第七話 風眠る地・3

 男のまわりで、力が流動する。目に見えない渦は、不快な熱をともなって肌を刺してくる。それがまじないの『源』なのだと直感したソラは、相手を見すえたまま歯ぎしりした。
 まじないの力は何度か受けたことがあるが、今、この場を覆っているそれは、これまでで最も強くまがまがしい。魔獣をわざわざ消したことといい、まじない師の男は本当に「遊び」をやめたらしかった。彼と本気でぶつかり合ったらどうなるか、想像できない――したくない。さらに悪いことに、隠れ里の時と違って、援軍もない。恐怖と緊張の中、それでも腹をくくるしかなかった。
 ソラは無言で銃をしまい、深呼吸する。空色に染まった瞳は、輝きを強くした。まとう空気さえも鋭利に変質させた少年は今や、唯一の相棒さえもたじろがせるほどの、竜の威を放っている。だがまじない師は、その変貌ぶりに感心こそすれ、恐れた様子はまったく、なかった。
「そうこなくてはな」
 ささやきと、喉の奥からもれた笑声は、地を這って伝わってくる。ソラは息をのみ、少し蒼ざめているリネに呼びかけた。呆然としていた少女は、いつもどおりの彼の声を受けとめて、背筋を伸ばす。
「あれ、なんとかできそうか?」
「わからない。でも、頑張ってみる」
 答えたリネは、いつの間にかうす青い光をまとっていた。そこからにじみ出る圧力は、まじない師のそれとよく似ているが、違う。そのことにソラは安堵し、気を取り直して前を見た。
「そんじゃま、俺も頑張ってみるとするよ」
「うん」
 応酬に緊張がにじむ。二人はそこで言葉を終わらせ、敵対者をにらんだ。
 まじない師は、話が終わるのを見計らったかのように、軽く手を振った。指の動きに合わせて黒い針が地面を食い破る。ソラたちは、針が自分らの足もとに達する前に、地を蹴り、近場の木の枝に足をかけた。跳ぶように木を登る間にも、針は次々と顔を出す。ソラが見下ろす頃には、森の一角は針山地帯と化していた。
「いきなり半端ないな」
 ソラは、毒づきながらも目を配る。別の木の上に避難していた相棒が、静かにひとつうなずいた。頷き返した少年は、軽やかに隣の木へと飛び移る。同時に、少女が手をあげた。
 水色の髪が舞いあがり、そのまわりに無数の氷が生まれる。リネが無言で指示を出すと、氷たちは黒い針山に降り注いだ。黒と氷は激突し、ともども砕け散る。たちまちあたりが曇るほどの破片が舞った。
 ソラは枝葉の狭間を駆けながら、リネの立ち回りとまじない師の様子をうかがっていた。氷を操る少女の姿に、心ひそかに感嘆する。水を従える力は変わらず得体の知れないものだが、まじないへの対抗手段としては十分すぎるくらいだ。力もそうなら使い手のリネもなかなかのもので、昔はあれほど手こずっていた力の扱いを、今は心得てきているらしい。
「――ん?」
 またひとつ、氷の破片を見た瞬間。ソラは、自分の思考に違和感をおぼえて首をひねる。だが、そんな場合ではないと思いなおし、眼下の二人に意識を集中させた。
 飛び交う破片、その合間にのぞく黒衣を狙う。ソラは緊張の中で息を殺すと、両足にこめた力を放ち、宙に身を躍らせた。しなる枝の音は遠い。空気の中に指をのばせば、風は喜び集まって、白い光に変わり、弾けた。――本気で幻獣の力を振るうのは、久しぶりだ。
 ソラは息を吸い、吐くと同時にまじない師の頭めがけて腕を振り下ろした。天族の一撃が脳天を貫く前に、まじない師は後ろに跳ぶ。幻獣の子はあせらない。地面に手をつき、ついでのように反回転して着地した。息つく間もなく腕を構えた。
