第三章 正義と悪の境界(3)

 ステラたちが謎の青年と遭遇したのと同じ頃。ジャック、オスカー、カーターの三人は軍本部の近くにやってきていた。軍にいきなり乗り込むつもりは、もちろんない。ジャックの知り合いが本部まわりに出没することが多いという、それだけの理由だった。
 幅広の通りには、喫茶店やお土産屋が軒を連ねている。その途上では、屋外に設置されたテーブルを囲んで女性たちがおしゃべりに興じていたり、子どもたちが石を蹴って遊んだりしていた。たくさんの軍人が近くにいるということを忘れそうなのどかさだ。もちろん、建物そのもののまわりには見張りの兵士が立っているが、彼らは建物に侵入しようともくろむ者を見つけない限り、足どころか眉ひとつも動かさない。
「なんかこう、観光地! って感じですよね」
 その通りを歩きながら、カーター・ソフィーリヤが率直な感想を漏らす。たまたま隣で聞いていたジャックは、肩を揺らして笑った。
「宮殿もそうだけど、物珍しさに見に来る人がいるみたいだからね。いくらものものしいと言ったって、あの巨大建造物は人目を引くよ」
 通りの先に、四角い影がそびえ立っている。ジャックたちはまだ商店街にいるのだが、そこからでも軍本部の大きさはよくわかるのだった。やれやれ、とばかりに笑うジャックの斜め前で、オスカーが不愉快そうに鼻を鳴らす。
「軍人志望でもない奴が、あれを見て何を楽しむのか、と思うけどな」
「僕も、そういう人たちの気持ちはよくわからないけれど、その人たちにはその人たちなりの楽しみ方があるのだろうね」
 自分たちが怪奇現象を求めて、ほかの人が見向きもしないような場所に突撃していくのと同じように。そう、続けかけた言葉を、ジャックはなんとなく打ち消した。ますます顔をしかめる親友の表情が、想像できてしまったからかもしれない。
 そういうたわいもない会話を差し挟みながら、三人は商店街を抜けて軍本部前まで来た。見張りの兵士の姿を遠目から見られるところで、足を止める。カーターは薄ら寒そうに肩をすくめ、オスカーは無言のまま建物を見上げる。そんな二人を左右に見つつ、ジャックは両目を光らせた。
「確か、この時間にジョーンズ議員がいらっしゃると聞いたんだけれど……上手く鉢合わせられるかな」
 それは、ジャックが父親のまわりから得た――正確には盗み聞きした――情報である。それゆえに必ずしも正確なわけではないが、市井の噂よりは信憑性が高いのも確かであった。
「とりあえず、このあたりで時間を潰しつつ、あたりを観察してみよう。話を聞けそうな人がいたら話しかける、という感じで」
 一緒にいる二人を振り返り、ジャックはそう声をかけた。カーターが緊張の面持ちでうなずく。オスカーも小さく顎を動かしたが、その後、本部の建物を見上げて呟いた。
「ここにエルデがいるんなら、今突入してしまいたい気もするな」
「どうどうオスカー。それで捕まったら、さすがに言い訳できないよ」
「冗談だ」
 オスカーは真顔で言い捨て、視線を通りに戻す。ジャックは、そうか、と答えてそれ以上追及しなかった。視線を感じて振り返ると、カーター少年が心細そうに見てきている。少々くせのある茶髪の下で、小動物のような瞳がきょろきょろと動いていた。ジャックは彼に向かって片目をつぶり、手を振った。――オスカーがあまり上手でない冗談を言うのは、昔からだ。
 気を取り直して、三人は軍本部のまわりを散歩しはじめた。もちろん、ただそぞろ歩いているわけではない。周囲に目を配り、音に耳を澄ませ、神経を研ぎ澄ます。
 商店街の方では笑い声が何度も弾け、子どもたちの黄色い声が風に乗って消えてゆく。揚げたイモの匂いが、ふうわりと漂って、熱とともに空へと立ち昇る。食欲とお腹の虫をくすぐられたジャックは、はたから見ても気づかぬ程度にほほ笑んで、お腹を押さえた。
