こうなるたびに思い出すものはいくつもある。背中をさする手。たくましい腕のぬくもり。少し冷たい風。足音。かたい寝台の感触。それから――小さな、小さな話し声。
イゼットがこうなるたび、野の大人たちはいつも、彼を気遣うようにささやきあっていた。
「だーめだわ。どこに誰といても、結果はあんま変わらんらしい」
「そうか……。ってなるとやっぱり、『発症』するには条件があって、その条件っていうのは……」
「発症、ねえ。そもそもこれ、病気なのか?」
「それがわからないから、僕も参ってるんだよ。病気じゃなかったらそれこそ、巫覡にでも診てもらうしかないな」
「俺ぁ、このへんの巫覡と関わりたくないんだがなあ。奴ら、高慢ちきでいけねえ」
「この子にとっては、むしろ好都合なんじゃない?」
「どうだかね。悪霊に憑かれてるとか言われてみろや。どんな扱い受けるかわかんねえぞ。――なあ、それでも聖都に行きたいのか、イゼットよ」
声とともに、太くてごつごつした手が、額に張りついた前髪をかき上げる。その手つきはいつも優しかった。かつて得られなかったぬくもりは、きっとこういうものだろう。そう思うと、苦しいながらもほんの少し嬉しかった。――そのふしぎな感覚を、今でもよく覚えている。
※
記憶にあるより小さな手が、肩をつかむ。そのときイゼットは、しっかりとした地面の上にようやく立てたような気がした。異変が起きた後も、ずっと意識ははっきりしている。まわりの音も、少しぼやけてはいるが、聞こえた。だが、全身が引きちぎられるように痛いせいで、夢と現の境にいるようだったのだ。その間の苦痛を思うと、気絶できた方が楽かもしれなかった。
ルーが何度も名前を呼んでくる。その声が、だんだんと大きくなってきた。
「イゼット! やっぱりどこか悪いんじゃないんですか!?」
白い相貌に恐慌をはりつけたルーは、おろおろとあたりを見回している。取り乱してはいるが、大声を出すことはなかった。――本当は、イーラムに着く前から、何かあると気づいていたのだろう。
罪悪感が、イゼットの心を静かに絞める。その一方で、ようやく声が出るようになってきていた。
「ルー」
今にもちぎれそうな糸のように、細い声で名を呼ぶと、ルーは軽く目をみはった。
「ごめん……どこか、人のいないところ、に」
そこまで言って、イゼットはまた歯を食いしばる。短い言葉は、ルーにきちんと伝わったらしい。イゼットが手放しそうになっていた槍を右手で持った彼女は、左の腕を彼の脇に回してきた。
いくらなんでも片腕は無茶だ。
あせるイゼットをよそに、ルーは片腕で抱え上げるように彼を支えると、「むんっ」と一声上げてから、広場の横の小路めがけて歩きだした。
騒動の音が遠ざかり、心地よい静寂が喧騒に取って代わる。人っ子一人いない路地。かわりに野良猫がのんびりと散歩する横を、身を寄せ合う二人が行き過ぎる。久しぶりに人を目にしても、猫はいっさい動じない。近くの家の軒先で丸まって、遅めの昼寝を始めた。
猫ほどのん気でない人間たちは、座れる場所を探してさまよい、閑古鳥の鳴く食堂に行きついた。愛想のない店主に不審げに見られるが、構わず奥へと入る。席について、軽食を注文し、ようやく一息つけた。
「イゼット……」
ルーが、気づかわしげに呼ぶ。イゼットは、何度も息を吸って吐いた。痛みと痺れが少しずつひいてゆく。火の燃える音と、芳ばしい肉の香りと、土のにおいが、現実を伝えてきた。
「――もう、だいぶ平気」
「なら、いいんですけど」
「ごめん、ルー。驚いたよな」
ルーは首を横に振ったすぐ後、縦に振った。どちらともいえない曖昧なしぐさに、イゼットは苦笑する。いまだに苦痛の名残がある腕を、軽くなでてみるが、なでても名残は消えなかった。
「修行場での怪我ですか? それとも、なにかほかに……?」
ためらいながら、少女が問うてくる。イゼットは薄暗い天井をあおいだあと、すぐに彼女の方を見た。
これからしばらく、行動を共にすることになる。それなら、話しておいた方がいいのだろう。そう思っても、心はなかなか定まらない。揺れ動く中で、それでも彼は、おもむろに口を開いた。
