神官の幕間

 レイン・フロストは神官である。
 帝国と一般に呼ばれる国の、多くの人が信仰しているという『ラフェイリアス教』に、彼自身も身を捧げていた。
 彼はいつもは、ラフェイリアス教の総本山と呼ばれる都市の大聖堂に赴任しているのだが――今年の秋ごろからは、帝都にて仕事をしていた。

 この日、帝都のとあるオープンカフェに来ていたレインは、ふと顔を上げた。
 少しくすんで見える空は、それでも季節がらか、どこまでも高いように思われた。張りつめた冬の風が体を撫でてきて、青年神官は思わず上衣の襟元を寄せる。
 今年の冬もいよいよ本番だ。帝都は降雪量こそ少ないものの、例年にない寒波が襲っているということで、寒々しく乾いた空気に包まれる日が続いている。この年の冬を、まさか帝都で過ごすことになるとは思わなかった――というのが、レインの正直な感想でもあった。
「いつになったら、ラフィーナに帰れるんだろうなあ」
 ため息とともに愚痴をこぼしたレインは、それでも気を取り直して手を上げた。シチューとパンのセットを注文する。
 今は昼過ぎだ。客の入りがよい時間帯を少し過ぎているせいか、店内は人気もまばらの状態である。そのせいもあってかは分からないが、ほどなくして注文の品が運ばれてきた。見慣れた丸い黒パンが二つほど乗った小さな皿の横で、熱々のシチューがほかほかと湯気を立てている。
 店員が礼をして去っていくのを見届けたレインは、スプーンを手にとってシチューの中に突っ込んだ。豚肉の塊を口に運ぶ。ほどよく煮込まれた肉は、歯ごたえを残しつつも、やがてするするとほどけていった。白いシチューの味も染み込んでいて実に旨い。
 あっさりとシチューに陥落して上機嫌になっていたレイン。そんな彼の向かい側に、不意に一人の少女が座った。レインは気配に気づいて顔を上げる。
 腰辺りまである長い金髪に、翡翠のような緑の瞳。目に馴染みのない少女だ。レインは首をかしげたが、直後に、ぞくり、と背中に何かが走るのを感じる。
 おそらく魔導士か神官でなければ分からない、この力。それを感じた時点で、青年の記憶の中の、彼女の姿はよみがえった。
 そして少女の方はと言うと、それを確認したかのように薄く微笑む。
「こんにちは。レイン・フロスト。またお目にかかられて嬉しいわ」 「……どうも。夏以来かな?」
 微かな警戒心をにじませつつ、レインは応じる。
 彼女は変わり者で、よく彼の赴任先の大聖堂に顔を出すことはあった。
 だが今のように、神官としての職務中でもないときに干渉をしてくるというのは異常事態である。
 シチューをかきこみながらも意図を探ろうとする助祭をよそに、少女は何気ない風を装って注文を飛ばしていた。その内容を聞き、青年は顔をしかめる。
「来ていきなりチョコレートケーキって……」
「あら。いいじゃない、カフェなんだし」
 彼女はそう言うとテーブルに頬杖をついて微笑する。見掛け上は十歳から十二歳くらいの少女なのだが、そうとは思えない程妖艶な仕草であった。
 そのまま彼女は、口を開く。
「あなたが帝都(ここ)に召喚されたのって、秋口だったかしら」
「そうだよ」
「じゃあ、陽の月に始まった殺人事件のことは知らないのかしら」 「僕が来ていた頃にはおさまっていた、けど、友人の神父から話は聞いたな。噂はラフィーナの方にも届いていたし」
 スプーンで人参ととろみのるスープを同時にすくいながら、レインは答える。
 少女が問うているのは、夏から秋にかけて起きていた神父殺人および殺人未遂事件のことだろう。犯人は結局特定されなかったが、帝都の神父エドワーズが狙われて以降、似たような話は聞かなくなった。
 彼の言葉を聞くと、少女はあくまで淡々と言う。
「ふーん。じゃあ、この話は知ってる?」
「何?」
 幼いはずの口元に、艶やかな笑みが浮かんだ。