 しばらく歩き回り、軍本部の正面に戻る。ちょうどそのとき、ジャックはお目当ての議員の姿を見出した。一度呼吸を整えてから、そちらに足を向けかける。しかし、踏み出そうとしたジャックは、軽く引っ張られる感覚を覚えて足を止めた。ちょうど真後ろにいたカーターが、彼の制服の袖を引いていたのだ。
「どうしたんだい、カーターくん」
「すみません……あの」
 開口一番、謝ってきた少年は、先ほどよりも頬が青白かった。訝しく思ったジャックがまばたきをしていると、カーターは震える指で、ジャックの肩のさらにむこうを指さす。
「今、すごく嫌な気配を感じたんです。あっちの方から……」
「なんだって?」
「気のせいかもしれないですけど、幽霊を調べにいったときに感じたものと、似ていて」
 ジャックは思わず隣を見る。オスカーはすでにこちらを見据えてきていた。彼に向けてうなずくと、ジャックは今までと同じ歩調で歩き出す。オスカーもそれに続いた。
 本部の裏口方面へ向かう議員の前を素通りする。そのまま本部を横切った後は、カーターの案内に従って歩いた。なるべく平静を装って。呼吸と歩調を乱さぬように。ジャックとカーターは、『武術科』のオスカーほど、そういう体の使い方は上手くない。だが、同好会グループ活動のおかげでほかの魔導科生よりはできている……と、思いたかった。
「あっちです」
 カーターがよろめきながらささやく。その言葉に従って、本部から少し離れたところにある建物の角を曲がった後、ジャックは思わず天を仰ぎそうになった。
 軍本部の窓をにらみつけている人がいる。ジャックより若干背の低い青年。髪も瞳の色も珍しくはないが、三白眼のせいでひどく人相が悪いような印象を覚える。そして、足もとまで覆い隠すローブをまとい、ただの青年にはない気配をまとっていた。武人の威圧感とも魔力とも違うそれは――少年たちを静かに圧迫する。
「君は」
 ジャックが紡いだ言葉は、ほとんど空気と同化していた。が、青年の耳はしっかりとそれを拾ったらしい。振り向くと同時、わかりやすく顔をゆがめた。
「なぜおまえがこんなところにいる。『銀の翼』は一緒じゃないようだが」
「……それはこちらの台詞だな。軍人でもなさそうだが、おまえはここで何をしている?」
 ジャックが答える前に、オスカーが半歩踏み出して相手をにらんだ。青年――ギーメルは舌打ちをすると、体ごと三人の方を向く。
「おまえたちには関係ないことだ。ついでに言うと、俺は今、おまえたちに用はない。殺されたくなければ去るんだな、人間」
 感情の読めない一言を拾い、今度こそジャックも口を開いた。
「あいにく、そういうわけにはいかないんだ。僕たちにもやることがあるのでね」
「口答えするとはいい度胸だな。ラメドから俺たちの正体については聞いたんだろう?」
「聞いたよ。セルフィラに従う神族だそうだね。けれど、それは今、そんなに重要じゃない」
 カーターが、彼の背後で悲鳴をのみこんだ。しかし、ジャックはギーメルから目を逸らさない。人ならざる者の力を感じながら、あえて退かなかった。むしろ、一歩踏み込んだ。
「なぜ、君がここにいる? セルフィラに従う神である君が、ここで何をしている?」
 ――さっきから、頭の奥底が熱い。首筋が、火花が散っているようにびりびりする。それが、よくないことが起きる前触れだと、少年はよく知っていた。
 この場にこれ以上いてはいけない。そう思うと同時に、ここを立ち去ってはいけない、という気もしていた。
 その危機感が、思ったより顔に出ていたのかもしれない。意外そうに、ギーメルが目を見開いた。彼はその後、三白眼を細めて、口をいびつに持ち上げた。
「ああ、そうか」
