幕間Ⅰ「箱庭の春」

セリンの召使として働くうち、アーラシュはなぜ親子が隔離され、そして忌み嫌われるのかをおぼろげながら理解した。ラフシャーンがイゼットを避けているということにも気が付いた。アーラシュですら時に翻弄される彼のふしぎな言動を、領主は受け入れられなかったのだろう。そこへきて、セリンとよく似た顔だちをしているから、余計不愉快に思うわけだ。
とはいえ、そこにイゼットの罪は存在しない。悪意から隔離されているのは不幸中の幸いではないか。自分自身の鬱屈とした日々を重ねてアーラシュは考えていた。このままのびのびと育てばいい。自分は奥方とともにそれを見守ればいいと。――だが、そんなふうに思えていたのは最初のうちだけだった。
イゼットは出会って半年後くらいから、離れを出て本家の方で勉強をすることが増えた。そしてアーラシュがそれに同行することも徐々に多くなっていった。
イゼットの表情から無垢な笑顔が消えはじめたのは、いつのことだっただろうか。はっきりとしたことはわからないが、アーラシュがその変化を認識したのは、ここへきてもうすぐ一年になろうかという頃である。冬の終わりのある夕方、イゼットは右の頬に腫れとあざをこしらえて、アーラシュの前に現れたのだ。
「どうなさったんです!?」
思わず叫んで駆けよれば、イゼットは怯えるような顔をした。アーラシュが詰め寄る前に、彼はへたくそな笑顔の下にそれを隠そうとする。
「なんでもない」
「……なくないでしょう、それは! 何があったんですか、正直におっしゃいなさい!」
「アーラシュ、侍女みたいになってるぞ」
当たり前だ。彼はセリンの召使である。ふん、と鼻を鳴らすくらいの勢いでアーラシュがにらみつけると、イゼットはようやく笑おうとするのをやめた。今までアーラシュが見たこともない、屈託した目が天井と床の間を見る。アーラシュは驚きと怒りを通り越して愕然とした。
視線が合わない。ごまかされている。それがこんなに悲しいとは思わなかった。
やがて、少年の唇がかすかに震えた。
「兄上が」
アーラシュは、顔を上げる。
「ミラード兄上が、おまえの顔など見たくない、と」
領主の次男の名を聞いて、アーラシュはぞっとした。
イゼットの異母兄弟たちが、彼をよく思っていないことは知っていた。知っていたが、そこまでとは予想していなかった。甘く見ていたのだ。
「大丈夫、大したことじゃない」
頼りない指が、赤い頬をなでる。
「兄弟でけんかしただけ。おかしいことじゃないだろう」
反射的に口を開きかけたアーラシュは、しかし声を出す前に凍り付いた。上等な衣服の袖の下。普段は隠れている手首のところに、青紫色の跡を見つける。頬のけがより少し前にできたもの。それが意味するところを知らぬアーラシュではない。
この半年の間、イゼットはどんな思いで「勉強」に出ていたのだろう。兄弟や父親と顔を合わせていただろう。彼が笑わなくなったのはいつからだ。精霊の話をしなくなったのは。――思い起こせば引っかかる変化の数々。これだけ近くにいながら、なぜ気づかなかったのか。
腹のあたりから、どろりとした熱いものがこみ上げてくるのを感じる。アーラシュは無意識のうちに、イゼットの腕を強くつかんでいた。
「それはおかしいことです、坊ちゃん」
「アーラシュ」
「ただの兄弟げんかなんかじゃありません」
「いいから」
「よくない。そんなのは――」
「やめてくれ!」
聞いたことのない声がした。
思いがけず強い力で手を払われて、アーラシュは後ろによろけた。
イゼットにきつい態度を取られたのは、初めてだ。声と息を荒らげた少年は、「いやいや」をするみたいに首を振る。
「おまえは母上の召使だ。私のじゃない、母上の。母上もおまえのことは気に入っている」
「何を――」
「私なんかにかたいれしたら、父上にどう思われるかわからない。おまえがくびになったら母上は悲しむし、おまえだってこまるだろう。だから」
イゼットの言葉は、珍しく要領を得ない。だが、何を言いたいかは察せられた。また、腹と胸のあたりがむかむかした。
「……そんなふうに思ってたのか」
