006.今いる場所

 この場所に自由はない。右も、左も、上も、下も、見てみればそこは灰色の石の世界。淀んだ黒い空気で満ち、刻印の首輪と見えない鎖がヒトの身体を縛り続ける。
 そこにいる者たちは、飼い犬であり、見世物であり、兵器なのである。もはや人間としての振る舞いを許されぬまま、一生を終えるのだ――

「クライン!」
 夜を叩き割るかのような声に揺り起こされた少年は、空色の瞳を見開いた。意識の覚醒を待たずに飛び起き、荒い息を吐く。
 結果として冷たい夜気を一身に浴びることとなり、そこでようやく彼は平常心を取り戻した。
「大丈夫か?」
 先ほどとは雰囲気がまるで違う、案ずるような声。だが、その主は一人だと、クラインは知っていた。その証拠に顔を横に向ければ、見慣れた少年の憂う表情が自分をのぞきこんでいると知れる。
「アレン……」
 クラインがあえぐようにその名を呼ぶと、黒髪の少年はほっと息を吐いた。焚火の番をしていた彼は、自分が数日前まで着ていた青い上衣を膝にかけ直して表情を引き締め直す。悪かったな、と小声で謝罪した彼はこう続けた。
「すっごいうなされてて苦しそうだったから、つい起こしちまった」
「いや」
 否定してからなんと言っていいか分からなくなったクラインは、結局言葉を濁したままうつむく。全身をびっしょりと覆う汗に、今さらながら不快感が押し寄せた。
 見れば荒々しく腹に引っ掛けていた薄布を握りしめている自分の右手。つい、金色の髪をかきむしる。
「夢か……」
 ため息のように漏らした声は、受けとめられることなく宙を漂う。すぐそばに座っているアレンは数度口を開閉したが、結局押し黙ったままだった。
「何ぃ? どうしたのぉ」
 そうこうしているうちに、焚火を挟んで向こう側にうずくまっていた影がのそりと起き上がる。炎に照らされ、寝ぼけ眼の少女の姿が浮かび上がった。彼女、シエルは目をこすりながら身を起こすと、二人の少年を見比べて首をかしげた。

――ケルブから「森を抜けた先にエルフォードがある」と教えてもらったその日、三人は森の中を歩き通した。だが、出口への方角が分かっていても簡単に辿り着ける場所ではなかったらしく、気付いたときには陽が傾き始めている始末である。仕方がないので、彼らは野営をすることに決めたのだった。
 ここが食料と自然の豊富な場所であったこと、そしてクラインがサバイバルに染まりきった生活をしていたという経験の持ち主だったことが幸いして、日が暮れる前に準備を整えることができた。そして簡素な食事を終え、眠りについたのである。

 いつの間にか、再び少女の寝息が森に響き渡っていた。旧知の仲である魔術師があの少女剣士を適当に言いくるめて寝かしつけたらしい。夜の静寂と火の明りの中、再び二人きりになった。
「割り切れるわけがないよな」
 なんの前置きもなく唐突に放たれた言葉。だがその意味を瞬時に理解したクラインは目を伏せた。薪と炎の爆ぜる音を聞きながら、小さく息を吸う。
「あの家から逃げ出して以降、毎晩毎晩似たような夢を見る。その度に胸の痛みを感じながら飛び起きる。――繰り返しだ」
 自分で思っていた以上に暗い声が空気を打った。
 束の間の静寂。
 染み出す嘲り。
 それは、刹那ののち実体を伴った。
「俺は結局、あそこから逃げだすことなんてできないんだろうよ」
 口元が皮肉にゆがむ。自分の瞳が映しているこの景色がなんなのか、分からなくなった。
 相手の反応はない。ただ聞こえる息遣いは、戸惑っているようであり、探っているようである。
 やがて、知らない内に待っていた声が響いた。
「それでも、おまえが今いるのはこの森だ。俺の隣で、シエルの向かいだ」
 クラインは顔を上げた。ついまじまじと目の前の変わり者を見つめてしまう。
「確かに、かつては奴隷だったかもしれない。でも今はこうして飛び出して俺たちと一緒に焚火を囲んでる。今の居場所はおまえが自分で掴んだもんだ。それでいいじゃんかよ」
 口早に言いきった少年は、直後にいつもの無邪気で、どこか飄々とした雰囲気を漂わせる笑みを浮かべた。見る者の頬を緩めてしまうその顔に、クラインもまた、相好を崩した。
 そうだな、とは言わなかった。だが、否定もしなかった。
「おまえ、もう寝ろよ。番は俺が代わる」
 ひとつ息を吐くと、クラインはそう言った。アレンはどう思ったのか分からないが目を瞬かせると、次に悪戯っぽく笑う。
「おっ、いいのか? それじゃあ、ありがたく」
 わざとらしい爽やかな笑顔を浮かべたアレンはクラインの返事を待たないまま横でうずくまった。その態度に呆れとほんの少しの怒りを覚えたクラインは、それを飲みこむように肩をすくめる。
 しばらくすると、近くから寝息が聞こえてきた。やれやれ、と呟いたクラインは布を畳んで傍らに置く。どこの誰がそうしたのか知らないが、森の中に捨てられていたぼろ布である。ただ、一時の所有者を見つけたそれは初めよりこぎれいに見えた。
 自分の本当の居場所などというものは、結局のところ分からない。またいつかあの冷たい世界に戻る日が来るかもしれないし、そうではないかもしれない。それでも今いるのは、この焚火の前なのだと、クラインは妙な確信を持った。
 空色の向こう側で、橙色の炎が荒く静かに揺れている。