第六話 月夜・3

 紺碧の空の下、黒々とした山際に、炎を思わす光が見える。太陽はもう、西の端まで退いてしまったらしかった。刻々と濃さを増す闇の中を三人の若者は歩いている。今夜に限って人の気配も獣の息遣いもなく、ただ、土を踏む足音だけが響いては、虚空に吸いこまれていった。そのせいもあるだろう、三人は三人とも、それぞれに緊張感をみなぎらせている。一番冷静であろう、先頭を歩いているソラは、相方に上着のそでをひかれると、そちらに目をやった。
「どうかしたか?」
 少しうつむいているリネは、ソラが問いかけてから少しして、口を開いた。
「あのね。……今、湖は、すごく危険だと思うんだ」
「うん?」
 言われたことの意味がとっさに理解できず、ソラは首をひねる。
「絵本にかいてあった……狂わせの鏡に狂わされた人は、最後には湖に行かされて、そこでおそろしいものを呼びだすって……本当かどうかは、わからないけど……」
「なるほど。本当だったら、確かに危ないな」
 ブツブツと呟くリネの言葉でおおよそを察し、ソラも後ろの青年も、うなずいた。「おそろしいもの」と、描写が抽象的なのが、かえって怖い。何が出てくるにしろ、湖に行けばろくなことが起きないというのは、確かなようだ。とはいえ、今さら引き返すわけにもいかない。
 薄氷(うすらい)の上を歩くような心地で歩を進める。気づけば誰もが口を閉ざしていた。
 藪の中をすり抜け、草を踏みわけ進んでゆく。足もとに無数の葉がひっついた頃、岩穴が目の前に現れる。短い自然のトンネルをくぐると、唐突に視界がひらけた。
「水のにおいだ」
 リネと青年が呆然としている横で、ソラはぽつりと呟いた。
 目の前の草を軽く払う。空をあおげば、太陽の名残すらなく、暗い空に大きな月が光っている。白い月光をたどれば、茫洋と輝く水面の色が、不気味に浮かびあがっていた。
「湖……?」
「みたいですね」
 いまだ自失している青年の言葉に、ソラは小さくうなずいた。それから、ざっとあたりを見回した。土と草のまだら模様のその向こう、湖の暗い縁をなぞっていた彼だが、ある一点で視線をぴたりと止めた。湖畔に佇む不自然な影に、自然と目をすがめた。
「あれは……」
 彼のささやきに反応し、リネと青年が身を乗り出す。二人もまた、影に気づいて顔をこわばらせた。一方のソラは、眉を寄せた。目が慣れてくると、影が少しずつ薄らいで、人の輪郭が見えてくる。
 湖のほとりにいるのは、女だった。長い黒髪をさらして、三人に背を向けたまま、微動だにしない。三人の声が聞こえているのか、いないのか。それとも、そもそも他人の存在など、どうでもよいのか。ソラは、軽く身震いする。後ろ姿は静かな雰囲気をまとっているように見える。けれど、にじんでいるのは静謐な美しさではなく、こちらが逃げだしたくなるような、よどんだ狂気だ。
 彼女が、青年のいう『連れ』なのだろう。ソラは確認のために青年を振りかえったが、その必要もなさそうだった。彼は青ざめて全身を小さく震わせている。細く息を吸い込み、駆けだそうとした青年をソラは手で制した。
「ソラさん!?」
「近づいてはだめです」
 少年は、静かに女性の後ろ姿をにらむ。
「様子がおかしい」
『彼女』の狂気は、こうして話している間にも、少しずつ濃密に、明瞭になっている。少年の中の獣の本能が、立ち向かうな、逃げろ、と激しく警鐘を鳴らすほどに。そして今しがた気づいたが、『彼女』のむき出しの脚には、数えきれないほどの、細い切り傷が走っている。草に脚がずつけられるのにも構わず乱暴に歩いてきたのだろう。最初は飛び出そうとしていた青年も、それに気づくと息をのんで固まった。『彼女』もまた、動かない。
