第四章 天と地のはざま9

 突然、腕が遠のいた。痛みが少しずつ引いていく。けれど、体には力が入らない。内臓がかき混ぜられたような気分の悪さも、そのままだ。なにもできずに崩れ落ちる。刺さった矢を無感動に引き抜いた白い人が、再び手を伸ばしてくる。
 しかし、彼と白い人の間に、人馬が割り込んできた。
「そこまでだ」
 場にそぐわない陽気な声が響く。少しだけ、顔を上げた。どこかで見たような後ろ姿が、目に入る。
「人間の介入を確認。退去を勧告する」
「お断りするよ、反逆者どの。『浄化の月』を壊されては困るんだ」
「――何者だ」
「お? やっと人っぽいことを言ったな」
 応酬の声が、やけに遠く響いた。そのとき、なにかがせりあがってきて、思わず体を丸めた。その動きに気づいたのか、乱入してきた人が、わずかに振り向く。その顔には見覚えがあった。つい先日会ったばかりだ。
「根性があるじゃないか、お坊ちゃん。よく持ちこたえたな。――ま、後は俺に任せておけ」
 青年は言って、剣をちらつかせる。
 あなたは、と言おうとした。しかし、声はほとんど形にならなかった。

「お嬢さん! お連れさんを確保しろ、早く!」
 美しい声が、鋭く歌う。ルーは頬をはたかれたように錯覚した。体を上げる。地面を蹴って、駆けだす。今度はなんの抵抗もなく、体が動いた。
「イゼット!」
 無意識のうちに叫んで、彼のもとへ急いだ。ほとんど、飛びつくようだった。うずくまったイゼットを抱き起す。相変わらず、顔色は極端に悪い。固く閉ざされていた目がわずかに開いたが、瞳の中にいつもの温かな光はない。力なくもたれかかってきた体を受け止めながら、ルーは青年を仰ぎ見た。彼はこちらを見返さず、天上人に相対している。
「なるほど、それが天上人の標準か。あんたらを知ると、フーリがだいぶんかわいく見えるな」
「もう一度質問する。何者だ」
「そう焦らずとも答えて差し上げるさ。そうさな――〈使者ソルーシュ〉のお友達、と言えばわかるかな?」
 空気が鋭くなった。同時に、青年が剣をこちらに向けて、なにかをすくうような動作をする。逃げろ、ということか。気づいたルーは即座に動いた。イゼットの体を抱え上げて、背を向ける。馬のひづめの音と、青年の声が重なった。
「おおっと。行かせないぜ。言っただろう、『浄化の月』を壊されるわけにはいかないんだ」

