第四章 新時代の『翼』(3)

 まるい月に支配された夜空を、カラスがなめらかに飛んでいる。夜よりも深い黒の翼を持った相棒を見すえ、ラメドは厳かに腕を持ち上げた。カラスは大きな声で鳴き、ラメドの上にとまって羽ばたく。
 カラスという鳥の姿を取った使いは、にぶい金色の目を地上に向ける。その目を通して、男は地上の様子をうかがっていた。カラスが再び飛び立つと、ラメドはやや平たい顎に指をかける。
「『銀の選定』……」
 ささやきは、草木のざわめきにかき消されてほとんど聞こえなかった。けれど男は気にしない。どうせ、聞いているのは自分ひとりなのだから。
「あれが、当代の『翼』か」
 栗色の髪を持つ、剣士の娘。カラスを通して見た姿を、脳裏に思い描き――吐息をこぼす。
 あのような若い娘一人に世界を背負わせるとは。一体、どういうおつもりなのだろう、ラフィア様は。
 かつての主の意図を読み取ることは、ラメドにはできそうもなかった。
 神父を、あるいは新たな『翼』を殺すために地上へ向かった二人のことを想う。正直、ラメド自身は任務が達成できるかどうか、という点にこだわっていなかった。無事に戻ってくればそれでいい。『選定』は阻止できぬ。そんなことは、初めからわかっていたのだ。
 大事なのはそこではない。『銀の翼』に刃を向けるべき時は、今ではない。
 目を開く。瞑目していたことに、そのときになって気づいた。
 振り返った。その先にあるのは、木々と街の影だけだ。しかし、ラメドはその風景の中に、宿敵の姿を見出していた。
「やはり、来たか」


 虚空から鎌を生み出したギーメルが、迫ってくる。大きく得物を振りかぶった彼の一撃は弾かれた。ステラの剣によってではなく、孤を描いて伸びてきた銀糸によって。
『それ』はあまりにも細い。ゆえに、目に見えない壁に鎌が阻まれたようにも見えた。ステラが鋼線に気づいたのは、単純に見慣れていたから――そして、持ち主の気配を察知していたからだ。
 銀糸が縮む。人影がステラの前に躍り出る。青年は彼を見て、さらに顔をゆがめた。
「レク」
「よう。遅くなって悪かったな」
「いや、それはいいけど……」
 ステラはなんとなく頭をかきながら、視線を泳がせる。大きく手を振るナタリーと、会釈するエドワーズ神父の姿を見つけて、なんとも言えぬ気持ちになった。合流してくれたのは嬉しいが、なぜ神父様まで一緒なのか。
「神父様が一緒にいるのは、ご自身の強い希望によって、さ。『翼』がどこの誰かってのを確認したかったんだろうよ」
 彼女の内心を見透かしたように、レクシオがささやく。ステラはそれに対して、とっさに言葉を返せなかった。
「ええと……」
 間抜けな返答は、彼女一人のものではなかった。ジャックとトニーも、困惑しきった顔をレクシオに向けている。彼は、軽くかぶりを振った。
「安心していいぜ。困ってるのはみな同じよ。俺だって、正直、頭痛がしてきそうだ」
「あんたが頭痛だけなら、あたしはそれに加えて胃が痛くなりそう」
「それは大変だ」
 あいている方の手をひらりと振って、レクシオは正面に向き直った。ステラも改めて剣を構える。渋面の青年が小声で何事かを吐き捨てたが、その内容を拾うことは、ステラたちにはできなかった。
 言葉の代わりに行動で、ギーメルはステラたちに対応してきた。先ほどまでよりも小ぶりな鎌を振りかざし、一気にステラとの距離を詰めてくる。ステラはとっさに応じたが、二回の攻撃を弾き、三回の攻撃を転がるようにかわすのが精いっぱいだった。攻勢に転じる余裕はない。息を切らせた彼女の背後からジャックが魔導術の刃を放ったが、それらはギーメル本人に当たる前に、鎌によって切り裂かれた。
「邪魔だな」
 ギーメルが、呟く。余裕が戻ってきたのだろうか、軽薄な色が声音ににじみ出ている。
 切り裂かれてほつれたローブの裾をさばきつつ、彼は危なげなく着地した。そうかと思えば、朱色の髪の少女を振り返る。
「アイン、あれを準備しろよ。そのために来たんだろ」
