序章 伝説のささやかなる始まり2

 ルーはイゼットから情報を得るなり、三日前に通った道を軽快に戻りはじめた。途中、外套が飛びそうになって慌てて寄せたとき以外は一切立ち止まらなかった。あまりの体の軽さに通行人が何人か視線を奪われていたのだが、それにすら気づかない。はやる気持ちをおさえるのに必死だった。
 修行の旅は三分の一にも達していない。もっと頑張らねばと自分に言い聞かせていた。ルーが氏族の者から認めてもらう方法は、もうこれしかないのだ。
 走る、走る、ひたすらに。途中、小さな野良猫と並走をしながら、ルーは町と外の境目にたどり着いた。そこで軽く息を整えているとき、人の気配を感じて端の方に身を寄せる。予想通り、図体ばかりが大きい男が四人ほど、荒々しい足取りでやってきた。長い徒歩の旅だったのだろう、そうとわかるほどに身なりは汚れているが、取り立てて貧相という感じもない。むしろ明るい笑い声を立てていた。
「むう。気づかれませんように」
 ルーは、彼らから感じる獰猛な気配をかぎ取り、そっと呟いた。ああいう手あいは目をつけられると面倒だ。ルー自身は滅多なことで危なくはならないが、面倒は少ない方がいい。彼らの視線を避けるように脇をすり抜け、町の外へ走り出た。
 イゼットにもらった情報をもとに、ルーはあたりを探りはじめた。ひとたび街道からそれた所は、人の侵入を無言で拒む自然の領域である。だが、小さな修行者は、かたい地面も針のような少しの下草もものともせず、道なき道を進む。歩きまわっていると、ルーの目に、連なる岩の小山が映った。町で出会った男の子の言葉を思い出す。ルーは、岩陰をのぞきこみ、歓喜の声を上げた。
 連なる岩の先に、土と砂礫が固まってできた壁がある。そして途中にぽっかりあいた穴。ほかの人々は気づかないだろうが、穴のそばには一族の古い文字が刻まれている。
「ここだ!」
 目を輝かせたルーは、そこで一度立ち止まり、大きく息を吸って、吐いた。飛び跳ねそうな心臓をなだめすかし、そっと穴をのぞきこむ。
「深そうだなあ……」
 一番奥は、ルーの目をもってしても見通せない。それほど長い道のりなのだろう。今踏み込んだら、一晩をこの中で過ごすはめになるやもしれぬ。
「ほんの少し行って、日が暮れる前に戻ってこよう」と決めて、ルーは踏み込んだ。旅の前に先達から聞いたことを思い出す。
「確か、この穴では、壁の文字を読みながら進む、とかなんとか」
 言いながら、壁際に目を走らせる。一歩ごとに光は遠のいていくが、それはルーにとって障害になりえない。やがて、壁に少しの変化を見いだした。あきらかに人の手で彫られたと思しき溝。奇妙な図形の並びにも見えるそれが「文字」なのだと、すぐにわかった。ルーは食い入るように文字を追って、そして、頭を抱えた。
「え……どうすればいいんだろう、これ?」

 町の子どもたちの勉強会は、いつもは二日に一回程度開かれている。だが、イゼットの出立が近いこともあり、今回は二日続けて開かれることになった。風がごうごうとうなりを上げ、砂がよく飛んでくる日であった。そのためイゼットは、この日の勉強会をどこか屋内でできないかと、町の大人と相談した。結果、選ばれたのは町で唯一の大衆食堂だった。地元の人間や旅人でにぎわう食堂の隅に、子どもと若者一人が固まり、古い敷物の上に木版を広げる。かたわらには、せっかくだからと頼んだ軽食が並んでいた。
「ねえ、イゼット。本当に行っちゃうの?」
 彼の隣を陣取っていた少年が、イゼットを不安げに見上げる。そのさらにむこうでアイシャが顔を上げたことに気づきながらも、イゼットは平静を装ってうなずいた。
「もう少し一緒にいてくれない? おれ、訊きたいこと、まだあるよ」
「俺もそうしたい気持ちはあるんだけどね」