急に、イゼットの方を見られなくなった。自分でも理由がわからないまま、アーラシュは彼に背を向ける。歩き出して、心の向くままに口を開いていた。
「かしこまりました。坊ちゃんがそうおっしゃるなら、お望み通りにいたしましょう」
そのときイゼットがどんな表情をしていたのか、アーラシュは知らない。

そのようなことがあってから、アーラシュはイゼットとほとんど口を利かなかった。本家への同伴はするものの、どうしても必要なとき以外は別行動をしていた。
そんな日が三日ほど続いた夜。アーラシュはセリンに呼び出された。心当たりがありすぎる。単身獅子の巣に行くような心地で少年は主人の部屋へ向かった。
いつものように挨拶して、入室する。領主の妻の部屋にしては殺風景なそこには、ヒルカニアらしい置物や調度品に混ざって、ペルグ伝統の飾り物や色とりどりの陶器が置かれている。よく目を凝らすと、衣装棚のそばには、見慣れぬ銀の小物や妙な図柄が描かれた護符がある。占いや儀式の道具なのだと、なにかの折に聞いたことがあった。
セリンは絨毯の上にさらに布をしいて、そこにアーラシュの好きな菓子を並べていた。彼が目前でひざまずいて礼をすると、いつもの穏やかな笑顔を向けてくる。
「そうかたくならなくていいのですよ。お座りなさい」
「……失礼します」
アーラシュは絨毯に腰を下ろした。一年も経てば、戸惑いも薄れるというものだ。
しばらくはセリンと向かい合って、業務の話や世間話をした。なんとなくぎこちなくなってしまうのは仕方がない。セリンの方もそれをくみ取ってか、やがて柔らかく本題を切り出した。
「イゼットとなにかありましたか」
アーラシュはとっさに答えられなかった。口をもごもごさせながらセリンを見つめる。彼女はごまかしが下手な少年に苦笑した。
「珍しいこともあるのね。喧嘩でもしてしまったのですか?」
「いえ……その」
どう言ったらいいのかわからない。かといって隠すこともできそうにない。ふしぎな色の瞳は、時折何もかもを見透かしてくるようなのだ。アーラシュが逡巡している間、セリンはしばらく黙っていた。そして心地の悪い沈黙が長く続くと、独り言のように口を開く。
「あの子、本家に出ている間のことは、ほとんど話してくれないのです。私に心配をかけさせまいとしているのでしょうけれど……」
アーラシュは顔を上げた。ぎくりとした。
セリンの笑顔は変わらない。ただ、どこか悲しそうにも見える。
「私は立場上、本家にあまり出ることができません。だから、イゼットの身になにか起きていても、直接守ってあげることができない。その代わりできるだけ支えになってあげようとは思っているけれど……恥ずかしながら、やり方がわからないのです。無理に聞き出すのはよくない、けれど聞かなければあの子はずっといい子でいようとするでしょう。どうするのが正解なのか、毎日考えては、試行錯誤して、失敗している気がします」
だめな母親ですね、と静かに言ったセリンを見、少年は唇をかんだ。
彼女は気づいている。知っている。そして苦悩している。イゼットと同じように。――アーラシュと同じように。
「ねえアーラシュ」
「はい」
「おかしなことをお願いするようですけれど……イゼットの友達になってあげてくれませんか」
アーラシュは知らぬうちに背筋を伸ばしていた。驚き以上に、なにか、言いようのない、すっぱい感情が胸を満たしている。
「親には話せなくても、友達になら話せることがあると思うのです。それにイゼットはあなたのことをとても慕っていますから」
「坊ちゃんが、ですか」
「ええ。あなたが来てからというもの、あなたの話ばかりしているのですよ」
まだ、母親といる時間が多かった頃。イゼットは毎晩母親に「アーラシュと庭で遊んだ」とか「剣の稽古をして何回負けた」とか、そんなことばかり報告していたのだという。話を聞きながら、アーラシュは、イゼットの数日前の言葉を思い出していた。
肩入れするなと吐き捨てた、彼の本心はどこにあるのか。ごまかすことと隠すことを覚えてしまった少年は、本当は何を言おうとしていたのか。

『やめてくれ』
――思い出せ。あいつはあのとき、どんな顔をしていた?