「『銀の選定』が行われたわ」

 その一瞬、レインの耳からすべての音が遠ざかる。さあ、と、波が引いてゆくように。
 だが、ひいた波は寄せるものだ。またすぐ、カフェの喧騒が戻ってきた。同時に、彼女の頼んだチョコレートケーキが運ばれてきたようだ。その瞬間だけ、少女は顔面に笑顔を爆発させる。
 それから嬉しそうにフォークでケーキをつつき始めた。彼女の姿を呆然と見ながら、レインは口を開く。
「なんだって?」
「ん?」
 少女はケーキの欠片を頬張った状態で顔を上げた。それを飲みこむとあくまで何気ない風にため息をつく。
「聞いてなかったの? 『銀の選定』よ。例の事件の、最後の被害者が、第二の襲撃を受けたその夜に行われたみたいね」
「おとぎ話じゃなかったのか……」
「馬鹿じゃないの。おとぎ話だったら、わざわざ位の高い神官や神父にだけ伝えられる、なんて小細工するわけないじゃない」
 まるで自分がそれをしたかのような口ぶりで、少女は言う。それからふと、冬の空を仰いだ。
「きっと、『金の選定』も近いわ」
 呟くような言葉。直後、下ろされた貌を見てレインはぞっとした。  緑の瞳に、研ぎ澄まされた剣のような光が宿っている。
「『銀の選定』のときは、反逆者たちの邪魔者が入ったわ」
「反逆者って……」
 相手の言葉を反芻してから、青年ははっと息をのんだ。  それこそおとぎ話のように伝えられてきた話があったのを、思い出したのだ。――遥か昔、主神ラフィアに逆らった者たちがいる、と。
「きっと『金』のときも、奴らは同じように妨害してくる」
 少女はひとりごつと、フォークでまたケーキをつついた。
 レインも急かされるような気持でシチューを口に運ぶ。ついでのように黒パンもちぎって食べた。
「ちなみにね。『銀』の一行は今、シュトラーゼにいるわ」
「シュトラーゼ? 北の?」
「そう」
 素っ気ない少女が、フォークを卓上に置く。それから、「女神像がある、ね」と厳かに付け足した。
 彼女が言いたいことをレインはおぼろげながら察する。女神ラフィアを模し、その力を注がれたといわれる像はこの世界と神の世界をつないでいる、ともされている。『選定』の補助媒体には最適だ。 『金の選定』は『銀』により行われる。この時代の『銀』が魔導士でなかった場合、そういった魔力の補助媒体がある場所で『選定』が起こる可能性が高い。
 つまりは。
「あなたがラフィーナに呼びもどされる日も、近いかもしれないわよ?」
 少女の、いや、人ならざる女の笑みは告げている。
 もうすぐ、神と人と、それに逆らう者たちの戦いが始まるのだ、と。
「――あなたは、どうするので?」
 レインは問うた。その口調は微妙に変化している。
 それの意味するところを悟ったのだろう。少女の顔から笑みが消えた。彼女はそれでもチョコレートケーキを頬張りながら続ける。
「ま、とりあえずは高みの見物ね。余程ひどいことになれば、介入もあり得るけど。主神の意思次第、とでも言っておきましょうか」
 言ってから彼女は、ケーキの最後のひとかけらをフォークで突き刺す。む、とふくれっ面の子供にも似た顔でそれを見つめていた。先にパンとシチューを平らげていたレインは苦笑し、それから釘を刺すように言葉を投げる。
「代金は自分で支払ってくださいよ、ソロネ様」
「――分かってるわよ」
 拗ねたように答えた彼女は、ケーキの最後の一口を、勢いよく口に運んだ。