繕った笑みはすぐに、苦笑いに変わる。
「……あまり長くいると、決心が揺らぎそうなんだ」
 それは、ごく小さな声だった。だから、少年にもはっきりとは聞きとれなかった。不思議そうに問い返した少年の頭に手を伸ばしたイゼットは、彼の黒髪をかき混ぜる。甲高い笑い声を上げる少年と少しの間じゃれて、彼の肩を軽く叩いて締めくくった。
「さ、今のうちにたくさん訊いてくれよ。文字が読めるだけでも違うからね」
 彼が少年に、そして子どもたち全員に呼びかける。明るい返答があった、次の瞬間。すぐそばで怒声が響き、荒々しく椅子が鳴った。何人かの子どもが身をすくめて振り返る。イゼットも、眉を寄せていた。
 彼らの近くの席に座っていた四人の男たちが、向かいにいる若者を怒鳴りつけている。頭に赤い布を巻いている彼は町の工房に弟子入りしていて、子どもたちにも気さくに話しかけてくる人だ。
 男たちは昨日までは見なかった顔だ。おそらく旅の者――それも流れの傭兵のたぐいだろう。庶民の食堂で、彼らは堂々と剣を佩いていた。
 地元民と旅人の喧嘩という構図になってしまっている。作法の違い、価値観の違い、悪質ないちゃもん――理由はさまざまだが、どこの町でもあることだ。こちらに飛び火しないかと警戒していたイゼットだが、子どもたちの不安げな視線に気づくと、表情をやわらげた。
「大丈夫。おやじさんがなだめてくれるから。……あんまり見すぎないように」
 無礼なガキがいる、と腹を立てられると、彼らに害が及びかねない。直接子どもたちにそれを伝えるわけにはいかないが、おさえた声で一応注意をする子どもたちはうなずいた。誰の顔にも不安が色濃い。
 口論は刻一刻と熱を帯びていく。どうやら事の発端は、男たちが武器を持っていることをくだんの若者が注意したことのようだった。だが、今となってはただの罵声の応酬となっている。注意した若者も、町では血気盛んと評判だ。腹を立てて必要以上に挑発してしまったのかもしれない。
「退散した方がいいか」
 イゼットは、口の中で呟いた。今日は槍を持ってきていない。護身用の短剣アキナケスを忍ばせてはいるが、それだけではあまりにも頼りない。自分はともかく子どもたちを守れないだろう。
 憤激の声が店を満たす。男たちが、若者だけでなくこの店全体に悪口をばらまきはじめた。関わっていない人たちもさすがに不快感を禁じ得ない様子だ。店主が出てきて双方をなだめはじめたが、特に男四人の方は聞く耳を持っていない。
 空気が淀む。
 子どもたちを人々から隠すように座っていたイゼットは、腕に鈍い痛みをおぼえて、顔をしかめた。
「……イゼット?」
 アイシャの声。振り返ると、いつの間にか青い瞳がすぐそばにあった。
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
 まわりの子に聞こえないようにしているのか、ささやく声が問いかける。はっとしたイゼットは、「大丈夫」と答えて、しかし目をそらした。だが、彼が前を向いてすぐ、四人の男のうちの一人と目が合った。
 いや。彼が見ていたのはイゼットではない。
「西洋人じゃねえか。珍しいな」
 店内の何人かが息をのんだ。イゼットもその一人だ。
 背後で、少女が小さな悲鳴を上げる。それにも構わず無遠慮に近づいてきた男を、イゼットはとっさにとどめていた。
「子どもをおびえさせないでください」
 男の目が、ぎょろりと動く。彼は、そこではじめてイゼットを認識したようだった。
「そう威嚇すんなよ。ちょっと顔見ようってだけだろ」
「お言葉ですが、この子は見世物ではありません。例えばあなたは、訪れた町で好奇の目を向けられたら、どう思われますか」
