041.扉の向こうは…

 無造作に切り出された石板の上をチョークが走る。円を描き、その中に六芒星を描き、細かい古代文字を踊るように記した。魔術発動のための命令式――すなわち方陣が早々とでき上がる。
 チョークを持っていた青年は一通り描き終えると、チョークを脇に置いた。そこで、でき上がった方陣を一人の少女が興味深げにのぞきこんでくる。
「本当に……方陣を組み立てるのがお早いんですね、ロトさん」
「ん? まあ、ガキの頃からこればっかりやってたからな。早くもなる」
 言いながらロトは、方陣を指さして少女を見た。
「で。これが魔術を発動させる上で必ず必要なもの、方陣だ。これに魔力を通すことで魔力は変質して魔術になる」
「はい」
 素っ気ない言葉に少女が深くうなずいた。ロトは何も返さず先を続ける。
「方陣にはいろんな種類がある。魔術の種類――防御か攻撃か、それとも単なる生物変成かっていう話だが――その種類によって、ある程度方陣に組み込まれる図形や文字は決まってるんだ。けど、普通はそれを全部覚える必要はない。使う分だけ覚えればいい」
「……はい」
 青年の言い回しに気になるところでもあったのか、少女はうなずきつつも訝しげな顔をした。だが、疑問を口にしたのは彼女ではなかった。
「ロトはどうなの? そこんとこ。どれくらい覚えてる?」
 目を輝かせて訊いたのは、少女の後ろからのぞきこんでいる別の少女だ。名をアニー・ロズヴェルトといった。彼女の隣には、幼馴染のフェイ・グリュースターもいる。
 ロトは彼らの姿を認めると、半眼になった。
「……なぜ、おまえらがいる?」
「いいじゃん! 魔術の授業、楽しそう!」
「こ、これも勉強の一環かと思いまして」
 片や悪びれもなく、片や申し訳なさそうに言う二人を振りかえり、少女は笑った。
「いいんですよ。だって、わたしよりもアニーたちの方がロトさんとの付き合いは長いですから」
「まあ……そうだが……」
 しばらく考え込んだロトは、だがため息をついて石板に向き直った。思考を放棄したようだ。そして一瞬だけフェイを見て、見られた方は嬉しそうに微笑む。――その視線の意味を知るのは、彼らだけだ。
 魔術師の青年は気を取り直して、石をチョークで叩いた。脱線してしまった話を軌道修正する。
「で、俺が方陣の種類をどんだけ覚えてるかって話だが」
「はい」
「判明した方陣の種類を全部載せた本ってのがあるんだけどな」
「はい」
「それ、八割くらい覚えた」
「――はっ!?」
 三人の声がきれいに重なる。一番驚いている少女に、アニーがこそっと尋ねた。
「ちなみにその方陣って、何種類あるか知ってる?」
「え、え? 確か、一万は超えてたと……」
「いちまっ……!」
 想像を絶する数字にアニーとフェイは口をぱくぱくさせた。少女も少し蒼ざめている。ロトは「魔力が使えないなら速さと知識で補おうっていう考えだ」とあっけらかんと言ってのける。
 だからといって一万種近くの方陣をほぼ全部覚える必要はないのでは。という突っ込みは、三人とも言いたくて、けれど言い出せなかった。
 ロトは三人の反応に首を傾げた後、さらに続けた。
「上級者ともなると、自分で方陣を生み出したり、元ある方陣を組み替えたりすることができる。けど、素人は、いや素人じゃなくても迂闊にそれをやったらだめだ」
 思いのほか強い言い方に、アニーが眉をしかめた。
「そ、そりゃあ……難しそうだけど……」
「難しいなんてもんじゃない。一歩間違えたら大けがするぞ」
 青年はきっぱりと断定する。少女とその友人は首をかしげた。方陣を創るという行為は確かにかなり難しそうだが、彼がどうしてそこまで否定するのかが理解できない。
 その胸中に気付いたのか、ロトは息をつくと、彼らの方を向いた。
「――よし、ちょっと昔話をしてやる」
 彼の過去の断片は、こうして明かされる。

