第一話 獣の町・2

「いやぁ、久々に身だしなみが整ったな」
 濡れた髪をタオルでふきながら、ソラは呟いた。向かいのベッドの上でリネが笑う。
「ここのところ、ずーっとボサボサだったもんね。髪の毛」
「うるさいな」
 ぶっきらぼうに返してから、はたとタオルを動かす手を止める。そのまま目を細めると、忘れかけていた危惧がよみがえってきた。
 例の怪物退治の件である。正直なところ、まだ迷っていた。その怪物の正体がつかめないでいる(らしい)今、自分のような者が手出しをしていいのか――と。
「もし同じ血族なら、反応しやすいもんねぇ」
 やけにのんびりとしたリネの声が、突如ソラの耳に飛び込んできた。彼はさっと顔を上げ、向かい側でにこにこ~っと笑う相棒を見やる。彼女は、力強く言った。
「大丈夫だよ。そのために私がついてるんでしょ?」
 出会ったばかりの頃からは、想像できないほど頼もしい発言だ。いつの間にこんなに成長したのか、と思う。同時にソラは、ああ。親はこんな気持ちなんだろうな、と柄にもなく自分に縁のないことを考えてしまった。
 それから再びリネを見ると――心が定まった。頭を振って無駄な考えを振り払い、小さく言葉を返す。
「ああ、そうだな」

 翌日。自分の意思を例のきょうだいに伝えたソラは、リネを含む三人を連れ立って町へと繰り出した。ちなみに、この件は女主人には内緒にするそうだ。
 この町――レオフは多くの山と森に囲まれている。そのため、どこを歩いても自然が近くにあった。これは、長い間野山をかけていたソラにとって落ちつく光景である。アンナいわく、治安も他と比べれば良い方なので、余計な警戒をする必要はないそうだ。怪物の件を除けば。だが、いざ一歩を踏み出してみると、妙な光景が四人を出迎えた。
 なんだか町の人々がよそよそしいのである。いつものことなのか、アンナは毅然とした態度で振舞っている。だが、ハルトがやけにそわそわしていて気になったので、ソラは周囲の様子をうかがってみることにした。
 人々はハルトを指さして何か言っている。声が小さすぎたのですべてを聞きとることはかなわなかったが、辛うじて『元凶め……』という言葉だけは拾えた。
(元凶……?)
 もしかすると、怪物の件に関係していることなのかもしれない。なんの変哲もないただの少年に向かって『元凶』などと言うのは、失礼極まりないと思うが。
「みんなしてなんなんだろうね。『呼び寄せた』とか『元凶』とか」
 なぜかソラより多くの音を拾っていたらしいリネが、顔を向けて言ってくる。彼は、とりあえず「さあ」と答えておいた。が、心の中ではある言葉に違和感を覚えていた。
(呼び寄せた……? ハルトが、か)
 もちろん、住人の戯言でしかないのだろうが――もしかしたらその戯言の中に、今回の事件を解決するための鍵が隠されているかもしれない。
 ソラは、さりげなくハルトを見てみる。だが、どこにも変わったところなど見当たらなかった。ごく普通の少年だ。
 彼がうなっていると、隣でアンナが笑った。そして、こともなげに言うのである。
「後で説明しますよ」

