第七話 風眠る地・5

 名を呼ぶ声は、うつろに響く。漂う血臭と目に焼きつく赤を前に、リネは震えていた。もとより色の白い顔は血の気が失せて蒼白になってしまっている。ソラのかたわらに立っていたまじない師の男が、彼女を振り返ってこれ見よがしの嘲笑をひらめかせた。
「思っていたより早かったな。まあ、じゅうぶん楽しませてもらったから、いいか」
 男は荒々しく、少年の頭を蹴りつける。衝撃に揺れた体躯はけれど、それ以上動かない。
「しかし、どうするか。天竜の小せがれを無為に死なせるのはもったいない。力だけをうまく引き出す技でもあればよかったが」
 都合よくはいかないものだ、吐き捨てる声は乾いていて、もう一人の生者を慄然とさせた。少女は状況を忘れて駆けだす。血の染みた土の上を躊躇なく飛び越えた彼女は、ソラのかたわらに膝をつき、彼の体を揺さぶった。
「ソラ!……ねえ、起きて、ソラ!!」
 悲鳴じみた声が、何度も名前を呼ぶ。しかし、ソラは身じろぎひとつしなかった。命のこぼれた体は、少女の手に重くのしかかる。目の前が暗くなってゆく。リネが思わずこうべを垂れたとき、彼女の耳が、かすかな呼吸の音をとらえた。目の前の少年が、息をする音。――彼は、まだ生きている!
 少女の両目に光が灯る。リネは夢中でソラにすがりつくと、どうか治して、救ってと祈った。何に祈ったかはわからないが、彼女はただ、こうすればいいことを知っていた。祈りの時はわずか。傷口がふさがっていく。リネは歓喜の吐息を漏らした。無垢な少女の無垢な喜び。彼女は考えようとしていなかった。自分の力がなんなのか、それが何をもたらすのか、それを扱える自分が何者か――奥底では、すべてを知っているのに。
「――さて」草の鳴る音と、声が、同時に落ちる。リネは、はっと息をのんで振り返った。黒い男が、リネを値踏みするように見ている。リネがきつくにらみかえすと、彼は嗤った。
「そろそろ終わりにしたいところだが、どうしてくれようかな?」
 粘ついた愉悦は、少女の心根を否応なく揺さぶった。嫌悪もあらわに、リネは男をにらみつける。まじない師は、大仰に肩をすくめたが、動じたようなところは一切ない。少女は唇をかみ、いまだ動かぬ相棒を一瞥してから立ちあがった。
「ほう、やる気か。勇ましいお嬢さんだ」
 男の笑声を無視し、リネは静かに銃を取り出した。得意の棒手裏剣ではなく。向き合う者の目が冷たくなった。
 お互いになにも言わず、にらみあう。そしてまた、無言のまま動き出した。男の周囲で黒がうごめくと同時、リネはそちらへ発砲した。乾いた音をひきずって飛んだ鉛弾が力の塊にぶつかるその前に、黒が大蛇のように首をもたげて口をあけた。それは音もなく鉛を食らう。蛇に似た魔手は、すぐリネへと伸びた。彼女はとっさにそれを撃ったが、銃弾は、小さな穴を開けただけだった。もともと空虚な黒い手は、その穴さえもすぐに塞いでしまう。飛びかかってくる黒いものをしゃがんで避けて、リネは一度、銃を放り出した。
 手を軽く振る。空気が凍る。生まれた氷刃は、追撃を加えようとしていた黒を切り裂いた。まじない師は、自らの力の結晶が打ち消されてなお、妙な微笑を崩さない。
「そう、それだ。おまえのその”魔術”とやらをもっと見せてくれ。そうでなければ、おもしろくない」
「っ……この!」
 いつもは無邪気な青色の瞳に、鮮烈な炎が走る。リネは両手の上に氷をつくると、それを槍に変えて、おぞましい男めがけて飛ばした。彼は哄笑を上げながら氷を打ち払う。明らかな侮蔑の気配を浴びて、小さな胸は憤怒と焦燥に焦がされた。
 あせるな、怒るな、乗せられるな。
 自分に言い聞かせながら黒い触手をかわしたリネは、いっとう大きな氷塊を生み出し、投げる。男が目を見開いているその隙に、リネは放り出した銃をすばやく拾い上げ、撃った。弾丸に撃ち抜かれた氷はひびを走らせて砕ける。破片は散らず集まり、まじない師の頭上へ降り注いだ。大きいものでは人の拳ほどある欠片は、まじない師のつくりだした刃によって、さらに細かく砕かれる。彼はいらだたしげに目を細め、狭い視界に少女の姿を映し出した。その姿は、彼の予想よりも大きい。リネは男の意識が氷に集中している隙に、相手めがけて踏み込んでいたのである。彼女は反撃されるより早く、棒手裏剣を投げつけた。鮮血が飛び散り、両者の視界をまだらに埋める。
「小娘!」
 怒声が飛ぶ。おそろしく低い声。けれどもリネはひるまず、自分の内側に意識を集中させた。
 暗闇の中、水色の髪の女が笑う。少女とよく似た顔の女は、酷薄にして妖艶なまなざしを生き写しのごとき少女に向けた。
 樹皮を裂くような、異様な音がする。全身から淡い光がにじみ出す。リネのまわりに水が集まり、凍てついた。薄い水の膜は空気から引きはがされて、無数の小さな刃に変ずる。
 己の術よりもずっと非現実的な光景に、まじない師の男は唖然としていたが、やがて恍惚として瞳を光らせた。
「そうこなくては」
 嗤った、瞬間。
 黒が広がった。
 ともすれば、森一帯を覆い尽くしてしまいそうな黒い波。それが何でできていてどこから来るのか知らぬ少女は、ただ『危険だ』という本能が鳴らす警鐘だけを聞いていた。
 リネは、寄り集まった氷たちに命ずる。喉を突き破りそうな悲鳴をこらえ、彼らを放つ。もはや嵐のような勢いで、それらはまじない師へと叩きつけられた。が、ふくれあがった黒は、いともたやすく細かい氷をのみこんでしまう。ひとつのみこむごとに、膨張の勢いは激しさを増した。
 リネは息をのむ。次の手を打つより早く、闇よりも濃い無の波が襲いかかってきた。とっさに身をかがめようとして、そのとき彼女は、痛みとも苦しみともつかぬものを感じた。
 視界が暗転する。
 思考が止まる。
 空虚になる。
 直後、森の一部を覆った黒は、音もなく弾け飛んだ。

