアンシュは、流れるような所作で礼をとる。
「ようこそ、我らが氏族の集落へ」
 武骨で、けれど丁寧な言葉。それにイゼットは、無言の礼で応じた。

 アンシュに案内され、二人は集落の前までやってくる。石を積んで作った仕切りの隙間を越えるなり、青年は姿勢を正して声を張った。
「みんな! 修行を終えた若者の帰還だぞ!」
 とたん、静かだった集落がざわつく。きのこのような形の家の中から、あるいは道の脇、家の陰から――人々がわらわらと顔を出す。全身をこわばらせているイゼットをよそに、ルーがラヴィの上から舞い降りた。ざわめきは、いっそう大きくなる。
「おおっ、新しい戦士の誕生だ!」
「めでたい! めでたい!」
「って、おい、ルーじゃないか!?」
「ほう、あのルーが帰ってきたか」
 歓声、驚き、そして純粋な叫び声。そのどれもが、彼らの言葉で形作られたものだ。したがって、クルク語のわからないイゼットには、人の声の洪水としか感じられなかった。冗談抜きで悲鳴を上げそうな心持だったが、ここで礼を失すれば後がなおさら厄介だ。ルーに倣って地上に降りる。極度の混乱状態でも下馬をしくじらなかったのは、日々の修練の賜物だった。
 ちょうどイゼットが地に足をつけたとき、何人かがルーの前に駆けてくる。そのうちの一人、顎に髭を蓄えた男性が、ルーの肩を叩いた。
「ルー、おぬしも修行を生き延びたか。大したものだ」
「ありがとう。ところで、今年成人できるのは何人なの?」
「おぬしも含めて三人。ほかの二人も、ちょうど、先日帰還したところだ」
「……そっか」
「今回の儀式は盛大なものになるな」
 二人の会話は、やはりイゼットにはわからない。しかし、ルーの表情がやわらかいこと、男性が声を立てて笑っていることから、友好的なやり取りであることは察せられた。少し安堵したイゼットだが、すぐにすくみ上がる。その男性を含め、何人かのクルク族の視線が、彼を一直線に射抜いていた。美しい彼らの黒瞳も、揃って見開かれているとなかなか怖い。
「して、そちらの方は何者か? 見たところヒルカニア人のようだが……おぬしの客人か、ルー」
 具体的に何を言われたか、イゼットにはわからなかった。想像はつくが、答えることもできない。彼の斜め前に立っていたアンシュが口を開きかける。しかし、ルーの白い手が、青年を制した。
「彼は、ボクの修行に協力してくれた人だよ。ボクのお客様で――大切な相棒」
 クルク族の人々の目が、いっせいに見開かれる。彼らは何事かをせわしなくささやきはじめた。先の男性ですら、驚いた表情をしている。
「な、何を言ったの、ルー……?」
「大したことは言ってないですよ。事実を伝えたまでです」
 顔を引きつらせるイゼットを振り返り、ルーは悪戯っぽい笑みを見せる。彼女にアンシュが呆れたようなまなざしを向けていた。
 そのとき、どこからか鐘の音が聞こえた。礼拝堂から響くそれよりも小さく、高い音だ。鐘の音を聞いたクルク族たちは、一斉に脇へ避けて礼を取る。ルーもまたそれに倣う。
 集落の奥から、静かな足音が近づく。やがて現れたのは、たくましい姿の老人だ。クルク族の象徴である炎の衣をまとっている。それは他の人々の衣装よりも衣の裾が長く、装飾も派手だった。この集落の中でもっとも偉い人であることは、一目瞭然だった。
 そして、老人のかたわらに熊のような体格の男性が立っている。左手に長い棒、右手に小さな鐘を持っていた。先ほどの音はこの鐘だろう。男性は、ルーの方を一瞥すると、一瞬だけ人懐っこい笑みをひらめかせた。
 その意味をイゼットが知るより早く、老人が踏み出した。対するルーは、軽く頭を下げる。
「ヤグン族長。ただいま、戻りました」
「詩文をまとめてきたか、ルーよ」
「はい」
 ルーは答えると同時、袋から石板を取り出して、老人に差し出す。老人は石板の表面にざっと目を通すと、小さく顎を動かした。
「……確かに、すべて記されておるな。よく生きて戻った」
「ありがとうございます」
「今宵、成人の儀を執り行う。それをもって、おまえも戦士として認められるだろう」
 厳かに言った老人の黒い目が、動く。それは確かに、イゼットを捉えた。彼はほとんど反射的に、身に沁みついた礼をした。少しだけ、周囲の空気が変わる。あるいは素性に気づかれたかもしれない、と思ったが、族長にはいずれ打ち明けることだ。今さら気にしてもしかたがない。
「貴殿がルーの客人ですな。アンシュから話は聞いております」
 急に、なじみ深い言葉が響いた。イゼットの心も平静を取り戻す。
「はい。イゼットと申します」
「アグニヤ氏族の族長、ヤグンと申す。同胞を支えてくださったこと、感謝申し上げる」
「……お礼を言うべきなのは私の方です。私も、彼女に助けられましたから」
「さようか」
 老人の声が、やわらかくなった気がした。イゼットが顔を上げたとき、ヤグンはそこに集まった狩人たちをへと呼びかける。
「先ほど述べたとおり、成人の儀は今宵、執り行う。皆、準備にかかってくれ」
「はい」
 年かさのクルク族たちが揃って返事をし、すばやく散っていく。ヤグンはあくまでどっしりとそこに立ったまま、口を開いた。
「ジャワーフ。客人はおまえの家でもてなせ。おまえの娘にとっても、その方がよかろう」
「はは、そうですな。では、喜んで承ります」
 クルク語で行われた会話を、イゼットはやはり正確にはくみ取れなかった。しかし、熊のような男性がにっかりと笑ったことで、気づく。――彼が、ジャワーフ。ルーの父親なのだ。
 族長の命を受けた彼は、イゼットのもとへ歩み寄ってくる。形式的に礼をとった後、彼は流ちょうなヒルカニア語で話しかけてきた。
「イゼット殿、だったか。俺はジャワーフ、ルーの父だ。君は俺のところに来るといい」
「あ、ありがとうございます」
「なんなら、そのままうちの子どもになってくれても構わんぞ」
「…………は?」
 イゼットは絶句する。大柄な戦士は、少年のような笑顔を見せ――その娘は、白い顔を真っ赤にしてすっころんだ。