第二章 大地の火1

 トラキヤ西端に存在する、広大な森。大木と若木が身を寄せ合って枝葉を広げ、外部の者の侵入を阻み続けるこの場所に、しかし生物の気配はまったくない。小動物がねぐらにするのに、これほど適した場所はないというのに。
 奇妙な静寂の中、時折木々が風に遊ばれてざわざわと騒ぐ。それは喜びの声にも、文句にも聞こえた。
 分け入って進むと、やがて開けた場所に出る。明らかに人の手で拓かれた空間には、大きな館が建っていた。西洋建築を取り入れて建てられた館は、そこかしこに老朽化の影が見られたが、一方で修復されたり壁の塗り替えなどが行われていたりして、『見れる』状態に保たれている。
 かつてのように、富豪が住んでいるわけではない。今はその代わりに、世界でもっとも貴重な物が眠っているのだった。
 ふだん、館の表に人がいることはない。いたとしても、それは人のなりをした人外だ。だが、ここしばらくは、人の出入りが増えていた。
 この日の朝も、若者が一人前庭の中心に立って槍を構えている。槍の長さは、彼の身長とほぼ同じか、少し長いくらい。ぎりぎり短槍の部類に入るものだ。
 その槍で、ひいては突いて、を繰り返す。動きは基本ゆったりとしているが、時折、敵を前にしているかのように鋭くなる。動作には必ず呼吸が伴った。
 一見、槍の鍛錬だけをしているように映る若者。しかし、彼は内側で、もうひとつ「訓練」を行っていた。
 自分の内側、奥深く。名前のつけられない場所にある『月』の形をゆっくり捉える。満月と同じ円形、その外縁をなぞった後、そこから流れ出す力の川をたどっていく。
 しゃらしゃらと流れるそれは、水でなければ血でもない。『月』をよく知る者たちは、それを浄化の力と呼ぶが、それが何でできているのかは、今でも謎のままだった。
 しゃらしゃら、しゃらしゃら。音を立てて力は流れる。彼の体内にある道を使って、全身へと行き渡る。その筋一本一本を、彼は追いかけ続けていた。神経を研ぎ澄ませ、意識をそこだけに集中して。
 剣を前にしているような緊張感が、脳天から足先までを満たす。
 澄み渡った世界。その色は純白だ。自分だけの空間を漂っていた彼は――だからこそ、ほんのかすかに割り込んだ別の力に気がついた。
 似て非なるもの。異質な気配。それに引き寄せられて、意識が現世に戻ってくる。大きく息を吐きだして、槍を下ろし、顔を上げた。
「やあ、イゼット。調子はいかがかな」
 館の方から、陽気な声がする。端正な顔立ちの青年が、ちょうど館から出てきて、彼に向って手を挙げたところだった。異質な力の持ち主である青年は、今日は旅衣ではなく貫頭衣を着て、腰回りを帯で締めている。衣服じたいは色あせているが、植物を模した模様が刺繍された帯は、目をひく鮮やかさだ。
 イゼットは体の力を抜いて、ほほ笑んだ。
「上々です。以前に比べると、呪物による影響も少なくなってきた感じがします」
「そうか。それは何よりだ」
 彼は悠々とした足取りでイゼットの前まで来ると、目を細めた。本人いわく貴族の生まれではないそうなのだが、その動作ひとつひとつに品を感じるから不思議だ。さらにその後ろから、イゼットの相棒たる少女が駆けてきた。彼女はイゼットの顔を見るや、無邪気な笑みを向ける。
「イゼット、訓練はどうですか」
「思ったより順調だよ」
 イゼットに飛びつき、きらきらした目を向けてくる。クルク族の少女、ルーは今日も元気いっぱいだった。イゼットはルーの頭に軽く手を置く。長い旅の中で、すっかりくせになってしまった。
「じゃあ、戦えるようになるかもですか」
「そうなるといいけど……」
 軽快にイゼットから離れたルーは、イゼットの槍に期待のまなざしを注いだ。まるで自分事のような視線と言動に対し、若者は曖昧な反応を返す。
 感情に反応して起きる痛みが、呪物による副作用だというのなら、その制御ができるようになれば痛みも出なくなるはずだ。そのはずなのだが、自分の身で実際に体感していない以上、断言はできなかった。
 二人のやり取りを見ていた青年、シャハーブが優雅に顎をなでている。含みのあるまなざしを受けて、イゼットはそちらに顔を向けた。
「シャハーブさん、どうされました」
「いや」
 シャハーブは、口の端を持ち上げる。
「ちょっとな」
 彼はそう言ったきり、その場では言葉を続けなかった。だが、不敵な笑みを見たイゼットは「あ、これはなにか企んでるな」と、一瞬で察する。しばらく共に生活したことで、陽気な異端者の人となりを把握しはじめていたのだった。