 どのくらい意識を失っていたのか。終わりの見えない虚無を漂っていた彼は、ようやく閉ざされていた視界がうっすらと開けたことに気づく。おぼろげに見えるのは、草と木々と、うごめく黒。ああ、と反射的に声を上げかけた。だが、開いた口は息を吐かない。震える喉は音を生まない。動こうともがいてみても、不思議なことに、指の一本すら思い通りにできなかった。体の末端がひどく冷えている。
 少しして、薄暗い視界に影が映りこんだ。茫洋としたそれに目を凝らして人影と気づく。小さなものと大きなもの。それらが『誰か』、考えるまでもなく答えが弾け、とたんに人影が色彩と輪郭を帯びた。ぼやけていた視界が、わずかに線を伴って、彼の瞳に映りこむ。
 見知った人の名を思わず叫んだ。小さな相棒。水を操る女の子。明確な形にならない音は、自分の中だけをたゆたう。
 彼女は膝をついていた。額に汗をにじませて、目の前に立つ男をにらんでいる。背中や肩、脚、あちこちから血が滴っていて、体をかろうじて支える腕は小刻みに震えていた。
 何があったのか――嫌でも思いだす。まじない師と戦って、全身を貫かれて気を失った。おそらく相棒は、動けなくなった彼を守って戦ったのだ。
 耳障りな笑声がこだまする。
「小娘にしてはよく頑張ったが、ここまでだな」
 嘲りのささやきは、不自然なほど明瞭に響いた。
 焦燥が火となって灯る。どうにかして彼女を助けなければと、思う。しかし、声すら出せぬ彼に、できることなどなにもない。
 まじない師が踏み出す。彼は一歩ずつ、少女との距離を詰めてゆく。少女は動かない。否、立ち上がろうとしたそばから、顔を歪めてよろめいた。
 どうすればいい。どうすれば――
 彼が意識の中でもがいたとき、風がささやいた。