 声が、湿った嘲笑を帯びる。
「おまえたち、ヴィントの息子を探しにきたんだな」
 大気が一気に熱をはらんで、渦巻いた。少なくともジャックはそう錯覚した。乱れそうになる呼吸を抑え、青年と対峙する。並び立つ少年も顔色は変わっていなかったが、まわりの空気がかすかに揺らいだ。彼らのわずかな変化をおもしろがるように、ギーメルはなおも目を細める。
「残念だったなあ、こんなことになって。『あいつ』は『魔導の一族だから対処しやすくて助かった』なんて言ってたけど、俺にしてみれば、ただ殺すよりそっちの方が悪趣味だと思うよ」
「あいつ? ほかに誰かいるのか」
 オスカーが眉を跳ね上げる。ギーメルは彼の問いに答えず、喉の奥から笑声を漏らした。オスカーが、詰問しようとしてさらに一歩を踏み出す。だが、低い声が奏でられる前に、ジャックが彼の腕をつかんだ。
 驚く親友の肩を無言で叩き、ジャックはさらに前へ出る。くつくつと笑っている青年に色のない瞳を向けた。
「何をしたんだい」
 彼にしては低く静かな声が、四人の間を通り抜ける。青年がなおも答えずに立っているのを見て、ジャックは淡々と言い募った。
「君たちは、何をした? 憲兵隊に働きかけて、彼を連行するように仕向けたのか?――答えろ」
 普段、夏の太陽のような声とほほ笑みに彩られている唇から、地の底を這うような音が滑り出る。同時にジャックの中の魔力が弾け、あたりに青紫色の雷撃がほとばしった。光の残滓に触れたかたい地面に、ぼこっ、という鈍い音とともに穴がいくつも穿たれる。
「え、え!? ジャックさんの魔力が、急に強く……」
「まずいな」
 青ざめたカーターの隣でオスカーが舌打ちをこぼした。近くで交わされたやり取りすら聞いていないジャックの方へ、オスカーは手を伸ばす。そして、彼の襟首をつかんで引っ張った。
「落ち着け」
「オスカー」
 ジャックの親友を呼ぶ声は、いつもよりずっと剣呑だった。だがオスカーは、眉ひとつ動かさない。もちろん、ジャックの襟もつかんだままだ。
「わかってる。おまえがそうやって怒る理由はそんなに多くない。俺だって、今、心底腹が立ってる。けど、俺たちだけでアレに立ち向かうのは無謀だろ。というか、俺よりおまえの方が、そのことはよく知ってるだろうが」
 淡々と諭す声が響く。二人の間には、何物の干渉も許さぬような、かたい沈黙が漂った。
 ややして、荒ぶっていたジャックの呼吸が少しずつ落ち着きはじめた。それとともに、雷撃の勢いも弱まって消えていく。目を閉じ、しばらくうつむいたジャックは、それから深く息を吐いた。
「ごめん、オスカー。君の言う通りだ」
「……落ち着いたか」
「うん。もう大丈夫だから、放してくれないかな」
 ジャックが弱々しくほほ笑んで言うと、今度、オスカーはあっさりと手を放した。武術科生の剛腕から解放された少年は、小声で礼を言って襟元を整える。
 その対面では、やはり、ギーメルが湿っぽい笑声を立てていた。
「なんだ? 怒ってるのか、人間風情が」
「おまえはそういうふうに舐めた発言をするけどな、本気で怒ったジャックは神すら殺せるぞ。命を救ってやったことに感謝してほしいくらいだ」
 オスカーがジャックの背を叩いて、きっぱりと切り返す。
 それまで笑っていたギーメルが、表情を凍りつかせて眉を吊り上げた。わかりやすく変化する神族の表情をながめながら、彼は淡々と言葉を重ねた。
「それと、さっきも言ったが、腹を立てているのはこいつだけじゃねえ。ただで帰れると思うな」
「――悪いけどさ、おまえらが怒る相手は俺じゃない。『あいつ』とヴィントだ。そこんとこ、勘違いしないでもらえるかね」
 ギーメルがふてくされたように呟く。同時、彼の背後に黒い影が降り立った。三人の少年がそのことに気づく前に、神族の青年が嫌そうに唇を曲げて振り返る。
