第四章 月輪の槍3

 一行は急ぎ足でその場を離れた。が、ルーの表情がみるみる険しくなっていくのを見て、イゼットはすでにその努力が無意味であることを察する。
 少し前、気絶した大地の火アータシェ・ザマーンの男の前で彼方をにらんだ彼女は、クルク語で悪態をついていた。ルーが悪態をつくなどめったにないことだ。彼女の目から見て、それほどまでに深刻な状況なのだろう。
「……何か来るな」
 地平線をにらみつけ、メフルザードが苦々しく呟く。イゼットも無言でうなずいた。先ほどから、人の気配が近づいてきていることは薄々わかっていた。正体が何であるか、などと考える必要はない。ほどなくして、黒衣の群れが地平線を埋め尽くし、一行へ迫ってきた。けばけばしい装飾は薄日を浴びてより不気味に光っている。
 大地の火アータシェ・ザマーンの面々は、イゼットたちを見つけるなり、それぞれに武器を抜いた。今のまとめ役が誰かはわからないが、ひとまず瓦解はしていないらしい。
 不気味な人々がひしめき合い、こぞって自分たちに武器を向けてくる――まともな人なら失神していてもおかしくないような状況だが、イゼットにせよルーにせよ、もはやまともな人という部類ではなくなっているようだった。あっという間にこちらを取り囲んだ彼らを見回して、イゼットは少し眉を寄せる。今日はずいぶんと数が多い。大地の火アータシェ・ザマーン総動員、といった具合だろうか。彼らがどの程度の規模の組織なのかは知らないが、ともかく、すべてを相手にしていたらきりがない。
 となると自然、三人それぞれがやることも決まってくる。
 ひりついた空気の中で、イゼットはルーとうなずきあった。少しばかり目をずらすと、メフルザードと視線がぶつかる。彼はこれから進む予定だった方を顎で示す。イゼットがそれに首肯を返すと、口の端を持ち上げた。
 メフルザードは剣を抜く。それは、売られた喧嘩を買ったという、宣言でもあった。
「悪いが俺たちには時間がないんでね。おたくらみたいな団体様を丁寧にもてなすこたぁできないんだわ」
 荒々しいヒルカニア語が、黒衣の上を滑ってゆく。あからさまな挑発に、彼らは不快感をあらわにした。各々が得物を構えると、群れの中から「かかれ!」という号令が飛ぶ。黒衣たちがそれに従うと同時、メフルザードも地を蹴った。
 衝突が始まった、そのかたわらで、イゼットは呼吸を整える。それから、ヘラールの背に飛び乗った。その横では、ルーがすでに馬上で手綱をにぎっている。牡馬ラヴィは、どことなく張り切っているようだった。
 メフルザードが強力でもって剣を振り、二人ほどを切り払う。血を噴き上げた敵の姿に目もくれず、彼はより深くへ飛びこんだ。ほどなくして、イゼットたちの前に血で糊塗された道が開ける。イゼットとルーはその瞬間、馬たちを走り出させた。
 馬たちは、黒い輪に入った亀裂の中を勢いよく駆けてゆく。それに気づいた敵たちは、当然彼らに追いすがろうとした。だが、そうやって追ってきた者のほとんどは、白刃の餌食となった。メフルザードが取りこぼした数人がイゼットたちに食らいつこうとする。だが、彼らは馬の横に並んだ瞬間、吹き飛んだ。片手で手綱をにぎったルーが、短い間に敵の方へ寄り、あいた方の拳で追手を殴り飛ばしたのである。黒衣をまとった男たちがうめいて崩れ落ちるのを横目に、ルーとラヴィはすぐさま元の進路に戻ってゆく。
 鮮やかな動きを見て、イゼットは肩をすくめた。彼女も ラヴィをすっかり乗りこなしてしまったようだ。二人旅を始めた頃は、方向転換から練習しなければいけない状態だったというのに。
 温かな感慨に浸る一方、新たな敵影を見つけて、イゼットも手綱から手を離した。振りかざされた剣を槍で払うと、そのままの勢いで相手の胸を突く。かたい荒野に文字通り転がった者には目もくれず、彼はそのまま槍を薙いだ。反対側から飛びかかってきた二人を打ち据える。槍を大きく回転させ、穂先の方を持つと、その後ろにいたもう一人を石突で殴打した。
 立て続けに四人を戦闘不能にしたイゼットを見やり、今度はルーが感嘆する。
「なるほど! 『きばせん』ってそうやるんですね!」
「普段はやらないけどね」
「今度教えてください!」
「わかった」
「ありがとうございます」
 どこからか飛んできた矢を避けて、ルーが嬉しそうに笑う。
 彼女の突き抜けた前向きさとクルク族特有の運動能力があれば、この程度のことはすぐできるようになってしまいそうだ。イゼットは苦笑して、手綱を持ち直す。
 大地の火アータシェ・ザマーンの者たちの怒号は、遠ざかりながらも絶えず響いている。弓矢や短剣が飛んでくることも二、三度では済まないほどあった。ここまで来るとメフルザードの安否が気にかかってくるが、彼も歴戦の旅人だ。簡単にやられはしまいし、引き際も心得ているはずである。今はとにかく自分のことに集中しなければ。イゼットは強くかぶりを振って、雑念を追い出した。