 重苦しい静寂。しばらく誰もが立ちつくした。だが、リネが、ふいに口を押さえて後ずさりした。ソラもまた、顔をひきつらせる。反して、体は、飛びだす準備を整えた。
「リネ」
「うん」
 小さな少女は、ふらりとソラに歩み寄ると、しがみついてささやいた。
「気づかれたよ」

『彼女』は、顔を、そして両目をこちらに向けていた。月光をはじく茶色い瞳は、わらうように細められている。ぞっと、肌が粟立って、ソラは思わず体を抱いた。
「ハイネ……」
 不安定に震える声が聞こえる。ソラが視線だけで振り返ると、先ほどよりも血の気のひいた顔の青年と、目が合った。彼はしばらく唇をわななかせていたが、ややしてもう一度女の名前を呼ぶと、一歩、前に出た。
「一人でこんなところまで来て、どうしたんだよ。もう遅いし、一緒に帰ろう。……な?」
 こわばった笑みを浮かべながら、彼は旅の連れに手を差しだした。『彼女』はじっとその手を見ると、やおら反転して、三人の方に近づいてきた。壊れた機械人形よろしく、上半身を左右に揺らしながら。
 その動きと、穴のような目を見て、ソラは息をのむ。
 彼の言葉は――『彼女』に、ひとつとして届いていない。
『彼女』は緩慢に、右手をあげた。
「危ない!」
 ソラは、ほとんど反射で青年の襟首をつかんで引き倒し、自分も転げるように伏せた。草の裂かれる音がする。同時に、こげた臭いがすぐ上を漂ってきた。視線をそちらにめぐらせれば、青年の目の前の地面に、厚刃でえぐられたような穴があいていた。『彼女』は刃物など、身につけてもいないはずなのに。
 自分の足もとを見おろした青年が、震えながら後ずさりする。彼は動揺をおさえこむと、ソラを見た。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。でも、今はお礼よりも……」
 ソラは、細めた目を湖に向けた。瞳を爛々と光らせた女が、いびつに口角をあげる。『彼女』の手のまわりだけ、風景が奇妙にゆがんでいて、少年の幻獣の勘は、それがとてつもなく大きな力の影響だと、告げていた。リネの術にも似た、けれどそれよりずっとまがまがしい力。
「彼女、普通じゃないですね。いろんな意味で」
 思わず、呟いていた。答える声はない。だが、青年は強くうなずいた。あれは自分の知っている連れではないと、うるんだ両目が語っている。
 狂気の女がまた笑う。今度は、全員がとっさに動いた。細腕で振り下ろされる力を、三人はばらばらに跳んでかわす。突風が吹き、彼らの立っていた地面は鋭くえぐられた。
「お……おかしいですよ、こんなの!」
「俺もそう思います。さて、どう対処するか」
 旅人といえど、相手は狂乱さえなければ普通の女性だ。身のこなしも、戦闘慣れしているふうではない。相方も目の前にいるので、銃撃するのはためらわれる。しかし、このまま手をこまねいていては、ソラたちの方が殺されてしまうだろう。
 ソラがこめかみをつついて思考していたとき、リネが「あ!」と叫んだ。
「あれ、見て! あの人、なにか持ってる!」
「ん? 持ってるって……」
 ソラは、相棒の指さす方に目をこらした。そこではじめて、『彼女』が左手に円形の平たいものを持っていることに気づく。角度によってちかちかと光を放つそれは、細かい装飾がほどこされた、古めかしい手鏡だった。
「もしかして、あの鏡って」
 ソラがみなまで言う前に、青年が肯定した。