「あら、お友達? ギーメル」
「これが友好的なやり取りに見えるか、ダレット」
 青年は、苛立たしげに突き放す。だが、相手はそれを嗤うかのごとく頬を持ち上げた。深紅の唇が弧を描く。
 現れたのは、女性だった。背丈はジャックと同じくらいだろうか。くせのない射干玉の髪は背中の下半分まで伸びていて、鋭い目は妖しげな光を湛えている。体に沿った白い服を身に着けていた。ところどころに金色の装飾が輝く上質そうな上着とズボン。それを見て、ジャックは息をのんだ。緊張が胸を焦がし、鼓動を速くする。
 一方のギーメルは、女性に歯ぎしりを飛ばすと、衣の裾を荒々しくさばく。
「『銀の翼』のお友達だよ。報告は聞いただろ」
「ああ。この子たちもそうなの? 放っておいていいのかしら」
「今のところ、なんのお達しもきてないから、いいんだろうよ」
 どうやらギーメルは、この女性と顔見知りであるらしい。だが、会話から醸し出される雰囲気は、とても友好的とは言えなかった。
 オスカーがジャックの肩をつかむ。同時に、ささやいた。
「もしかして、さっき言ってた『あいつ』っていうのは」
「……あの女性のことだろうね。いやあ、思ったよりもずいぶんと厄介なことになっているみたいだ」
 強引に後ろへ下げられたジャックは、それに抗弁するどころか、不敵な笑みを浮かべて呟いた。その声が聞こえたのかどうなのか、それまでギーメルと何やら会話していた女性が、少年たちを振り返る。
「初めまして、『銀の翼』のお友達。礼儀正しいラメドにならって、挨拶くらいは致しましょう。我が名はダレット。セルフィラ様に仕える神の一柱よ。どうぞ、お見知りおきを……ああ、あなた方に名乗っていただく必要はないわ。特に興味もないから」
「……ご丁寧なことだな。それで、あんたは俺たちの仲間に何をした?」
「ヴィントのところのお坊ちゃんのこと? それなら別に、私は何もしていないわ」
 オスカーが目を細める。それだけで人を射殺せそうな視線に、けれどダレットはまったく動じていなかった。肩にかかった髪を払い、嫣然と笑う。
「私が手を入れたのは、軍人とやらの方よ。奴らは簡単でいいわね、『魔導の一族』の名を出しただけで、勝手に踊ってくれる」
 彼女がそう、あざ笑った瞬間。
 神を名乗る二人の姿が、ふいに消えた。
 三人はとっさに身構える。ジャックとカーターは、魔力を探るための感覚をできる限り開いた。しかし、あの独特な気配は、残り香ほども漂っていない。
 ただ、声だけが虚空を滑った。
『余計なことはしない方がいいわよ、お坊ちゃん方。あなたたちを死に近づけるだけだわ』
 嘲笑の気配が、風に乗って遠ざかってゆく。そして、街のざわめきが、最後の一音までをも完全に隠してしまった。
 カーターが肩を落とし、オスカーが舌打ちとともに地面を蹴りつける。そしてジャックは、乾いた笑いをこぼした。もはや笑うしかないという気分であった。
「まさか、こんなところにまで神様が関わってくるとは。ステラが聞いたら今度こそ怒り狂いそうだけれど、大丈夫かな」
「……おい、ジャック」
 低く押し殺された声に名を呼ばれ、美貌の少年は肩をすくめる。何を言われるか、予想はついていた。そして、その予想は的中する。
「これは、教会の件と関係があるんだろう。なら、今度こそ洗いざらい吐いてもらうぞ」
「もちろんだよ。最初からそのつもりだっただろう?」
 あえて明るく返したジャックは、空を仰ぐ。当然、神の気配は少しも感じられなかった。
「とりあえず、今日は一旦戻ろう。寮生だけにでも、このことを知らせた方がいいだろうからね」
 彼が両手を広げて言うと、『ミステール研究部』の二人はうなずいた。もちろん、すっきりしない、と顔に書かれてはいたが。