「もう、肩は平気だよ。それとはまったく別のこと」
「別……」
「うん。――たまに、痛くなって、痺れて、感覚がなくなるんだ。なぜか右腕から始まる。少しずつ全身に広がることもあるし、ひどいと熱が出る」
「なにか、病気ですか」
身構える少女に、イゼットは首を振ってみせた。
「わからない」
「わからない?」
「原因も、そもそも病気かどうかもわからない。何人もの優秀な医者に診てもらって、全員に原因不明と言われたよ。最初に診てくれた人が、今でも調べてくれてるけど、成果はあがってない」
言葉を切ると、気まずい沈黙が広がる。調理の音だけが合間に割り込んできた。イゼットは、なんとか自分を叱咤して、話を続ける。
「実は、最初に診てもらう前に大けがをしてるんだ。その後遺症じゃないかと疑われたけど、どうも違うらしい。ひとつわかっているのは、自分や自分のまわりで激しい感情が生まれたときに、痛みが出るってこと」
「激しい感情……」ルーが、よくわからない、とばかりに顔をしかめる。しかし、渋面は、理解を含んだ驚きに取って代わった。先ほど広場で何が起きたか、それを思い起こしたのだろう。
「すっごく怒ったり、泣いたり、ってことですか」
「それだけじゃない。恐怖、憎しみ、敵意、疑い……すべての、強い感情。時には喜びや高揚感すら毒になるみたいだ」
調理の音が、少し小さくなる。かたわらに置かれた槍に、イゼットは手を添える。金属の柄は、ひんやりしていた。
「俺、今は人に文字を教えたり、手紙の代筆をしたりしてお金をもらってるんだ。けど、もともとは違った」
「もしかして……」
「この槍を使った仕事をしていた。人を守る仕事だった」
ルーが、沈痛な面持ちで黙りこむ。察しのいい娘だと、イゼットはつくづく感心した。
「でも、今はもう、そういう仕事はできない。敵の前に立つと、槍を振るうどころか、立っていることすらできなくなるから。理由は……わかる?」
「敵は、憎しみや、怒りや、戦うっていう気持ちを強く持っている人が、多いですよね……だから、ですよね。だから」
うわごとのように繰り返すルーに、イゼットは小さくうなずいた。
そのとき、注文したものが運ばれてくる。焼いた羊肉のサンドイッチと、冷えた果汁をしぼった水だ。食欲をそそる香りが、顔のすぐ下でふうわりと広がる。二人は、どちらからともなく、互いを見つめた。
「とりあえず、食べましょう。ちょっと疲れたので、休憩です」
「……うん」
少しの間、二人はサンドイッチを食べることに集中した。人のいない食堂なので、食事もいまいちなのかと思ったが、パンも肉も、そこそこに美味だ。懐かしい味がして、イゼットは顔をほころばせる。
「昔食べた鯖のサンドイッチを思い出すな。これは羊だけど」
「え、鯖? 鯖なんて食べたことないです」
「そうなの? 機会があったら食べにいこうか」
「いい鯖紹介してください」
ルーが真顔で言うものだから、イゼットは思わず吹き出した。
今日もすがすがしい食べっぷりでサンドイッチを平らげた少女は、短い祈りを終えると、目を伏せる。
「……さっきの話、どうにかならないんでしょうか」
イゼットは言葉に詰まった。けれど、すぐに彼女が何を言いたいのか気づいて、明るい色の瞳を曇らせる。
「原因と治療法は、今も調べてる最中。手を尽くしてはもらってるし、俺もいろいろ尋ね歩きはするんだけど……なかなか進展はないな」
「そうなんですか」
白い手が皿をどかす。そうして開いた空間に、ルーは額をつけてうずくまった。土下座しているように見えなくもない。奇妙な格好をされたものだから、イゼットは目をむいた。
「は……ちょっと、ルー?」
反応は返らない。そのかわり、少女は小さな手で頭を抱え、短い髪をかき混ぜる。
「ボク、今、とっても腹が立っています」
「え?」
「自分にとっても腹が立っています」
なんと言ってよいのかわからず、沈黙を選ぶ。イゼットは、独特の痛みを訴える右腕を、そっとなだめるように叩いた。ぽっかり空いた胸の隙間が少し埋まったように感じていた。
「ルー」