 アイシャと、二、三人の子どもが、涙声で彼の名を呼んだ。しかしこのとき、イゼットは答えなかった。そんな余裕すらなかった。男の目と若者の目は互いを捉えて、そのはざまで火花を散らしている。
 今度は、決して視線をそらさない。だが、イゼットは胸中で悲鳴を上げていた。本来ならばこのような揉め事に関わるべきではないのだ。何よりも自分のために。
 それでも、わかっていても。恐怖におびえる小さな子どもを守らぬわけにはいかなかった。
 男の左手が、彼の胸倉をつかんだ。その力に抗おうとしたイゼットはしかし、腕を動かした拍子に、鈍痛に意識を奪われる。相手の右腕が振り上げられる。その動きは明瞭に見えていた。避けなければならないこともわかっている。けれど、体は言うことを聞かない。
「なんだ、説教か? あんまり調子に乗るなよ、お坊ちゃん」
 低い恫喝も幼い声も遠く聞こえる。頬に痛みが走るが、それは、ずっと彼を苛んでいる痛みに比べれば些細なものだった。
 明るい色の瞳は矢のごとき光で男を射ぬく。脅されて、殴られて、怒りながらも平静を保つ姿は、「お坊ちゃん」の態度ではない。無粋な旅人ははじめてその奇妙さに気づき、たじろいだ。
 どちらも動かない。いや、片方は動けない。食堂全体の空気もそこで凍りついていた。
 小柄な者が一人、軽い足取りで開けっぱなしの扉をくぐってきた。その者は扉を閉めてすぐ、雰囲気の悪さに首をかしげたが、ざっと視線を巡らせ、すぐに状況を把握する。目の前の騒動に気をとられていた人々は、この来訪者に気づかなかった。
 他方、イゼットは途方に暮れていた。態度を決めかねていたらしい男の瞳に獰猛な光が走ったのを見て取って、最悪の事態を覚悟する。せめて子どもたちを遠ざけようと、口を開く。しかし、声が発せられることはなかった。
「てやっ!」
 高い気合の声が聞こえた一瞬後、イゼットと対峙していた男の体が傾いた。大きな手から力が抜ける。イゼットは、その隙に腕を振りほどいて拘束から逃れた。同時に男が床に倒れる。イゼットも、子どもたちも、ほかの客も、彼に困惑の目を向けた。
 イゼットはすぐに、男のそばに何かが落ちていることに気づく。指先ほどの大きさしかない石だ。
「まさか、あんなもので気絶したのか?」
 彼が石を見つめていると、そこへ白い手が伸びて小石を拾い上げた。流れるような動作を目で追ったイゼットは、石を拾った人物を見て絶句した。
「やっぱりお兄さんでしたか。聞き覚えのある声がすると思ったんですよ」
 昨日、屋台の前で出会った子どもがそこにいた。食堂の尋常でない空気をものともせず、石を指先で弄んでいる。
「……ルー?」
 イゼットが喘ぐように名を呼ぶと、ルーは顔を輝かせた。
「わあ! 名前、覚えてくれたんですね! じゃあ、ボクも名前で呼ばなきゃ、だめですね。イゼットさん」
「あ、はあ、どうも……じゃなくて!」
 思わず声を荒らげると、ルーは首をかしげた。何を言うべきか迷ったイゼットは、とりあえず動かない男を指さした。我に返った仲間たちが彼のまわりに集まってきている。
「あれは、君がやったのか」
「ん? あの方ですか?」男を一瞥したルーは、あっけらかんとしてうなずいた。
「ちょっと行きすぎてる感じだったので、お灸を据えようかと思って。でもほら、決闘するわけにもいかないじゃないですか」
「だから、小石をぶつけた?」
「急所は外しましたよ。このていどの石なら大けがもしませんし」
「気絶してるけど」
「それは想定外」
 いやあ参った、とルーは頭をかく。あまり悪びれた感じがない。イゼットは思わずこめかみを押さえた。嫌な予感がする。――それは、すぐに的中した。
「て、てめえ! くそガキ! 俺の仲間に何しやがった!」
 耳朶を殴りつける怒声に、ルーは顔をしかめて振り返る。小石を見せつけるように上へ投げて、落ちてくる前につかんだ。