「わかりました」
その一語は、するりと出てきた。少年がこうべを垂れると、奥方は静かに感謝の言葉を述べる。しかしアーラシュは、かぶりを振った。
「いえ、奥方様。お礼を言わなくてはいけないのは、私の方です。大事なことを思い出させてくださって、ありがとうございます」

イゼットと自分は似ている。最初から、アーラシュはそう思っていた。どうにもならない理由でまわりから蔑まれる。一方で、数少ないながら支えてくれる人もいる。けれど、なかなかその手を取ろうとはしない。違うところがあるとすれば――現状に反発するか、現状を受け入れようとするか。それだけの、しかし大きな違いだ。
馬鹿じゃないかと思う。いい子のふりして受け入れようとしたって、それで壊れてしまってはどうしようもない。けれど、それが彼なのだ。決して荒まずまっすぐでいようとして、それ故にゆがんでしまう。馬鹿らしいほどに素直で不器用。それが彼の友人なのだ。
違う人間なのだから、違っていて当たり前だ。彼の考えをアーラシュが否定することはできないし、アーラシュの価値観をイゼットに否定される筋合いもない。だからただ、そういうものだと思えばいい。わかっている。わかっているなら、次にすることは決まっていた。

セリンと話をしてから三日後、本家へ同行したアーラシュは、自分の仕事と勉強を終えて、イゼットの姿を探していた。離れへ続く入口の前で待ち合わせたはずが、約束の時間になっても一向に現れないのだ。せっかく話をしようと腹を決めてきたのに、いつまで経っても顔が見られない。
もどかしい。決心が揺らぎそうになる。
苛々しながら、彼は年下の少年の姿と声を求めて歩き回った。来た道を戻りはじめて少ししたとき、望んでいた声を拾う。だがそれは、アーラシュの知る穏やかなものでも、あの日のような荒々しいものでもなかった。
嫌な予感がする。
我知らず早足になって、アーラシュは声のする方へ向かった。
二度ほど廊下を曲がった先。回廊の、列柱と植え込みの陰になっている場所に、探していた少年はいた。そして向かい側には、背の高い別の少年が立っている。当主ラフシャーンによく似た顔だち。しかし彼の性根をうんと歪めたような雰囲気が横顔から漂う。
長兄だ。名前は、確か、シャーヤールだったか。初対面でしかめっ面をされて虫を追い払うようなしぐさをされて以降、「きわめて嫌な奴」と思っている相手だ。名前を記憶したくもない。
そのシャーヤール殿とイゼットが向かい合っているこの状況が、穏やかなものであるはずもなかった。
どすっ、ともザシュ、とも聞こえる不快な音が唐突に耳朶を揺らした。はっとしたアーラシュが列柱の陰からむこうを見ると、イゼットがみぞおちの少し上あたりを押さえてうずくまっている。シャーヤールは遠目からでもわかるほど顔を歪めると、振り上げた右足で異母弟の頭を蹴り上げ、ついでとばかりに踏みつける。口が激しく動いているが、何を言っているかはここからでは聞き取れない。ただ、罵声であることは明らかだ。
ずっとこれが続いてきたのだと、アーラシュは悟らざるを得なかった。二人が本家に出るようになってからずっと、しかも、アーラシュやセリンの耳目がないときを狙って、兄たちは妾腹の子を痛めつけ続けた。
手が痛い。そう思ってアーラシュは初めて、自分が強く拳を握っていることに気づいた。血のにじんだ手を開く。息を吸って、吐く。
落ち着け。自分は召使だ。主人と、主人の家族の不利益になるような振る舞いをしてはいけない。
そっと足を踏み出す。一年と少しぶりに、兵士の訓練所での日々を思い出す。可能な限り足音を殺して、物陰から物陰へと移る。そのたび、聞きたくない音ばかりが飛び込んできた。
落ち着け、落ち着け。
「――おまえと共に勉強する俺たちの身にもなってみろよ。って、ああ……こんなことを言っても伝わらないか。遊牧民上がりの蛮人には」
言い聞かせる。
「まあとにかく、今後はよけいなことを言うなよ。馬鹿のままでいればいいんだ。そうすれば、愛玩動物ていどにはかわいがってやる」
まともに長兄の声が聞こえるようになったとき、ところどころかすれた声で、イゼットがうめきながら謝罪をこぼした。ごめんなさい、ゆるしてくださいと。
もうこれ以上、我慢する必要はないと思った。
「ああ、ここにいらっしゃいましたか。坊ちゃん」
わざと声を大きくする。すさんでいた空間がまっさらになった。シャーヤールとイゼットが、それぞれ別の感情を湛えて、唖然とした顔を少年に向ける。彼は突き刺さる視線を一顧だにせず、陽気に見えるよう笑みを浮かべた。