ぶ厚い外套の上から、背中を叩く。ルーは少しだけ顔を上げた。イゼットはほほ笑んだ。
「ありがとう」
黒に限りなく近い茶色の瞳が、見開かれる。戸惑っている少女に若者は、あえてそれ以上の言葉をかけなかった。
食堂を出てすぐ、二人は宿に戻った。まだ日没の祈りの刻までは時間があるが、これ以上外をぶらぶらする気力がなかった。次の修行場も控えていることだし、ちょっと休もう、という話になった。
丸まった猫の旗の下を通ろうとしたとき、イゼットの耳が独特な拍子のついた声をとらえる。何事かと思って見ると、宿のすぐ前で、一組の男女が敷布を広げて座っていた。旅人向けの露店を開いたところらしい。色とりどりの服飾品を並べた彼らは、歌うような呼びこみで、行き過ぎる人々の気をひいていた。
「にぎやかですね」
ルーが、食い入るように露店の方を見ている。あふれ出る好奇心は、ちっともおさえられていなかった。
「ちょうどいい。少しだけ見ていこうか」
「ふぇ? 何がちょうどいいんですか?」
「いや……実は『石と月光の修行場』のときから気になってたんだけど、ルーの石板、帯で腰に巻きつけてあるだけじゃ落ちそうじゃないか。鞄か袋があるといいかなって」
ルーは、目を瞬く。
「考えてもみませんでした」
「そんなことだろうと思った」
「ボクも困ってはいたんです。何回か落としたことがあって」
「すでにやらかしてた!」
よく大事な石板が割れなかったものだ。イゼットは頭を抱えた。
というわけで、露店に寄って、ルーにちょうどよい袋を選んでもらうことにした。その間、イゼットはそばの品物をなんの気なしにながめていた。途中で、ペルグ人らしき売り子の女に声をかけられる。
「あのお嬢さん、あなたのお連れ様?」
彼女はペルグ語で問うてきた。イゼットもペルグ語で「そうですよ」と答えて、「あの子がどうかしましたか」と繋いだ。
「ひょっとして、西洋人? それとも……ええと、南の人?」
思わせぶりな表情での問いかけが続く。イゼットは首をかしげたが、ほどなくして言葉の意味を察し――顎に手を当て、しばし考え込んだ。
ややしてルーが四角い小袋を選んだので、それを買って宿に戻った。露店の喧騒を背に、ルーが軽く首を傾ける。
「イゼットは、いったい何を買ったんですか」
「ん?……ちょっと待ってね」
ひそり、とそれだけ言うと、イゼットはますます頭の角度を急にするルーを連れ、部屋へ戻った。
安堵の息を吐いた後、彼は買ったものをそっと取り出し、隣にいる少女に差し出した。
「これ。今日、いろいろと迷惑かけたお詫びに」
淡い黄色のマグナエだ。本来男が買うものではないが、ペルグの女は気にしていなかった。
「――あ」
ルーは、ぽかんとした後、はにかんで黄色い布を見つめる。
「い、いいんですか」
「うん。というか、むしろ身に着けておいた方がいいかもしれない」
イゼットが強い口調でつけたした、その意味をわからないルーではなかった。大まじめにうなずいた彼女は、慎重な手つきでマグナエを受け取る。
「わかりました。それじゃあ、ありがたく……女の子と思われたいときにだけ、着けることにします」
「男の子と思われたいときって、あるのか」
「治安の悪い所に行くときとか、誰かと決闘するときとか」
「なるほど……なるほど?」
間の抜けたやり取りをして、二人は思わず吹き出した。二人だけの空間に、しばし明るい声が響き渡った。
ひとしきり笑い転げた後、ルーはマグナエを広げて悩んでいた。どうも着け方がわからないらしかった。気づいたイゼットは、「手伝うよ」と笑って、少女の後ろに回る。
ルーはされるがままになりながらも、む、と唇をとがらせた。
「イゼット……いやに手際がいいですね」
「あっ」若者は、喉が潰れたみたいな声を上げる。一瞬だけ、布を弄る手が止まった。
「これはその――前の職場でさ、女の人の相手をしてるとき、知らないうちに覚えてたんだ。それだけ」
「ええ……いったい、どんな職場ですか?」
「そ、それは、えっと、秘密」
「気になりますよー」
ふざけているのか本気なのかわからない会話は、祈りの刻まで続いたという。