第一章 女神の祭り場(4)

「神がみが本来、どのようなお姿なのかはわかりません。しかし、我々の前に降臨なさるときは、ヒトに近い姿となるのだと、教会の記録にあります」
 若々しい声が、反響してしみとおる。解説を聞きつつ、ステラは部屋の壁を埋め尽くす本棚を見上げていた。
 市民が日常的に立ち入るのは、教会に入ってすぐの礼拝の間だけなのだが、ほかにも様々な部屋があるらしい。その中で、ステラのような部外者も入ることが許されている場所を、エドワーズは順々に案内してくれた。
 今いるのは、資料室。ごくごく小さな図書室のようなものだ。教育の場が整備される以前は、ここが子どもたちの勉強部屋になることも多かったらしい。
 体を動かし剣を振るうことが好きなステラは、こういう場所にいるとなんだか落ち着かない。だが、エドワーズの話には興味を引かれるものも多かった。先ほどの、神様の姿の話もそうだが。
「教会の記録にあるって……まるで、神様が実在する、みたいですね」
 部屋から出る前に、ステラはふと思いついて呟いた。口に出してから、まずかったかと思ったが、エドワーズは意外にもおどけて笑う。
「真偽のほどはわかりません。記録を残した人物は神が見える数少ない人間だったのかもしれません。どの信仰、宗教にも、そういう方々がいますからね。ラフェイリアス教の『神官』も、元来はそういう特別な人々を指す言葉でしたし」
「なるほど。エドワーズさん、なんというか、意外と現実的なんですね」
 エドワーズは、すぐには何も言わず、ステラが退室した後、静かに扉を閉めた。古びた紙とインクの残り香が、ふわり、と通りすぎる。
「信じることも、もちろん大切です。しかし時には、俯瞰して、冷静に分析することも必要だと考えています。……特に、今のような世の中では」
 ――魔導術という、神の御業の再現のような力が発展し、工業が発展し、代わりに信仰をはじめとした多くのものが廃れていっている。そういう世になったのは、大人たちに言わせると最近のことらしい。『そういう世』にはじめから放り出されたステラはいまいち実感がわかないが、聖職に就いているエドワーズには、思うところがあるのかもしれない。ステラは一瞬、霧の中で見た無機質な文字のことを思い出した。
「同業者が凶刃に倒れた、などという話を聞くと、若輩ながら時代の変化というものを実感させられます」
 狙いすましたかのようにエドワーズが独白したので、ステラはどきりとして立ち止まってしまった。エドワーズが振り返る。呟いたのは無意識のことだったのか――見開かれた目に、焦燥と羞恥の色が浮かんでいた。
「す、すみません……今のは聞き流していただいて結構です」
「あ、いえ、大丈夫です。たまたま、その件を今朝知ったところだったので、ちょっとびっくりしただけです」
 両手を振って弁解したステラは、勢いのまま話題をつないだ。気がつけば、もとの礼拝の間はすぐそこだ。
「なんでこんな形で亡くなってしまったんですかね。何か悪いことをしていたとか、そういうわけではなさそうでしたけど」
「そうですね。それは考えにくい。彼は私よりずっと信心深くて人が好かったので」
「お知り合いだったんですか?」
「月に一度、会って話をする程度には」
 神父の微笑は今までと変わらず、暗い感情は読みとれない。それでもステラは、笑顔の裏に押し殺されたものを感じて、息をのんだ。
 重苦しいものを抱えつつも、二人はもとの場所に戻ってきた。まだ、一日は始まったばかりだ。窓から差しこむ光のおかげで礼拝の間は明るい。ほっと息を吐いたステラは、エドワーズに小さくお辞儀をした。
「色々見せていただいて、ありがとうございました」
「どういたしまして。また、いつでもいらっしゃってください」
「はい!」
 元気に返事をしたステラは、一仕事終えたような気分になっていた。しかし、今日の仕事はまだ始まってもいない。
