第三章 火の民の詩4

 熱狂の余韻がおさまらないうちに、クルク族たちはぞろぞろと移動を始める。あたふたしているイゼットの手を、いくぶんか身長の低いシュナがひいた。
「もう少しだけ儀式がある。ここから、宴会の場所に着くまで」
「そ、そっか」
 理解できたようなできないような。未だ収まらぬほんのりとした混乱を抱えながら、イゼットはシュナの手を握って歩いた。そうでもしなければ、クルク族の行列にのみこまれてしまいそうだった。ふしぎと、恥ずかしいとは思わない。
 慎重に歩を進めながら、振り返ってみる。行列の端を歩く青年たちが、通りに点々と置いてある石の台の前に着くたび、足を止めた。台に置かれた土器の中からなにかをわしづかみ、それを新しい若者たちの方へ撒く。そのたび、さらに年上の大人たちがなにやら囃し立てる様子を見せた。
「あれは――悪いものを追い払っているんだ。成人した人たちに悪いことが起きず、たくさん狩りができるように」
「厄除けと幸運のおまじない、ってところかな」
「厄除け。うん、それ」
 イゼットがひとつうなずくと、シュナは淡く笑って言いなおす。
 その間にも点々と土器が現れ、そのたびに青年たちはなにかを若者たちへ撒いた。そのたび、あちこちから楽しそうなざわめきが起きた。主役のルーたちも、ときどきくすぐったそうにしながらも、笑っている。
そうしているうちに、開けた場所が見えてきた。昼間ジャワーフに連れてきてもらった場所だ。そこへたどり着くと、クルク族たちは――もちろんシュナも――一斉になにかを唱和し、わっと散っていく。
「イゼットさんはこっち。これから宴会だよ」
 シュナが振り返り、わざわざそう告げてくれる。イゼットは短くお礼を言い、少年の背中を追いかけ、指定された席についた。
 ヤグンによって儀式の終了が宣言されると――イゼットは言葉をすべては理解できないので、雰囲気で察したのだが――その場はお祭り会場と化した。最初は談笑の声ばかりだったが、すぐにどこからか耳馴染みのない歌声が聞こえてきて、そのうちお手製の楽器の伴奏まで加わりはじめる。動物の骨を削って作られるという笛の音を、イゼットは興味深く聴いていた。
 ほどなくして食事や酒もふるまわれはじめ、場はますます熱気に覆われる。そのただ中でイゼットは一人、多すぎる肉をどう片付けようかと苦心していた。ルーの実家の昼食と同じで、食事はほとんどが肉だ。しかも、一部に見たことのない獣のものが混ざっている。
 未知のものも含めて味はよい。ただ、量が多かった。どうしても干したものか焼いたものばかりになりがちなので、飽きもくる。香辛料でも使っているのか、ふしぎな風味のする干し肉をかじったイゼットは、なんの気もなしに周囲を見渡した。クルク族の人々は、よく動きよく食べる。生肉を食べている人もいる気がするが、見間違いだろうか。苦笑したイゼットは、自分の前の皿の数々に目を戻す。
「やあお客人、楽しんでいるかい」
 喧騒を割って陽気な声が響く。驚いて顔を上げたイゼットをたくましい笑顔がのぞきこんでいた。
「ヒルカニア人も祭りが好きだと聞くが、俺たちとどちらが熱いかね?」
「どうでしょう。俺はあまり行事に参加したことがないので……」
「そうなのか? まあ、あなたは真面目そうだしな」
 笑顔の男性は、なめらかなヒルカニア語を操りながらイゼットの横に腰を下ろす。イゼットも背が高い方だが、彼はそれを上回る長身だ。なのに見下ろされている感覚が薄いのは、彼がひたすらに陽気だからかもしれない。
「いや、この集落にお客が来るなんて何年ぶりだろう。それも、修行者が人を連れてくるなんて初めてだ」
「そうなんですか?」
「ああ。少なくとも聴いたことはないよ」
 言いながら、彼は杯に口をつけた。そこでイゼットは、初めて男性が杯を持っていることに気づいた。イゼットの前に置いてあるものと同じものだ。男性の動きに合わせて、つんとした香りが漂ってくる。客人の視線に気づいた彼は、杯を軽く掲げてみせた。
「それと中身は同じだ。美味いよ」
 イゼットは再び、自分の前に置いてある杯に視線を落とす。煙と料理と汗と、すでにさまざまな臭いが充満している宴会の中であっても、立ち上る酒精の匂いは消えていなかった。若者は顔をしかめる。短い時間、考えてから、そろりと杯を手にとった。 思いのほかざらざらしている。土で作って、なにも塗っていないのだろう。細かな模様が彫られた杯をじっと見つめたイゼットは、そして中身を口にする。
 熱い液体を勢いで飲み下した彼は、直後にむせた。その反応を見て、横の男性が目を丸くする。
「おや、少し刺激が強すぎたかね?」
「ええと……俺、ちょっとお酒が、得意じゃなくて」
 むせながらなんとかそこまで口にして、イゼットは胸のあたりを拳で叩いた。少し落ち着いたところで、やっと顔を上げる。喉のあたりはまだひりひりするが、先ほどよりかはましになった。
「ヒルカニア人は酒好きが多い印象だったが。まあ、全員が全員そうというわけもないな。悪いことをした」
「いえ……先に言わなかった俺も悪いですから。ご心配おかけしました」
 イゼットがぎこちなく笑ったとき、背後が騒がしくなった。年配の男性たちが、機嫌よくなにかを話している。イゼットと隣の男性が振り向いたとき、人垣を割って小さな影が飛び出してきた。赤を基調とした長衣と 筒袴 ズボン 、そして豪奢な銀細工を身に着けた少女――ルーだ。