 イゼットが『叡智の館』で目覚めてから、半月が経つ。その間イゼットは、フーリから教えてもらった『浄化の月』の制御訓練に明け暮れていた。最初こそ、激しい頭痛や肉体の痛みに襲われたが、半月もすればそれもかなりやわらいだ。フーリいわく「呪物が体に馴染んできた証」らしい。そのうち呼吸と同じくらい自然に呪物の力を操れるというが、イゼット自身は半信半疑である。

 ――シャハーブが浮かべた意味深な笑みの意味をイゼットたちが知ったのは、その日の夜のことだった。
「そろそろ行動を開始してもいいと、俺は思う」
 夕餉の席、シミット(ごまをまぶしたパン)をちびちびと食べながら、彼は口を開いた。彼とともに食事を囲んでいた三人が、一斉に彼を見る。そのうちの一人、白い髪に透明な瞳を持つ天上人アセマーニーが頭を傾けた。
「行動を開始?」
「つまりは、そろそろイゼットたちが館を出てもよいのではないか、ということさ」
「なるほど」
 フーリ、と呼ばれている子どもは、淡白にうなずいた。しかし、イゼットとルーは顔を見合わせる。
 正直、動きはじめたい気持ちは二人とも持っていた。窮状を脱したとはいえ、解決しなければならない問題は山積みのままなのだ。しかし、どこから手をつけてよいかわからないという思いもある。
 その困惑をイゼットが打ち明けると、シャハーブは悪戯っぽく笑った。
「それなら、俺にひとつ提案がある」
 イゼットとルーは、茶器を置いて身を乗り出した。シャハーブが白い人差し指を立てる。
「イェルセリア古王国に行く、というのはどうだろう」
 思いもかけなかった地名を聞き、イゼットは目を見開いた。一方、ルーは首をかしげている。
「こおうこく? って、確か」
「大昔に滅亡した王国だよ。今の、イェルセリア新王国の前身でもある」
 ロクサーナ聖教発祥の地として発展したにもかかわらず、一夜にして滅亡した王国。そこから逃げ出した人々が、西へ逃れて新たに建てた国こそが、イェルセリア新王国であった。
「その、『一夜にして滅亡した』というところが問題でな」
 葡萄酒で満たされた玉杯グラスを揺らしながら、シャハーブが語る。
 いわく、古王国の滅亡には『地の呪物』が関わっているらしい。国のあった場所は『よどみの大地』となり果てて、生き物が棲めない状態が続いている。
「元凶たる『地の呪物』はある人物が破壊した」
 シャハーブはそこまで言ってから軽く首を振る。疑念を視線で訴える若者と少女に、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
「あんたらに隠してもしょうがないから、はっきり言うか。古王国を『吹き飛ばした』呪物、『夜の杖』は、それを身に宿した者が破壊した。彼がフーリに自らの手で壊させてくれと頼んだので、フーリが対抗呪物を貸し与えたんだ」
 さりげなく言い直されたその内容に、二人は驚愕した。明確な反応を示したのは、ルーの方である。茶器を倒さんばかりの勢いで、彼女は身を乗り出した。
「ど、どういうことですか?」
「話してやりたいのは山々だが、そうすると時間を食うのでな。今は割愛させてもらっていいか」
 男はひらりと片手を振る。そのあしらい方は、はっきり言って冷淡だったが、声色が美しく詩でも詠むようだったので、嫌な感じがしないのだった。ルーもあっさりと引き下がる。
「で、当時の勇敢な人間の行動により、杖は壊され紫色の雲も晴れたわけだ。だが、古王国跡地には、まだ穢れが残っている。穢れを完全に払うには、結局のところ、『浄化の月』の力が必要なのさ」
「だから、俺にその穢れを払ってほしい……とおっしゃるんですね」
 イゼットは慎重に問う。シャハーブは、したり顔でうなずいた。
「悪い話ではないはずだ。反逆者の鼻を明かせるし、『浄化』の練習にもなる。上手くやれば、聖都の連中に『浄化の月』と月輪の石が健在であることを知らしめることもできよう。そのあたり、根回しが必要なら、俺とフーリでなんとかするしな」
 イゼットは、シャハーブをまじまじと見返した。
 こちらの事情はすでに話してある。最初からその話もするつもりで、「行動を開始してもいいと思う」などと切り出したのだろうか。気になりはしたが、彼の本心はやはり、優美な笑みの下に隠れている。
 軽く息を吐く。そしてイゼットは、自分の意志を明らかにした。
「わかりました。シャハーブさんの提案に乗って――古王国跡地に向かいましょう」