「そうだ。エドワーズさん、すみません――」
 ステラは慌てて口を開く。底抜けに明るい団長のためにも、今回の来訪のもう一つの目的を少しだけ話しておいた方がいいだろう。
 しかし、言葉を続けることはできなかった。
 背筋が凍る。肌が粟立つ。
 一瞬にも満たない時間、体の上から下までが固まって――その呪縛が解けたとき、彼女は前に飛び出していた。
「危ない!」
 礼儀も遠慮もすべて忘れて、少女は神父に体をぶつけた。女子らしからぬ強い力に押されたエドワーズはよろめいて、そしてすぐに蒼ざめた。少し前、彼と少女の頭があったところを鋭い『何か』が通りすぎる。それは最後、白い壁にぶつかり、そこに深い穴を開けた。外が見えない程度の穴だが、周囲に広く走った蜘蛛の巣状の罅が衝撃の強さを知らせていた。
 跳ね起きて穴を見たステラも、息をのむ。そのまま呆然としてしまいそうだったが、彼女の本能と鍛えられた勘はそれを許してくれなかった。扉の方から、どす黒く鋭い気配が流れてきて、肌を突き刺している。それを殺意と呼ぶのだと、若き武人は知っていた。
 エドワーズをかばうように立ち位置を変えながら、ステラは体ごと振り返る。
 いつからいたのだろう。扉の前に人が立っていた。彼女より少し背の低い人。頭から膝下までをすっぽり覆うローブのせいで、年齢どころか性別も見ただけではわからない。何も持たずに立っている彼は、わずかに見える口もとに、凶暴な笑みをひらめかせた。
「おや、こんな時間に一般人がいるなんて、珍しい。おかげで予定が狂っちまったよ」
 嗤う声は、男のようで、けれど高い。少年の声に近かった。彼は悠然と礼拝の間に入ってくる。
「神父だけ殺して、さっさと退散するつもりだったのになあ」
 声が耳にまとわりつく。ステラは、不快感を押し殺して身構えた。エドワーズが「いけません」とささやいたが、まるきり無視した。
 武器になるものは何もない。自前の剣は孤児院に置いてきている。必要なとき以外は持ち出さないようにしていたのだが、今回はそれがあだとなった。
 己の失敗を嘆いている暇はない。
 おそらく、戦わなければ二人とも殺される。
 襲撃者の笑い声が、浮かんだ推測を裏付けた。
「俺はラメドほど紳士的じゃないんでね。女だろうがガキだろうが手は抜かない。見られたからには死んでもらおう」
「悪いけど、こっちも大人しく死ぬ気はないわよ」
「……へえ」
 切り返されたことが意外だったのか、襲撃者は笑みを深めた。そのまま、散歩のような足取りでステラたちとの距離を詰めてくる。
「威勢のいいガキだね。その強気がいつまでもつかは、知らないけど」
 嘲笑を浴びても、ステラは眉ひとつ動かさない。少なくとも表面上は平静を保って、ローブをまとった人間の一挙手一投足を観察していた。
 自分の鼓動を数え、響く足音を三回聞いて――ステラは大きく踏み込んだ。
 ローブが揺れて、その影から少し見えた目は、驚きに見開かれていた。ステラは気にせず飛び出して、相手に体をぶつけにいく。エドワーズのときとは違う、攻撃のための体当たり。
 手ごたえはあった。相手の体が大きく後ろに傾いた瞬間、ステラは相手を拘束すべく、その腕に手を伸ばす。だが、その一瞬前に、腹に強い衝撃を受けた。
 視界が白く染まる。何が起きたかわからなかった。ほとんど反射で床を踏みしめる。それでも頭の中はめちゃくちゃに揺れていたが、時間が経つにつれそれも収まり、視界が晴れる。いつの間にか立ち上がっていた襲撃者が、楽しそうに全身を揺らして笑っていた。
「おお、持ちこたえるとは思わなかったな。さっきの身のこなしといい、おまえ、ただのガキじゃなさそうだね」
「えら、そうに……!」