「なかなかお戻りにならないので、探し回ってしまいましたよ」
「アーラシュ……?」
状況が飲み込めていないような顔をイゼットが持ち上げた。虐めの跡と涙とでぐちゃぐちゃになった顔。だが、陽の色の瞳の美しさは変わらない。アーラシュはそのことに安堵して、一歩を踏み出した。そこで、我に返ったらしいシャーヤールが両腕を広げる。
「おい待て。こいつと俺は今、話をしているところだ。召使が邪魔をするな」
「困りましたね。約束の時間は過ぎていますよ、シャーヤール様」
「おまえの都合など知ったことか。引っ込んでいろ」
「私の、ではありません。セリン様との『約束』です」
アーラシュがさらりと口にした言葉は、半分はったりで、半分は事実であった。本家での勉強の後、イゼットとセリンは 巫覡 シャマン の力の扱い方や精霊との接し方を練習している。
もっとも、それが真実かどうかは、今はどうでもよい。
「お話なら明日でも可能でしょう。今日のところはお引き取りください」
「おまえっ……!」
かみつくように踏み出した少年を、アーラシュは手で制す。「それと」と、あえてきつくした声で続け、生意気な発言を封じ込めた。
「自分より五つも年下の弟君を力ずくで黙らせようとするのは、感心しませんね」
対面する少年の両目が開かれる。虚勢が少しずつ剥がれ落ちてきた。そこへさらに刃を差し入れるように――アーラシュは笑みを深めた。
「シャーヤール様は家督を継がれる可能性が高いでしょう。当主、ひいては領主となるお方がそのような有り様では困ります。お館様も失望なさるかもしれません」
彼の顔が赤くなり、ついで蒼くなる。知った風な口を、とかなんとかうめいていたが、結局は歯を食いしばってしかめっ面をしたまま、そっぽを向いた。そして無言のままアーラシュの体を右手で押しのけると、何事か悪態をつきながら家の方へ戻っていく。訓練所育ちのアーラシュは、その気になれば彼を止めることなどわけもなかったが、今はあえて手を抜いた。彼の本来の仕事はシャーヤールを懲らしめることではなく、イゼットを助けることだ。
そのイゼットに目をやれば、まだ呆然としてアーラシュを見ている。
アーラシュはわざと盛大にため息をついて、頭をかいてみせた。
「あーあー。これで謹慎とか言われたらどうしようか。俺は別にいいけど、坊ちゃんのまわりで目を光らせる人間がいないのは、ちょっとなあ」
言いながらイゼットの前まで行って、しゃがみ込む。
「アーラシュ……あの……」
「坊ちゃん、なぜ誰にも助けを求めなかったのですか」
アーラシュ自身に何かを言ってくるとは思っていなかった。あんな態度を取ってしまったのだ、避けられるのは仕方がない。セリンに何も言えなかったのは、母親だからか、それとも。
イゼットは、目を伏せた。なにかを探す子どもの瞳が地面より少し高いところを行き来する。彼が言葉をまとめるのをアーラシュが待ち続けていると、ややして小さな声が聞こえた。
「話を、したら。ははうえは、ご自分を責めてしまうのではないかと……思うと、言えなかった……」
「……坊ちゃん」
「私は……このくらいがまんできるから、がまんすればいいやって思って。それに、しかたがないんだ。精霊が見える私が、みんなは怖いんだ。怖がらせて、もうしわけないって」
堰を切ったように話し出したイゼットの言葉にまとまりはない。そのまとまりのなさこそが、心の色を映し出していた。
アーラシュはかすかに息を吐くと、手を伸ばした。イゼットの頭において、茶色い髪をわしわしとなでる。
「あのなあ」
自然と仮面を放り捨てた彼を、イゼットは驚きをもって見上げている。アーラシュはそれがわかってなお、言葉をつづけた。
「怖いから虐めていい、なんていう馬鹿な論理が成り立ってたまるかよ。おまえが黙って殴られなきゃいけない理由なんざ、どこにもないんだ。おまえはもっと怒っていいし、辛いって言っていい。まあ、奥方様に言えない気持ちはわからないでもないけど……でもきっと、そうやって黙っている方が、奥方様は心配すると思う」
悲しそうな笑顔が脳裏によぎる。
あの女性は、己の立場も息子の状況もすべてわかって、だからこそ苦悩していた。立場ある者の苦労というのをアーラシュは最近になってようやく知った。だから、アーラシュは彼にしかできないことをする。貧民窟生まれで王侯貴族の決まりごとに縛られない彼だからこそ、できることを。