 まじない師は、少年の姿を捉えると、喉の奥からしぼりだすような笑声を上げる。
「そうそう。君の、そういうところが見たかったんだよ」
 ソラは息をのんだ。怪しさを通り越して禍々しさを漂わせる男の立ち姿に、漠然とした恐怖を抱く。固まってしまわなかったのは、人の理性のおかげだった。隙を突いて飛んできた矢を避けると、ばねのようにまじない師の方へ跳びこんでゆく。命ずるより先に、拳に風が集まった。まじない師とぶつかる寸前、風は逆巻き刃となる。
 火花の爆ぜる音がした。
 まじない師は、黒い剣をつくりだして、風を防いでいた。
 ふたつの刃の隙間から、紫色の火花が飛び散った。ソラは前を見すえたままひと呼吸すると、風を滑らせ剣を逸らす。相手の力がゆるんだ隙に、大きく跳んで後退した。
 再び開いた距離を二人はにらむ。ソラのもとにあった刃は分解し、実体のない風となった。それでも彼のそばでうなる空気の流れは、意思を持っているかのようだ。
「ソラ!」
 軽やかな声と、足音。緊迫する戦場に、最後の一人が駆けつけた。
 まじない師が手を開く。生み出した黒い鞭をすぐさまリネへと投げつけた。少女は虚空に呼んだ水流で、鞭を容赦なく切り裂き、無に還す。散っていく黒に目もくれず、リネはソラを見上げた。
「やっぱり、今までとなんか違うよ!」
「ああ。それは、俺も感じる」
 ソラは、己の手と、先ほど黒が消えた虚空を交互に見やる。視線は最後、無意識のうちにまじない師の男へ向いた。
 まとう空気は変わらない。むしろ、気持ちの悪さは刻一刻と増している。二人を観察しているふうだったまじない師が、遠くで口の端を持ち上げた。
「どうした、来ないのか?」
 眼がぎょろりと動く。理性をまとわない光が、瞳の奥で躍っていた。
 リネが親の仇とばかりに男をにらんでいることに、ソラは気づかない。それでも、このまじない師が「異常」だということは、はっきりわかった。
「来ないのならば、こちらから行くぞ」
 笑いさざめく声が歌う。
 瞬間、彼の全身から、黒があふれ出した。決まった形を持たない黒は、時折波打ち、うごめきながら二人の方へ殺到する。思いがけない事態と空気の変化に二人の頭はついていっていなかったが、体は勝手に動いていた。少年の手は風をまとい、空を薙いで黒を裂く。そこへ水の蛇が追い打ちをかけ、黒を食らいつくした。けれどもそれは、完全に消えることはない。裂いても切っても砕いても、次から次へとわき出して、人間たちをのみこもうと迫ってくる。
 ソラも、リネも、さすがにあせっていた。ソラは相棒に一瞥をくれると、じりじりと下がって距離を稼ぐ。黒がひとまず揺らめくばかりで動かなくなると、彼はめいっぱい息を吸った。今までよりも深いところへ意識を集中させ――風を、光を、力を集めた。
 熱がうずまく。風がざわめく。彼らの声が、形をなして、聞こえてくるようだった。
「お願いだ」
 短くささやき、腕を振る。鳥を空へと送り出す、鳥使いのように。白い風は願いどおりの形をもって、その先の闇に食らいついた。暴れる黒を押さえつけんとばかりに、少女の放った水流がなだれこむ。
 大きな力は空中でせめぎ合った。空気がおかしな具合に渦巻いた。まじない師の術が一気に力を増して、光さえものみこんでゆく。ソラは蒼ざめたまま舌打ちし、リネは歯を食いしばる。
 黒い波が飛び上がった。それが自分を狙っていることに気づいたソラは、とっさに地面を転がった。逃げたつもりが逃げ切れず、左肩を食らわれる。