 それは、今から二年ほど前のことだった。
 ロトはその日たまたま幼馴染の家へやってきていた。そのときすでに、ヴェローネルの隣町であるポルティエに居を据えていた彼女はやはり魔術師で、それもかなりの腕前である。
 いつものとおりそんな彼女の家へやってきたロトは扉を叩き、しかし彼女の返事がないことを訝った。もう一度扉を叩いてみたが、やはり返事はない。
 首をひねったロトは、怒られることを覚悟の上でドアノブを握って前に力を込めてみた。すると、扉はあっさり開いた。彼はわずかな隙間から顔を出し、幼馴染の名を呼んだ。
 彼女の家は広くない。どこにいようと、聞こえるだろう。
 ロトがそう予想したとおり、彼女に声は届いたようだ。奥の方から返事があった。
「あ、もしかしてロト?」
 いつも通りの声に彼は安心すると同時に呆れた。
「そうだけど。何やってんだおまえ」
「ごめーん。今、手が離せなくて。勝手に上がってて」
「勝手にって……不用心だな、相変わらず……」
 ため息をついたロトは、だが結局「勝手に」上がった。
 だからといって何をして彼女を待っていればいいか分からなかったロトは、結局幼馴染の姿を求めて奥の部屋をのぞいてみた。
 そこには確かに、彼女がいた。かがみこんで、チョークで床に何やら描きこんでいる。よく見ればそれは、巨大な方陣だった。
「いやほんと、何やってんだおまえ!」
「あ、ロト」
 ロトが思わず叫ぶと、幼馴染は振り返った。「待っててくれればよかったのに」と言いながらも彼女は嬉しそうである。
「これねー、現在新しい魔術の研究中」
「新しい魔術?」
「そ。ていっても、元ある方陣をちょっといじくっただけだけどね」
 相変わらずの突飛さに、青年はため息をついた。それと、方陣をいじくるなどとなんでもないことのように言わないでほしかった。
「一か月くらい前からずっとやってたんだけど、ちょうど今完成したのよー! というわけで、今から試運転」
「あっそう……頑張れ」
 深く考えるのも嫌になった彼は、投げやりにそう言った。彼女は元気に「うん!」と言って、方陣に魔力を通す。
 すると、みるみるうちに方陣に光が走り、全体が淡い緑色に輝きだした。
「お、やった!」
「これだけ大きいと見ごたえあるな」
「あとはこれを魔力で描けるようになれば完璧」
「……もう突っ込まないぞ」
 なんの魔術か知らないが、実用化する気満々らしい。呆れすぎて頭が痛くなってくるような気がして、ロトはこめかみを押さえた。
 輝きは強くなり、次第に、辺りに雷光が散り始めた。火花のような音が弾けはじめ――その瞬間、彼女の顔色が変わる。彼女は振り返るやいなや、睨むような視線で青年を射抜いた。彼が怯んだその一瞬に、彼女は叫ぶ。
「ロト! 部屋から離れて!」
「え、は?」
「早く!!」
 警告はもはや悲鳴だ。
 ロトは慌てて踵を返しかけて――だが、突如突き上げてきた頭痛と全身を走る熱い痛みに、手遅れだと悟った。
 苦痛の声を上げそうになって、それすらもできないまま足元がおぼつかなくなる。
 そうして視界が傾いたかと思った直後、意識がぷっつりと途切れた。
 傾いた視界の先、中途半端に開いた扉の向こうに、火花を噴き上げる方陣を見た気がした。

「その後どうなったのか全く覚えてないんだよ。目が覚めたらその家のベッドの上だった」
 ロトがそう締めくくった昔話に、三人は無言になる。その空気がさすがに気まずかったのか、彼はひらりと手を振った。
「まあ、言ってもあれは俺だから事態がひどくなったってのもあるんだけどな。でも魔力の暴走には違いない。気をつけた方がいい。実際、試運転した部屋の壁に穴空いてたし」
 さりげなく付け足された恐ろしい事実に、アニーとフェイは顔を見合わせる。そして同時に、少女を見た。
「やらないでよ」
「お願いだから」
「やらないよ!」
 友人二人から同時に懇願された魔術師の少女は、悲鳴のような声を上げた。横で、青年が声を立てて笑う。
 人々のやり取りの外側では、チョークで描かれた方陣が沈黙していた。