 反射的に吐き捨てたステラは、胸のあたりに痛みを感じて思わず手をやった。どこか骨をやられたのかもしれない。冷静に考えかけて、ぞっとした。あの体のどこに人の骨を折るほどの力があるのか。それ以前に、今、何が起きたのか。
 目の前で笑う彼に詰め寄りたい衝動にかられる。しかしステラは、彼から目を離さないまま、後ろに向けてささやいた。
「エドワーズさん、逃げてください。あいつは私が引きつけますから、その隙に」
「な、何を仰るんですか!? あなたを置いて逃げるなど、できるわけが……」
「私は大丈夫です。少しは戦えます。だから、急いで。あいつ、危険です」
「危険ならば、なおさらできません!」
 かたくなにステラを咎める神父はきっと、怒った顔をしているのだろう。ステラは、困ったような笑みをつくる。だが、それは長くはもたなかった。
「おっと、無駄話はそこまでだ」
 乾いた笑声が、場を再び凍りつかせた。語気を荒げていたエドワーズも、息をのんで押し黙る。
「俺が黙ってそこの神父を見逃すとでも思ってるのかな、お嬢さん?」
「思ってないわよ。だからこそ――」
「自分が止めるとか、言うんじゃないだろうな」
 切り返した少女に、襲撃者は不快な響きを投げつける。ステラが唇を引き結ぶのを見、彼は愉快そうに体をゆすった。そうかと思えば、やにわに右手を挙げた。
「そんなに殺されたいなら、おまえから殺してあげるよ」
 広げられた掌に、束の間、薄紫色の光が集まる。
 それは瞬く間に形を変え、広がって――彼の手の中に、巨大な鎌を生み出した。
 常軌を逸した光景に、少女と神父は凍りついた。
「何あれ……」
 ステラは震え声で呟いた。「魔導術」の一種かとも思ったが、何もないところから武器を生み出す術など聞いたことがない。それに、魔導術であの大鎌のような物体を作り出すならば、その材料がまわりになくてはならないはずだ。
 理論も法則も常識も無視してどこからか取り出した巨大鎌を、襲撃者は軽々と振って、構えた。服装と相まって、その姿はさながら民話の中の死神のようである。
 どう動くべきか、とステラが迷ったその間に、相手は鎌を振りかざして突っこんできた。とっさにエドワーズ諸共床に身を投げ出したステラは、頭の上を通りすぎた刃の気配にぞっとする。
「危ない!」
 今度は、エドワーズが叫んだ。何事かと思って視線を上げたステラの目に、鎌の刃と同じ形をした、薄紫色の光が映りこむ。それは、まっすぐステラの方に飛んできた――
「え」
 その危険に気づいた頃には、目の前が光に覆われていた。
 死をすぐそばに感じて身を固くする。刹那、眼前に薄い金色が降りてきて、光が和らいだ。
 光は奇妙に揺らいで消える。そのむこうに見えた襲撃者は、瞠目していた。
「今のは」
 唇がそう動いたように、ステラには見えた。だが、愕然としていたようだった彼は、すぐに顔を引き締めて鎌を振った。湾曲した刃に火の玉が当たって弾ける。
「魔導術!? 一体、何が――」
 エドワーズの慌てふためく声が響く。
 何が起きたかはステラにもわからなかったが、この場の誰のものでもない声が、一応の答えをくれた。
「ナタリー、火はやめとけよ。火事になったらどうすんだ」
「手段選んでる場合じゃないでしょ! それよりレクは二人の保護、早く!」
「わぁーかってますよ、っと」
 少年の声はすぐそばで、少女の声は教会の扉の方から、それぞれ聞こえた。ステラは、少年の声のした方を見上げる。新緑を思わせる瞳が、彼女をのぞきこんでいた。
「……レク?」
「おはようさん、ステラ。ぎりぎり生きてるな」
 陽気な声に呼びかけられる。ステラは呆然としたまま首を縦に振った。幼馴染の戸惑いをよそに「よし」と呟いたレクシオは、ステラたち二人をかばうように立ち位置を変え、襲撃者をにらむ。
「さーて、ローブの兄さんよ。悪いが遊びはここまでだ」
 ローブの奥の三白眼が、険悪に細められた。