「はい。あれは、彼女が買った手鏡です」
 鏡部分のまわりは、金色の草花模様に囲まれていて、確かにきれいだ。思わず手をのばしてしまう女性は、数多いることだろう。だが、見た目の美しさとはまったく別のものを、二人の放浪者は感じていた。
「あの鏡、なんか……見てると気分が悪くなる」
「うん。胸のあたりがもやもやーってする」
 リネの言葉にほほ笑んだソラは、しかし頭の奥に刺すような痛みを感じて、顔をしかめた。慌てて鏡から目をそらし、深呼吸をする。――あの手鏡は本当に、『狂わせの鏡』なのではと、思えてきた。
「あの人から、鏡を遠ざけないとだめっぽね」
「はい。こんな状況で鏡を持っているということは、相当、執着しているということだと思います」
 あっけらかんと推測を口にするリネに、青年が不安と緊張の入り混じった顔を向ける。口を引き結んでいる彼を一瞥したソラは、鏡に気を取られないよう、『彼女』を見すえた。
「ま、あれこれ言い合ってたところで、あの人が正気に戻るわけもなし……」
 ホルスターに手をのばし、ひとつ息を吸うと、すばやく銃を抜いた。リネがすぐさま、身構えた。銃口を天に向けて、少年は両手に力をこめる。
「やるっきゃ、ないだろ!」
 引き金を引く。銃が火を噴き、乾いた音が響き渡った。銃声を聞いたその一瞬、『彼女』は細い肩を震わせて、固まった。銃声の余韻が消える前に、リネが地面を蹴って走り出す。
 彼女は気合の入った声を上げ、自分より大きな女に飛びかかった。威嚇射撃にひるんでいた彼女は、そこではっと目を見開くと、不自然にすばやく少女を避けてあいている方の手をのばした。
「うわわ!」
 リネは慌てふためいて、とびすさる。空気が低くうなり、また、土がえぐれた。
「やっぱ、そう簡単にはいかないか」
 ソラは銃をしまうと、駆けだした。女の目がぎょろりと動く。その目が自分をとらえる前に、彼は『彼女』めがけて突進した。意表を突かれたらしい『彼女』はつんのめった。
 少年はその隙に踏みこんで、相手の鏡に手をのばした。『彼女』は地面に片手をつくと、体を勢いよく跳ね上げて、ソラから距離をとろうとした。そこまで激しく動いてなお、鏡を手放さないのが恐ろしい。
 舌打ちしたソラは、飛びのいた。
「奪い取るのは厳しいかな、こりゃ」
 苦く呟いたソラのそばに、リネがとことこ歩いてくる。さらに、後ろから青年が顔をのぞかせた。いくらか落ちついてきたらしい彼は、蒼白な顔に反して理知的に瞳を輝かせた。
「奪えないなら、叩き落とす、っていうのはだめでしょうか」
「叩き落とす?」
「やってみる価値はありますね。ただ」
 黒茶の瞳は『彼女』をにらむ。『彼女』は、目をすがめ、少しばかり背中を丸めて立っている。『彼女』もまた、三人の動向をうかがっているように、思われた。
「問題は、どうやって隙をつくるか、です」ソラは言った後、視線を足もとに落とす。
「不意打ちしてあの反応だ。警戒されてからだと、難易度は跳ねあがる」
「もう、威嚇射撃もききそうにないしねえ」
 ことさらに軽い口調の少女を見やった少年は、ため息をこぼす。しばらく二人で、いかにして彼女の手から手鏡を遠ざけるかを話し合った。そこに、ふいに、青年の穏やかな声が割り込んだ。
「あ、あの」
 控えめながらも強い呼びかけに誘われて、二人は彼の方を見る。
「ぼ、僕が囮になる、というのはどうでしょうか」
「えっ!?」
 リネが目をむいた。ソラも声なく目をみはる。
「お、おにいさんが!?」
「確かに効果的かもしれないけど……危ないでしょう」