「今やってますー。あいかわらず、せっかちさんだなあ」
 アインは唇をとがらせる。そうしていると、普通の女の子に見えた。ギーメルは舌打ちをこぼして顔を背ける。彼の視線が逸れた瞬間に舌を出した少女は、何かを弄ぶように手を動かしていた。その指先で、光が躍っている。
「何をするつもりかね」
 ジャックの陰から顔を出したトニーが、眉間にしわを寄せた。そんな彼に声をかけたのは、混乱の中を突破してきたナタリーである。
「よくわかんないわ。相変わらず構成式も魔力も辿れない。けど……阻止しなきゃなんないのは変わらないでしょ」
「阻止、できるかねえ」
「できなくても努力をすんの。ほら」
 ナタリーは言うなりトニーの腕をむんずとつかんで、引きずっていく。同時にあいた方の手で構成式を組んだらしく、火の球が五つほど生まれて少女の方へ飛んでいった。戦場でも変わらない二人に、レクシオだけがひらひらと手を振った。
 その様子を視線だけで見送って、ステラは剣を横向きに構えた。その中心に鎌が当たって、右腕に痺れが走る。よろめきかけて、なんとかこらえた。
 顔を上げる。闇の中で、緑の瞳を見出した。
「レク、ナタリーたちの方に加勢してあげてくれない?」
「そうしたいところは山々なんだが、あの兄さんが通してくれなさそうだ」
 得物を弄ぶ幼馴染の言葉に、ステラはため息をつく。ギーメルに向けた目を、軽く細めた。
 彼の油断ない構えを見て、確かにこれは通してくれない、と肩をすくめる。
「どうする、二人とも」
 問いかける声があった。ジャックだ。秀麗な顔に疲労をにじませた彼を見返して、ステラは無言になる。対してレクシオは、こめかみをつつきながら口を開いた。
「俺としては、どうにか隙を作って逃げ出したいな。こっちの目的は達成したんだから」
「それには僕も同意する。けれど、敵はまだ何か隠し玉を持っていそうだよ」
「その隠し玉を使われる前に、逃げるのさ。問題は、そのための隙をどう作るかだ」
 調子のよい応酬を聞きながら、ステラはギーメルの動きを警戒する。しかし、彼は一切動かない。鎌を両手で持ったまま、暗いところからこちらを見つめているだけだった。
「動けるか、ステラ」
 少しして、横合いから声がかかる。ステラは剣を構えなおした。
「大丈夫」
「今の話、聞こえてたな」
「うん」
「よし。んじゃ、やりますか」
 レクシオはうんと伸びをしてから、鋼線を構えた。
 前方の影が揺れる。乾いた声が這いよってきた。
「お話は終わりかな、人間のガキども。それじゃあ、そろそろ終幕といこう」
 ステラは眉を寄せる。今までは待ってやっていた、ということか。文句のひとつも言いたくなったが、そこはぐっと飲みこんで、腰を落とす。
 無音。その後、彼らは動く。ステラはまっすぐギーメルの方へ、レクシオは右斜め前へ、それぞれ駆け出した。同時に動いたギーメルは、まばたきするほどの間にステラの前へ到達する。今までの、どのときよりも速かった。
 正確に首を狙った一振りを、ステラはすんでのところで避けた。軽く地面を蹴って後方へ跳び、鋭く剣を突き出す。その一撃は避けられた。ステラは構わず、第二、第三の突きを繰り出す。そして四度目が、鎌によって防がれた。
 甲高い音が響く。そのとき、暗闇を潜り抜けて金属の糸が伸びる。今度の鋼線は、最初にギーメルの一撃を防いだときより太くなっていた。しなり、うねりながら伸びた銀糸は、鎌の柄にするすると巻きついた。
「こざかしい」
 青年は苛立たしげに叫んだ。それが合図であったかのように、鎌が光り、その輪郭が崩れていく。拘束する対象を失った鋼線は頼りなく解けていった。しかし、すぐにレクシオが制御したらしく、ぴんと張って闇の中へ戻っていく。
 その間にも鎌は姿を変えようとしていた。ステラが横薙ぎにした剣をひらりとかわしたギーメルは、鎌から変質したモノを彼女に向ける。光の粒をまき散らすそれを、少女は真っ向からにらみすえた。決して、目を逸らさなかった。