「でも、どうしても無理だと思うなら、俺に言ってこい。俺は別に、お館様に怒られるくらいどうってことねえよ。さすがに首切りは困るけど……まあ、その辺は奥方様だのみかな……」
アーラシュは、もごもごと口を動かした後、頭をかいた。
格好良く言い切ってお坊ちゃんを安心させるつもりが、最後はなんだかしまりのない感じになった。イゼットはしばしぽかんとしていたが、驚きが過ぎ去ると、幼い顔をくしゃくしゃにした。
体から力が抜けて、うずくまる少年に、アーラシュはそっと手を添える。
「アーラシュ」
「……なんでしょう」
「この前は、悪かった。私、きついことを言ってしまった。おまえに嫌な思いをしてほしくなかっただけなのに、それでおまえを傷つけてしまった」
「いえ……私の方こそ、申し訳ありませんでした。召使にあるまじき言動でした」
イゼットの肩が大きく震えた。そう思った次の時、彼は嗚咽を漏らしはじめた。なるべく人に聞かれないよう、アーラシュは彼の顔をそっと自分の胸に押し付ける。
「私のような召使を思いやってくださり、ありがとうございます。しかし、坊ちゃんはまずご自分を大切になさってください」
声を落としてそう言うと、小さなうなずきが返ってきた。

「坊ちゃんにひとつお願いがあるのですが……聞いていただけますか」
アーラシュが改まって切り出したのは、イゼットが落ち着いて、部屋に戻ろうということになったときだった。歩くのが辛そうだったので、本人の了承を得てアーラシュが背負っている。その彼は、背中越しに怪訝そうな視線を向けてきた。
「お願い? なんだ?」
「――その、私と、友人になってはいただけないでしょうか」
「……ん?」
イゼットは少し首をかしげたようだった。居心地が悪くなって、アーラシュは咳払いする。あれこれと言い訳をしたい衝動にかられたが、まさかセリンに頼まれたと馬鹿正直に白状するわけにもいかない。
「どういうことだ?」
彼が内心そわそわしていたところにイゼットが投げ込んだ言葉は、予想の斜め上をいくものだった。
「私たちは今まで、友達じゃなかったということか」
「――はい?」
今度は、アーラシュの方が素っ頓狂な声を上げる番だった。背中越しに、ご子息の声が届く。
「私はずーっと友達だと思っていたのだけど、アーラシュはちがったのだな」
ふてくされたような言葉は、しかし繕ったものだとすぐにわかる。アーラシュは少し悩んだ後、「申し訳ありません」と頭を下げた。イゼットは、くすくすと笑う。久しぶりに聞く笑い声だ。
「うん、わかった。じゃあ、今日からしきりなおしだ」
「ご寛容、感謝いたします」
「まずはその言葉づかいからだな」
背後から指が伸びてきて、アーラシュの頬をつつく。彼は思わず「言葉遣いでございますか」と訊き返した。イゼットの言いたいことはなんとなくわかっていたが、すぐに認めたくなかったのだ。
だが、まだ幼い少年は容赦がない。
「友達だというのなら、さっきみたいに話してほしい」
「いえ、しかし。私にも坊ちゃんにも、立場というものがありましてですね」
「しょうちしてる。だから、二人きりの時だけでいい」
彼がそう言っている今、二人のいる列柱廊にひとけはない。狙ったなこいつ、と心の中で毒づいて、アーラシュはうめいた。
けれど――逡巡する時間は、思ったほど長くなかった。
「……わかったよ、イゼット。誰もいないときだけだからな」
「うん。ありがとう、アーラシュ」
かんばかりの声でお礼を言われれば、先ほどまでのややこしい罪悪感も吹き飛んだ。アーラシュはそんな己に苦笑する。それに、堅苦しい態度よりもこういう口調が合っていると、久方ぶりに思い出した。
「まずは奥方様に報告だ。今日のことはちゃんと言わないとだめだからな」
「う、うん……」
「大丈夫。俺も同席する。……俺も、シャーヤール様に喧嘩売るようなことしちまったからなあ。奥方様はお怒りにはならないだろうけど、申し訳ない」
「言わなきゃいけないのは、おたがいさまだな」
「そういうこった」
難題はひとつ、ふたつと増えた気がするが、気分はこの上なく清々しい。はっきりと顔を上げたアーラシュは、無茶をした友人を背負って、職場へと戻ってゆく。
それ以降、二人は気の置けない友人として、あるいは夫人の子息と召使として、数年の時を過ごすことになる。
変わらないと思っていた日々が唐突に終わるのは、イゼットが九歳となる年の、夏のはじめのことである。