「たぶん、大丈夫です。今の彼女はおかしな力を持ってますけど、腕力はもとのままみたいですし。なんとか、あの力を全部かわします。こう見えて反射神経には自信があるんです」
 青年は、無理にほほ笑みながらも言いきった。ソラもリネも、反論の言葉を封じられて、顔をしかめる。二人は互いに目を配り、しばらく考えた。二人の意見が一致すると、同時に、首を縦に振る。
 とれる手段は多くない。ならば、かけてみてもよいだろう。
「わかりました。……お願いします」
 若き忌み子は、透徹した目を青年に向けた。

 人気(ひとけ)が失せる。
 いつの間にか、立っているのは『彼女』だけになっていた。『彼女』は、ゆがんだ瞳にかすかな困惑をにじませて、緩慢に周囲を見渡した。
 やがて、『彼女』は人の姿をとらえた。穏やかな目元を緊張にひきつらせた、若い男だ。『彼女』は彼を知っているが、そんなことはどうでもよかった。彼は、ゆっくりと『彼女』の方へ歩いてきた。
「ハイネ」
 彼がささやいた。それは『彼女』の名前であったが、『彼女』はそれに気づかない。できの悪い人形のように首を回し、彼を見る。

 青年は、震える膝と心を叱咤して、『彼女』を正面から見た。
「君は今、悪い夢を見ているんだ。だから、ほら、鏡を捨てて。そうすれば、悪夢は覚めるから。な、ハイネ」
 彼はまた一歩、相方に近づく。その左手に、手をのばす。瞬間、『彼女』はかっと目を開き、左手をすばやく引いた。かわりに反対の手を勢いよく振り上げる。
 青年は息を詰め、身をすくませた。繊細な指が淡い光を帯びる。風切り音がやけにうるさい。彼はそのまま凍りつきそうになる。しかし、恐れにのまれる寸前で、後ろに跳んだ。つまらなそうに腕をおろす『彼女』を視界から締めだして、荒い息を整える。
「交渉決裂、か」
 青年は、少し前に黒髪の少年が使った言葉を口の中で呟いた。彼の声が、耳の奥で響く。
――あなたの声で、彼女が正気に戻ってくれれば、俺たちとしてもありがたいです。けど、そうならなかったとき、交渉決裂したときには……
 青年は、息を殺して振り向いた。暗闇の中、巨木の影がにじみ出す。
――次の作戦に移ります。
 全身から汗が噴き出すのを感じながらも、彼は巨木に近づいた。軽く膝を曲げ、足に力をこめる。鋭く息を吐き、跳んだ。『彼女』が気づいて動いた。押し寄せる恐怖をしかし無言で噛み殺し、青年は枝に手をかけ、全身を揺らし、遠心力を使ってそばの枝に移る。
 彼は、ソラたちのように、ずば抜けた戦闘能力があるわけではない。だが、曲がりなりにも旅人だ。大陸じゅうをさすらって、常軌を逸する事件に巻き込まれたこともあり、そのたびに心身を鍛えられてきた。木々の陰から人の死角に回りこんだり、人を撹乱したりするくらいは、朝飯前である。ただし、それは『彼女』も同じだ。
『彼女』が動揺したのはほんの一瞬。『彼女』は、すぐに青年を追った。いつもの相方にはない俊敏さに、青年はぎょっとする。けれど同時に、安堵していた。――『彼女』は、狙い通りに動いてくれたのだ。
 二人の頭上でなにかが光る。鋭利なそれは、『彼女』に向かって飛んだ。『彼女』は枝から手を放し、器用に着地してそれを避けた。
 草の中から黒い影が飛び出す。『彼女』が影――少年――に気づいたときには、両者はすでに触れあえるほどの距離にいた。さしもの『彼女』も動揺し、足がわずかにぶれた。
「そこだ!」
 少年、つまりソラは、うまれた隙を逃さなかった。一気に踏み込み、手を『彼女』の左手首に叩きつける。五指はしびれて力を失い、その隙間から鏡が天に飛び出した。