(なまえを、よんで)

 おかしなこともあるものだ。風が言葉を持つなど、それを聞きとることができるなど。そう嘲った一瞬後、けれど彼は、自然に言葉を受け入れていた。
(あのこのなまえに、ちからがある)
(かのじょの、ほんとうのなまえを)
――本当の名前。彼はあえいだ。今の名前が偽名であるかのような言い方ではないか。
 声なき訴えに、風は答えない。いくつもの声と人格をもつ風が、ざわめいて、うなる。
(なまえを)
 知らない。本当の名前など、今までに聞いたことがない。
(だいじょうぶ)
(ぼくたちがしっている)
(わたしたちが、おしえる)
(――風語りよ、名を呼べ)
 そして、ひとつの明確な音が流れこんできた。

 動きたくても動けない。絶体絶命の状況下にあって、リネの心は不思議と静まっていた。死や痛みの恐怖はおろか、あせりのひとつも感じない。心残りがあるとすれば、ソラを守り切れなかったこと。彼を最後まで支えることが、できなかったこと。
 足音を聞く。顔を上げれば、黒衣の男が立っていた。まじない師はなにも言わない。勝ち誇ったように口を歪めて、腕を上げた。
 リネは唇をかむ。涙があふれそうになるのを必死でこらえた。死ぬことよりも何よりも、相棒のために戦いきれなかったことが、どうしようもなく悔しかった。
 掲げられた腕が靄に覆われてゆく。
 そのとき、かすれた声が少女の鼓膜を震わせた。
「……リネ」
 彼女は、はっとして振り返る。まじない師も、嘆息して、手を止めた。
「ソラ!?」
「まだ生きていたか」
 薄目を開けて震えるソラは、二人のどちらの言葉にも答えなかった。感情の見えない瞳でリネを見つめ、うわごとのように、喉を震わし、声を出す。
「『リネット』」
 刹那。
 少女は、頭の中でなにかが爆ぜるのを感じた。
 それは、本能か。自覚か。あるいは、記憶と呼べるものか。
「え?」
 視界が回る。
 世界が色形を失う中で、頭の奥はどこまでも透明になった。
 めまぐるしく流れゆく、音。景色。誰かの姿。自分の、姿。
――そうだ。私は、そういう存在だった。
 形を持った意識が血とともに全身を巡りゆく。リネはそっと、唇を歪めた。
 音が戻る。光が、色が。その中心で、穴のような黒が大きくなる。まじないだ。あれをまともに食らったら、とても苦しいだろう。けれど、問題ない。
 リネは軽く手を振った。音を立て、空気中の水分が見る間に凍りつく。それらは固まり、太い針となってまじないの中心に突き刺さると、黒をあっという間に打ち消した。
「何っ!?」
 術者は愕然として、自分の手と『彼女』を見比べた。『彼女』は静けさを形にしたような微笑を浮かべている。男の目もとが、頬が、恐怖にひきつった。
「なんだ、おまえは。もはや先の小娘ではないな!……何者だ!」
「私?」
『彼女』はくすりと笑う。戦いの中なのに、どうしようもなく楽しくて、面倒くさい。久しぶりの感覚に酔いそうになる自分をなだめて、水に命令し、まじない師を包囲する。そして『彼女』は、高らかに名乗った。
「私は魔女。『碧海の魔女』リネットよ」