「ぐっ……!」
 熱いようで、冷たいような、わけのわからない痛みにうめいた。だが、そこで立ち止まっているひまはない。すかさず追撃をかけてきたまじない師の黒から逃れた彼は、ようやく肩を確かめる。深い傷口からは今もなお、脈動に合わせて血が染みだしてきていた。けれどソラはかぶりを振って、傷と痛みの存在を頭の隅に追いやった。空色の瞳が見つめるのは、変わらず狂ったまじない師の姿だ。
 水音が弾け、同時に響いた呼び声が、ソラの自我を呼びとめた。虚空から飛び出した水が、黒塊にかかった端から凍りついてゆく様を見る。ソラは、相棒の容赦のなさに苦笑しつつ、安堵もした。黒の動きが止まったところで、少女が水色の髪を揺らして駆けてくる。
「ソラ、大丈夫?」
「ん、大したことはない」
 端的に答えたソラは、感情と冷徹を抱いて、まじない師に向き直った。目をぎらつかせる男は、強烈な快楽におぼれてしまったようにも映った。彼は、口の端をあからさまに持ちあげると、再び黒い波を放った。身振りは鮮やかなれど、壊れた機械人形のような危うさがあった。ただ、実際は機械などよりもよほど厄介な存在だ。まじない師の放った黒波は衰えることなく、ソラたちの方へ殺到する。リネがとっさに水を呼びよせるが、すべて食われてしまった。押し寄せる黒を前に、何をすべきかと考える間もなく、二人は左右に分かれて跳び、無慈悲な攻撃をかわす。
 黒い波が草木を食っていく光景を前に、ソラは慄然として、それでも構えをとった。視界の端に苦い顔の少女の姿を認めて胸をなでおろす。
 だが、次の瞬間、敵意が脳に焼きついた。考える前に振り向き、同時に腕は空をなぐ。白光が宙をはしり、なにかを焼き払った。なにかをソラが確かめるより先に、残光が一瞬きらめく。
「まずは、白竜の小せがれから、どうにかした方がよさそうだ」
 耳もとで声がする。ソラはとっさに跳び退り、己の背後を顧みた。先ほどまで遠くに立っていたまじない師が、いつの間にかそこにいた。彼のまわりで渦巻いていた黒が、四方八方へ伸びてゆく。やがて二人を囲んだ黒は、虫の一匹も寄せ付けまいとばかりに、強固な防壁となった。
――完全に、閉じ込められた。その意味を察し、ソラは思わず奥歯を噛む。氷の調べは届いたが、それが黒を突き破ることは、ない。
「……やってくれたな」
 ソラはうめいた。意識せずとも、鋭い視線がまじない師に向く。人を射殺せそうな視線を向けられてもなお、男は愉快そうに笑っていた。理性の潰えたまなざしは、獣の血を持つ少年を戦慄させた。
 まじない師が笑みを崩さず手を振ると、黒い波はどこまでも自在にうねった。もはや、鉛弾が通用するとは思えない。ソラもソラで、天族の力を駆使して対抗するしかなかった。白い光の刃が、黒い闇の渦にぶつかって、弾ける。黒はつかのまおびえたように、勢いを弱めた。畳みかけようとソラが相手の方へ踏みこんだとき、跳ねかえった黒が押し寄せる。彼はとっさに地面を蹴って後退したが、まじないの勢いには勝てなかった。鋭い力にわき腹をえぐられ、よろめく。深くえぐられた所から、ぱっと鮮血が散った。
「このっ……」
 少年はわき腹を押さえ、思わず悪態をつく。けれども次に顔を上げたとき、言葉を失った。
 黒い力はいつの間にか、天を覆うほどに膨れ上がって森の一角をのみこまんとしていた。かつてないほど膨張した黒い渦の中心で、ただ一人、まじない師の男だけが哄笑した。
「さあ、さあ! あがいてみせるがいい、忌み子よ!」