 ローブの下の顔が嗤う。彼の手もとの光の先が尖った。それはすぐに、彼の手から離れる。刃の形をとった光は、ステラの眉間を正確に狙った。しかし、彼女が光に貫かれることはなかった。
 突然体が熱くなる。ステラが感じたその熱が、前触れだった。疑念が浮かぶより早く、視界が白銀に染まる。まき散らされたもう一色の光は、ギーメルが放った刃をあっさりとのみこんで、砕いた。
「まずい……ステラ、抑えるんだ!」
 遠くから、少年の声がする。抑えろと言われても、どうすれば抑えられるというのか。ステラは魔導士の卵ですらないから、魔力の扱い方など、教わったこともないのだ。
 熱い。頭がぐらぐらする。思考はめちゃくちゃに絡まりあっていて、何も考えられない。脳みそが直接揺さぶられているみたいで、気分が悪かった。
 何もかもが、わからない。けれど、これをどうにかしないとまずい、というのは確かだ。
 落ち着け。己を叱りつけた。
「ラフィアの魔力か」
 ギーメルが吼える。表情は見えないが、声色から彼の激情がひしひしと伝わってきた。
 感情の揺らぎをなだめる。ひとまず、呼吸に意識を向けた。乱れてしまった息を少しずつ整える。ゆっくり、吸って、吐く。剣の稽古の前に行う精神統一と要領は同じだ。
 呼吸を繰り返していると、視界の銀色が薄らいで、夜の闇が戻ってきた。頬に当たる風が冷たい。両足は地面についている。ステラが世界を認識したときには、ローブをまとった青年が、今にも彼女につかみかかろうとしていたところだった。――だが、彼の行動は報われなかった。
 ギーメルの足もとが、ふいに沈んだ。それまでほとんど動揺を示さなかった青年が、初めて焦りに目を見開く。彼の姿が下へ沈む。放たれようとしていた光は、バチン、と弾けて散っていった。
 ぼこっと音を立てて崩れた地面。ジャックの魔導術で、ギーメルの足もとだけを脆くしたらしい。要は「落とし穴作戦」である。その過程こそ少々特殊だが、もととなる作戦は苦笑するほど古典的だった。
 ステラは軽く飛びのいて、剣を収める。その拍子によろめいた。まだ体がほてっている。気分の悪さも残っていた。それでもなんとか足を動かして、姿勢を立て直す。
 ナタリーたちには、レクシオが合図を送る手筈になっていた。あとは、ステラとジャックが迅速に撤退すればよい。
 ステラは落とし穴に背を向けた。
 その直後、鈍く大きな音がする。視線だけで音の方をうかがったステラは、思わず「げ」と濁ったうめき声をこぼした。
 全身を土と草まみれにしたギーメルが立っていた。ひきつった笑い声を漏らしているが、そこからにじみ出ているのは愉悦ではなく怒りである。
「ええ……もう登ってきたの……!」
「ジャックお手製」の落とし穴は、そこそこの深さがある。どんなに短くても二分は稼げるだろうと、ステラは踏んでいた。なぜそんな予測が立つかというと、彼女自身が数年前に嵌められたから、なのだが。ともかく、一分もせずに相手が穴から出てくるのは予想外の事態だった。だが、驚いてばかりもいられない。やるべきことは、何も変わらないのだ。
 どろどろとした殺意を背に受けつつ、ステラとジャックは粛々と逃げ出した。殺人鬼を落とし穴に落として逃げようとしたが、失敗して殺された、そんな展開になっては目も当てられない。悲劇より悲惨な喜劇を演じるのは、二人とも御免こうむりたかった。
 ステラは走っている途中、何度かよろけたが、転ぶことはなかった。先を行っていたジャックがステラの腕を引いてくれたのだ。お礼を言おうと、彼女は口を開きかける。
 が、言葉を発する前に凍りついた。
 ギーメルたちと対峙しているときとは違う悪寒が、全身を駆け巡る。足が震えた。逃げなければいけないはずなのに、恐れと警戒で体が思うように動かない。
 怪訝そうに振り返ったジャックも、直後にステラと同じものを感じたらしい。愕然として固まった。
「なんだ、これは」
 二人が察知したのは、膨大な魔力だった。
 その力は、レクシオが発するぬくもりと少し似ている。しかし、彼の何倍も烈しく――禍々しかった。