 イゼットとルーは飛んでくる物を避け、時に払い落としながら西へ馬を走らせる。王宮のあった場所に到着するまでどれほど走ればいいのかは、まったくわからない。ひょっとしたら一日では済まないのかもしれない。イゼットがその可能性に思い至ったとき、異変は起きた。
 二人の前方の空で、白い光が二回ほど瞬く。弾けた光は光球となり、ゆっくりとこちらへ降りてきた。遥か後方で、歓声が沸き起こる。イゼットは、悪寒が駆け巡るのを感じて首をすくめた。――覚えのある展開だ。
「ヘラール、いったん逃げろ」
 イゼットはとっさに雌馬へささやきかけると、跳ぶようにして馬から下りた。月の名を持つ雌馬は、どこか不安げにいなないてからななめ左方向に駆け去ってゆく。賢い女性だとほほ笑ましく思う一方、イゼットの胸中はまったく穏やかではなかった。
 隣に人の気配がある。ルーだ。ラヴィはいない。同じように、逃がしたのだろう。
 闘争心と警戒心を半分ずつ溶かし込んだ瞳を上空に向けて、少女は唇を開く。
「イゼット、これはフーリさんではないですよね」
「うん」
 イゼットは静かに肯って、ルーの視線を追う。むろん、本人は気づいていないが、その瞳に宿る光の強さはルーと大差なかった。いや、それ以上に苛烈であったかもしれない。
「来るよ。天上人アセマーニーの『反逆者』が」
 低く、凪いだ一声に応えるように、地上付近でふわりと消えた光球の内側から、人が現れた。
 正確には、人の形をした何かだ。みな同じような顔をして、同じくらいの長さの白い髪を持ち、色のない瞳で世界を見ている。膝下までを覆う純白の長衣が一瞬なびいて、無彩色の大地をつかの間、覆い隠す。
 彼らはイゼットたちを視界に捉えると、同時に口を開いた。
「これより、『浄化の月』の破壊を遂行する」
 色のない宣言が重なる。
 そして、人々の頭上が冷たい光に覆われた。晴れと曇りを繰り返していた空に、無数の白い光球が浮いている。
 それを認識した瞬間。イゼットとルーは、どちらからともなく正反対の方向へ駆け出した。彼らが動き出すのを待っていたかのように、光球は刃のように鋭く変形して地上へと降り注ぐ。光は同時に多くの穴を穿ち、古王国跡地は瞬きほどの間にえぐり削られた。
 イゼットは自分めがけて降ってくる光の群れを見て取り、とっさに体を地面へ投げ出した。顔のすぐそばをかすめた光を、転げまわってなんとかかわす。すぐさま跳ね起きたが、そのときにはもう、新たな光が空を覆いつくしていた。
「これは……やっぱりきついな」
 言っても詮無いことを口走ったのは、声を出して自分を鼓舞するためでもあったかもしれない。だが、みっともなくかすれた音を聞いて、かえって気が滅入りそうになった。
 とにかく、駆け出す。生まれた弱気を振り払うように。その後を追って、光は次々と着弾した。地軸を揺らすような衝撃と舞い上がる砂ぼこりに耐えつつ、イゼットはひたすらに前へ進んだ。
 しかし、相手は正体の知れない天上人アセマーニーだ。この抵抗が長く続くものでないことは、理解していた。
 眼前に白が現れる。イゼットはとっさに飛びのいた。だが、天上人アセマーニーは一分のためらいもなく距離を詰めてくる。
 白い腕がすっと前へ差し出された。それは、イゼットの胸に伸ばされる。冷たい指が若者の体に触れる。その直後、世界がぐるりとかき混ぜられるような感覚があった。
 イゼットは体を折った。同時に、理解した。あのときと同じだ、と。
 あのときと同じ状況。しかし、違うこともある。イゼットは半ば無意識に、『浄化の月』の光の欠片を掬い上げた。こぼれ落ちないよう包んだそれを、ゆっくりと、そして鋭く、体外へ放った。
 体の中がかき混ぜられる。
 こらえようのない吐き気がこみ上げる。
 その中で彼は抗った。
「入って、くるな」
 このとき初めて、人間が『彼ら』に抗ったのだ。
「出ていけ!」
 イゼットは無我夢中で叫ぶ。同時、彼と天上人の間で白金色の光が弾け、天上人を弾き飛ばした。
 色のない瞳が見開かれる。そのことを知らぬまま、イゼットは大きく後ろによろめいた。腹を押さえてうずくまる。無色の視線が突き刺さるのを感じてはいたが、今すぐには動けそうにない。
「非常事態発生。天の呪物の宿主の抹消について、協力を要請する」
 淡々とした声が落ちる。
 これはまずい、とイゼットは顔じゅうを引きつらせた。しかし、体は重く、言うことを聞かない。
 万事休すか、と思ったとき。
「その『要請』は遮断させてもらった。――残念ながら、天の庭から追い出された君たちに勝機はないよ」
 別の平坦な声が、戦場を割る。今まで聞いてきた声と同じようではあるが、イゼットにとってよりなじみのある音だ。時折、ひどく不気味に聞こえるそれが、今は精霊たちの歌声のように優しく響いた。