「やっと見つけました!」
 ところどころで焚かれた火のせいだけではなく、頬を赤くしたルーは、輝く瞳をイゼットに向ける。珍しく息が上がっていた。だが、本人は気にした様子もなく駆け寄ってくる。
 様子を見ていた男性が、杯をかかげて歯を見せた。二人はクルク族の言葉で何事か会話する。肩をすくめた男性をよそに、ルーはイゼットの腕を引いた。そのままどこかへ引きずっていこうとするそぶりを見せながら、彼女はイゼットに耳打ちする。
「ヤグン族長のところに行きましょう。今が好機です」
 イゼットは目を見開き少女の顔を見返す。会心の笑みが返ってきた。無言でうなずいた若者は、そのまま少女に手を引かれて宴会場を抜け出した。

 族長がおわすのは、宴会場の中央より少し離れたところにある、岩の建物の中らしい。宴のにぎわいにまぎれてそこを訪問した二人は、ヤグンの穏やかな歓迎を受けた。中央、敷物の上であぐらをかいている老人は、顔を上げるなりやわらかな微笑を浮かべる。
「おお、ルー。来たか」
「はい。突然お願いしてすみません」
「まったくだな。話し相手になるのは構わんが、今日の主役が祝宴を抜け出すのは、感心しない」
 言葉とは裏腹に、ヤグンの声は明るい笑いを含んでいた。ルーは苦笑して、こめかみのあたりをかいた。
「まあ、二人とも座りなさい。立ってするような話でもないだろう?」
 族長にうながされ、二人はその対面に腰を下ろす。それからしばらく、ルーは無言で、眉をひそめて、考え込んでいるようだった。しかし、意を決したように深呼吸すると、口火を切る。
「族長にお聞きしたいことがあります」
「言ってみなさい」
「成人の儀までの通過儀礼……今回の旅には、どういった意味があったのでしょうか」
 イゼットは瞠目して、相棒を振り返る。彼の予想と少し違った問いを口にした少女は、族長からわずかも目をそらさずにいた。
 ヤグンは、すぐには答えなかった。宴会のにぎわいに耳を傾けるかのように、沈黙する。そこらじゅうに満ちた静寂をかき消したのも、また彼自身だった。
「『修行にはどのような意味があるのか』そう尋ねてくる若者は、少なくない」
 岩壁に映った影が躍る。入口に焚かれた火が揺れていた。
「――ルーよ。おまえはなんのために、それを知ろうと試みるのだ?」
 ルーの眉がわずかに上がった。この問いが来ることを予期していたのかもしれない。彼女はよどみなく、答えを返した。
「ボクに手を差し伸べてくれた人を救うために」
 ヤグンの目がわずかに見開かれる。ルーは構わず、イゼットを一瞥し、族長に向き直った。
「イゼットはロクサーナ聖教の聖女様の従士です。ですが、いわれのない罪を着せられて聖都から出ないといけなくなりました。彼の無実を証明するには、聖教で大切にされていた『月輪の石』の正体を突き止めなければいけません。『月輪の石』のことはご存じですか?」
「話には聞いたことがある。従士のことも、聖院のことも情報だけは入ってきておった」
 言ってから、ヤグンはイゼットを見つめた。
「やはりあなたがそうであったか」
 イゼットはうなずく。断定するような口ぶりを、意外とは思わない。彼らに礼を示した時点で、気づく人は気づくであろうと覚悟していた。実際、ジャワーフが見抜いたのだ。ヤグンがそれを知らないはずがなかった。
「聖女が必ず受け継ぐという『月輪の石』を従士が盗んだ――そう聖教本部が判断したことは知っておるよ」
 ヤグンの言葉を受け、途切れていた少女の声が、再び響く。
「実際は、突然割れたんだそうです」
 そういう切り出しで、ルーはかつてイゼットが話したことを族長に共有した。その際、ファルシードが突き止めた事実のことも、話した。
「ほう。『石』が聖教のものではない、と。そして不滅のものでもなかったということか。なるほど、イゼット殿の身の潔白を証明するには、そのあたりを探るのがもっとも確実だな」
「はい。そしてボクは――これまで集めた詩文の中に、その石が『どこから来たのか』を知る重大な手がかりが隠されているのではないか、と思ったのです」
 イゼットは「え?」と言いかけた。しかし、言葉は音にならなかった。彼がそれに気づくより先に、ヤグンが大きな吐息をこぼす。吐き出された息に含まれる感情がなんなのか、若者たちには測れなかった。しかし、二人をまっすぐ見据えたヤグンの瞳に強い決意のようなものが宿っていることは、彼らでもわかった。
「なるほどな」
 呟くように言った老人は、やおら立ち上がって奥の方でなにかを探ったようである。やがて二人の方へ戻ってきた彼が手にしていたのは――ルーが詩文を彫り続けた石板だ。
 ヤグンは、唖然としているルーに石板を手渡す。その手つきは優しいを通り越して丁重だった。
「ルーよ。十五の詩文を、お客人にもわかるように読んで差し上げなさい」
「いいのですか!」
 ルーが大きな瞳を輝かせる。本来ならば絶対に許されぬことを許可した族長は、厳かにそれをうながした。
「おまえの考えた通り、その詩文は道しるべとなる。彼と共有すべきだろうと判断した」
 さあ、お読み――そううながされたルーが、石板を両手で持って、息を吸う。
 わずかな沈黙の後、朗々とした声が、岩の中に響き渡った。