「怪物の動きが活発化したのは、ハルトがここへ薬草をとりにきた日の夜だったんです」
 森の中。二人を案内しながら、アンナがぽつりぽつりと語った。
「なるほど。それで『呼び寄せた』にまで話が発展したってわけだ」
 話を聞いて、ようやくソラは納得した。よくある――とまではいかないかもしれないが、まあしばしば耳に挟むようなことだ。ヒトは得体のしれないものに恐怖する。そして、その原因をつきとめたいと思う。だがそれができないゆえに、一番出来事と関わってきそうな人間に責任をなすりつけ、さげすみ、ほんのわずかな安堵感を得る。
 バカな話だ。心の中でそう吐き捨ててから隣を見ると、なぜかリネがすねていた。
「ひどい話もあったもんだね」
 ソラの視線に気付いた後、それだけ言う。
「……そうだな」
 きっとこれは、彼女なりの思いやりなのだろう。それを適度に受け取ったソラは、再び思考する。
 例え恐怖からくる責任転嫁だったとしても、不自然なところがあるのは事実だ。今までなんの害ももたらさなかった生物が、ハルトが森にやってきてから急に活発化して、人に危害を加えるまでにいたった……まるで、図ったような展開。
 やはり、何かあるのかもしれない。ハルト自身や、周りの人でも気付かないような何かが。
 考えている時――突然地面が揺れた。あやうくバランスを崩して倒れるところだった。慌てて地面に手をついてから様子をうかがうと、その揺れが不自然なほど規則的に続いているのがわかる。
「な、なんだよこれ!?」
「地震なの!?」
 ソラがリネと共に悲鳴を上げる。それに答えたのは、ハルトだった。
「ちがいます! これは、足音です!」
「足音ぉ!? て、こと………は」
 ソラの声は徐々にしぼんでいく。それに反応するかのように、足音の主が姿を現した。
 軽く二メートルは超えていそうだ。どこぞの神話に出てきそうな不思議な容姿をしている。あえて何かに例えるならば、人と牛とライオン辺りを適度に混ぜたら、こんな感じになるんじゃないだろうか。
「あれが、うわさの……?」
「はいぃ……」
 消え入りそうなリネの問いに、消え入りそうな声でアンナが答える。そんなやり取りを尻目に、ソラは微笑を浮かべた。
「ボス自らお出ましとはね」
 名も知らぬ怪物の咆哮で空気が震える。そんな中で、ソラはゆらりと立ち上がった。リネもそれに続く。
 少年少女が怪物と対峙する。先に動いたのは怪物の方だった。ライオンのような奇妙な前足を力いっぱい振りかざしてくる。ソラとリネは、それぞれ横に飛んでかわした。二人がさっきまでいた地面に足は落下し、凄まじい音を響かせ、地響きを起こす。リネの「うわぁ」という声が聞こえた。
 半ば反射的に腰の銃を抜いてから、ソラは後方に向かって叫んだ。
「二人とも、下がってろ!!」
 ハルトとアンナは、そそくさと茂みに身を隠す。変に素早い行動を見届けると、今度はリネが動いた。いつの間にか持っていた棒手裏剣数本を怪物に向かって投げつける。ひゅうっと鋭い音を立てて飛んでいく。だが、ほとんどは体に当たって弾き飛ばされる。投げた張本人が歯ぎしりをしていたが、そこで思わぬ幸運が訪れた。なんと一本だけが、怪物の右の角にきれいにささっていたのである。とたんに、重厚な悲鳴が辺りに響き渡った。
(角が弱点か!)
 ソラは瞬時に悟り、銃を向ける。
 あの角、どうなってるんだろう、などと余計なことを考えつつも棒手裏剣の刺さっていない左の角めがけて発砲した。放たれた二発の銃弾はきっちり弱点に穴を開けた。再び叫びがこだまする。さっきまでのものとは比べ物にならない大きさで、つい耳をふさいでしまっていた。
《オ……ノレ》
「え?」
 最初は何が起きたか分からなかった。しかし、ソラにはすぐに理解できてしまう。この声は怪物が発したものだと。だが、理解はできてもそれを受け入れられるかどうかはまた別だったりする。対角線上を見ると、リネも同じような状況に陥っていた。二人して、目を白黒させる。そのうちに、再び野太い声が聞こえた。
《人間風情ガ、ヨクモヤッテクレタナ!!》
 改めて現実を耳にした後、やっと事態がのみこめてきたらしいリネが、呆然としながら呟いた。
「……あいつ、言葉わかるんだ」
「らしいな」
 ひとりごとのようにも聞こえたが、一応答えておく。だが、そこでひとつの仮説が浮かび上がってきてしまった。ソラは後方に視線を走らせながら考える。まさかと思った。だが、最悪の事態というのは想定しておいた方がいいかもしれない。
(人の言葉が分かるってことは、多少なりとも"知能"があるってことだ。もしかして、ハルトを見て暴れ出したのも、あいつなりの理由があるのかも……。そもそも、人語を解する怪物なんて一種くらいしか思い浮かばない。じゃあまさか、あのきょうだいは)
「来るよ!」
 リネの悲鳴じみた声で、ソラの意識は現実へと引き戻される。慌てて見上げると、目の前には怪物の腕がある。もうあと何秒かで、ソラに命中する位置だ。
「あぶっ……ねぇ!」
 背筋に冷たいものを感じつつ、跳躍してその一撃をかわす。常人ではまずあり得ないくらい、軽い身のこなしだった。
 余程驚いたのか、怪物の腕がピタリと止まる。そいつは巨眼でソラをにらみつけた。
《キサマ、『地ヲ走ル者』カ。『天ヲ駆ル者』カ》
 怒りと憎しみを多分に含んだ声。いきなりすぎてソラは咄嗟に答えられなかった。思わず呆然と見返してしまったが、不幸なことに怪物はそれを肯定と受け取ったらしい。
 低い叫びを上げながら、いきなり腕や足を振りまわして暴れ出したのだ。木々はなぎ倒され、地面はへこみ、鳥は怯えて飛び去っていく。
「な、何!? 狂ったの!?」
 おったまげたリネがそう叫ぶ。ああ、そうかもしれない。とソラは他人ごとのように考えた。と、ここで閃いた。怪物の言葉が指すものに思い当たったのだ。同時に、仮説が立証された瞬間でもあった。
「――まさかっ!!」
 気付いたソラはとりあえず発砲して、怪物の気を逸らす。次に、相棒へ叫んだ。
「リネ、退却だ!!」
「えっ!?」
 幼い相棒は、退却の指示を唐突すぎてすぐには受け入れられなかったらしい。しかし、「あのきょうだいに訊いておかなきゃならないことがあるんだ!」と言うと、従ってくれた。