「そこにいたなら話を聞いたでしょう。そういうことです」
「ふ、ふざけんな……」
「ふざけているのはどちらでしょうか」
 ルーの声が冷たさを帯びる。今までのものとは違う声に、イゼットさえも身をすくめた。直接声をかけられた男は、表情を凍りつかせた。おびえすら見て取れる彼に、ルーはぴしりと指を突きつける。
「人々の憩いの場でどなり散らし、無粋な振る舞いをして、あげく武器も持たない方に手をあげたのはどなたですか。あなた方であり、あなた方のお仲間でしょう。あなた方がまずすべきなのは、ボクにわめくことではなく、この場の全員に謝罪することではないのですか?」
 まったくの正論である。ルーの言葉には、人々が思わずうなずいてしまうほどの力強さと正当性があった。一方、痛いところを突かれた三人は、顔を青くしたり赤くしたりと忙しい。ルーに怒鳴りつけた者が、屈辱に耐えかねて一歩踏み出した。
「小僧がえらそうにほざきやがって――」
「納得がいかないと? よろしい、ならば今度こそ決闘しますか? ここではなく、ひとけのない屋外で」
 せいいっぱいの抵抗をぴしゃりとさえぎられた荒くれ者は、目を白黒させる。構わず、ルーは一歩踏み出して相手を見上げた。
「ボクの氏族ジャーナではそういう『対話』の方法もあります。ただし、やるからには全力ですよ。清らかなる炎の精霊に誓いを立てる、神聖な決闘です」
「……氏族ジャーナ?」耳慣れない言葉を繰り返した イゼットは、何気なくルーの衣装――外套の下に隠れた鮮やかな布――に目をやって、息をのんだ。出会ったときからぼんやりと抱いていたものが、形を持つ。
 食堂の人々の中にも、イゼットと同じことに思い当った人が何人かいた。言葉を失くしている男の仲間たちも、その一人であったらしい。今まで仲間の怒りが伝染したようであったのが、血相を変えて彼を止めに入った。
「おい。もうやめにしよう」
「……な、なんだよ。いきなり」
 仲間に止められると思っていなかったのだろう。彼は、惑いながらも反論した。止めに入った二人は、蒼ざめた顔をルーに向ける。
「まさか気づいてないのか!? そいつ――クルク族だぞ!」
 誰もがルーを気にして口にしなかった言葉。だが、当人はそれを平然と受けとめていた。
「クルク族……?」
 子どもたちが、不思議そうに声を上げた。イゼットは彼らを振り返り、ほほ笑みかける。
「この大陸のあちこちで集落を作って、狩りをして暮らしてる人たちだよ。力が強くて足も速いことで有名で、素手で獅子を狩ってるなんて噂もある」
「え、ええ!?」
 子どもたちは悲鳴じみた声を上げ、いっせいにルーを見た。素性が露見した旅人は、幼い子たちの視線に気づくと、明るい表情でこたえた。
「ボクは力が足りないので、おとなの獅子は、さすがに道具がないと狩れませんが……。まあ、小型の獣を狩るときは何も持たない方が体が軽くていいですね」
 買い物の話でもするかのような調子でそう言う子を、人々は唖然として見つめる。男たちもいよいよ腰が引けはじめていた。
「なんでもいい! クルク族の小僧なんて、普通じゃねえに決まってる!」
「普通じゃないのは確かです。さ、納得していただけました? それなら皆さんに謝ってください」
 とたんに男たちは情けない顔をする。だが、ルーは容赦しなかった。追いうちをかけるかのようにこう付け加えたのだ。
「あ、それと、ボクは小僧おとこじゃありませんので」
 これがとどめとなったらしい。無礼を働いた旅人たちは、いよいよもって倒れそうになっていた。「男の子に間違われるのなんて日常茶飯事なので、気にしなくてもいいですよ」と言われても、まったく顔色はよくならなかった。一方、クルク族の少女は早々に男たちから視線をそらし、食堂の店長に騒がせたことを謝罪していた。