 ルーはしばらく走り続けた。呼吸が浅くなっても、腕や足がだるくなっても、構わずに。疲労を自覚していても、止まるわけにはいかないのだった。
――そう、疲労している。人並外れた体力と腕力を持つルーが、いつになく疲れていた。それは先ほどの天上人のわざによるものか、もっと別のなにかのせいか。いずれにせよ、こんな状況でなければ座り込んでしまいたかった。
 走って、走って。時間の感覚を失いかけた頃、馬のいななきを聞いて足を止めた。見れば、見覚えのある二頭の馬が岩陰をうろついている。彼らはルーに気づくと、より強く鳴いた。
「ラヴィ、ヘラール!?」
 ルーは驚くと同時に希望を抱いた。手綱を放した時点で興奮していたから、逃げてしまったものとばかり思っていたのに。
 ルーは、さっそく二頭のもとへ駆け寄った。しかし、そこでイゼットが身じろぎをする。
「ルー……」
「イゼット?」
「ごめ……ん、下ろ……し、て」
 荒い呼吸の下から、声がする。なんとかそれを聞きとったルーは、戸惑いながらも言われたとおりにした。とたん、イゼットは苦しそうに体を折り曲げ、激しく嘔吐した。集落を出て以降、その光景に遭遇したことのなかったルーは驚き、ついで錯乱しかかった。
 イゼットは二、三回嘔吐して、苦しげにうめく。顔が赤いことに気づいたルーは、どうすべきかと悩んだ。その間に、馬蹄の響きが近づいてくる。
「何してるんだ! 足を止めるな!」
 あの青年だ。ルーはすかさず叫び返した。
「あの……イゼットが突然吐いて、苦しそうにしてて……! どう、どうしましょう!」
「なんだと?『月』に干渉されたせいか、厄介な」
 青年を乗せた馬は、ルーたちの前で立ち止まる。青年は、思ったより厳しい表情ではなかった。とはいえ、焦りがあるには違いない。うずくまっているイゼットを見るなり、頭を押さえた。
「気絶しているな。参った。意識がない奴は運びにくいんだが」
 その言葉で、ルーは振り返る。イゼットは確かに、目を閉じていた。どうすればいい、どうすれば。焦燥とまとまらぬ思考ばかりが頭を満たす。
 だが、澄んだ音が彼女を混乱から救った。青年が剣を抜いている。
「ちっ、追いつかれたか」
 その一言に呼応するように、虚空から白い人々が現れた。
 ルーは目をみはる。あのときと――イゼットの前に突然移動したときと、同じだ。
 瞳も相貌も、やはり感情をともなわない。鉱物のような視線が彼女たちを見下ろした。
「人間を敵と認定」
「排除する」
 二人が、順番に口を開いた。青年とルーも身構える。
 両者の間で火花が弾ける。鋭い沈黙が、ぎりぎりの均衡を保つ。
 だが――突然に生じた空気の変化が、その均衡を揺さぶった。
「おや」
 青年がわずかに眉を上げる。ルーは息をのんだ。青年の口もとが笑っているのを見て取ったからだ。その意味を問おうとしたとき、天上人とルーたちの間に白い光が現れた。光はふくらみ、すぐにしぼむ。しぼんだ光の中心から、小さな人影が浮かび上がった。――眼前にいる者たちと同じ、白い髪が風になびく。
 また、天上人なのか。ルーは顔をこわばらせた。しかし、ルーたちを追っていた天上人二人の反応は、ルーが予想していたものと少し違った。初めて感情らしきものを見せたのだ。目が細められるさまは、怒りと警戒を思わせた。
「反逆者よ。即刻、立ち去れ」
 同じ色、同じ髪型の子どもが、いくぶんか揺らぎのある声で言う。それに対する二人の返答はさらに淡々としていたが、先ほどより早口だった。
「〈使者ソルーシュ〉。天の庭の差し金か」
「〈使者ソルーシュ〉を確認。排除する」
「立ち去る気はないようだね。それでは――」
 子どもが、片手を掲げた。すると、彼と二人の天上人の間に、鏡のようなものが現れる。彼らはさらに目を細めたが、子どもは一顧だにしなかった。ルーたちの方を振り返ると、音もなく空から降りてくる。素足のまま、こちらへ歩み寄ってきた。
 警戒を解くべきか、否か。ルーが悩んでいる間に、剣を収めた青年が口を開いた。
「やあ、フーリ。おまえはいつも美味しいところを持っていくな」
「シャハーブ。遅くなった。ところで、なにが美味しいの?」
「慣用句というやつだ。気にするな」
 子どもの少々ずれた問いを華麗に受け流し、青年はイゼットに視線を注ぐ。フーリと呼ばれた白い子どももその視線を追いかけ、一度うなずいた。
「『浄化の月』の宿主か。干渉されたのだね」
「わかるなら話が早い。どうにかなるか?」
「可能だ。けれど、時間がかかる。この場では無理だ」
 子どもは、ルーの方を振り返る。ルーは思わず腰を落としかけたが、子どもの穏やかな瞳を見て、思いとどまった。雰囲気の違う目つきといい、青年と話し込んでいることといい、二人の天上人と同類とは思えない。――この子は味方なのかもしれない、そんな考えが浮かんだ。
「このまま館まで転移しよう。クルク族の彼女は同行者かな」
「あっ……そ、そうです!」
 やっと、ルーは口を開いた。子どもが青年を見、その青年がうなずくのを見てほっと胸をなでおろす。「では、こちらへ来て」と言われて、ルーは子どもに歩み寄った。すかさずラヴィとヘラールもそばへ連れていく。子どもはざっとあたりを見回した。
「彼を支えておいてくれ。座標は館に合わせる」
 ルーはすぐにイゼットを抱きかかえた。先ほどまでより体が熱い。焦燥が胸を焼く。しかし、今は焦ってもしかたがない。謎の子どもに賭けるしか、ないのだ。
 子どもが手を挙げる。硝子が割れるような、高い音がする。
 次の瞬間、視界が真っ白に染まって――ルーの意識はそこで途切れた。