第二章 お互いの秘め事6

「森だね」
「森ですね」
 何の目的も意義もない二人の言葉は、木々の合間へ潜り込むように消えてゆく。乾いてぬるい風が吹き、細い枝とどこかの草を揺らした。ざらざらと、ぶきみな音が響いた。
 村の北側、ひとけのない農道を抜けた先には、確かに森があった。三月ホルダードの新緑のように色づいた葉と、かたそうな幹が寄り集まって、穏やかな暗がりを作りだしている。周囲からひどく浮いたそこを、二人はしばらくながめていた。
「なんだか妙な場所だ」
「ですよね。こんなところに、こんな大きな森があるなんて」
 イゼットの呟きに同意を示したルーが、やにわに歩きだす。確たる目的があるわけでもなく、ぶらついているように見えた。しかし、イゼットはすぐに彼女の目的を悟った。
 小さな連れの姿が、視界から消えてしばらく。右側から、その連れがイゼットを呼んだ。
「ありました、修行場の名前!」
 イゼットはすぐに、声のした方へ向かう。
 まだ、森の入口。農道を脇にそれた場所に、太い木が生えている。その幹になんとなく見覚えのある文字が刻まれていた。イゼットはそれに見いった後、近くにある別のものに気をとられる。
 木よりもずっと小さい、板を使った立札だ。簡素に『この先、立ち入るべからず』と書いてあり、禁止を示す記号が並ぶ。その端には西部州の紋章が焼き付いていた。
「これって」
 イゼットは、われ知らずささやいていた。隣で木の幹をにらんでいたルーが振り返る。彼女もそのときはじめて立札に気づいたのか、目を丸くした。
「なんの看板ですか? 比較的新しいもののようですけど」
「西部州の行政機関が建てたものみたいだ。端の方に、州総督の名前と印が入ってる」
「それって……人が帰ってこなくなってるからでしょうか」
「そうだろうな」
 こたえる声が陰鬱な響きを帯びる。二人は思わず顔を見合わせてしまった。しかし、すぐに我に返った。彼らがただ怖気づいたところで、状況はなにも変わりはしないのだ。
「……とにかく、修行場であることは間違いないです」
「ってことは、とるべき行動はひとつ」
「です」
 うっそうと茂る森に目を向ける。イゼットは小さくため息をついた後、槍の感触を確かめた。
 今回も大いに不安がある。しかし、行くしかなさそうだった。

 森に踏み込んだ瞬間は、なんの変哲もない森だと思った。しかしイゼットは、そしておそらくルーも、すぐに違和感を抱いた。
 違和感の正体を先に言いあてたのは、ルーだ。
「動物が全然いませんね。鳥くらいはいてもよさそうなのに」
 寒そうな顔で、少女はあたりを見回す。イゼットもうなずいたものの、なにを言ってよいかわからなかった。気持ちの悪さが実体を持つと、それは恐怖になって、彼の背中を撫で上げた。――一人だったなら、ここで回れ右をしていたことだろう。だが、クルク族の少女は恐れながらも果敢に前を見すえていた。
「とりあえず、行ってみましょう」
 イゼットは、一瞬の驚きの後にほほ笑みをこぼす。
 このがいるから、得体の知れない恐怖から逃げずにいられる。それは心強いことである一方、少なくない羞恥の念を若者の中に生み出した。
「そうだね。この先しばらくは一本道みたいだし――しゃきしゃき行こう」
「あっ! ずるいですイゼット! 取らないで!」
「あははっ。ごめんごめん」
 頬をふくらます彼女の頭を優しく叩き、今度はイゼットが「行こう」と言う。ルーはすぐにいつもの快活な表情を取り戻して、先頭に立った。
 負けてはいられない。イゼットは思いを噛みしめる。
 しかし彼は知らなかった。前を行くルーが、よく似た感情を瞳の中にきらめかせてることを。

 二人はそれから道なりに進んだ。というのも、横道やけもの道のようなものが見当たらなかったので、そうするしかなかったのである。『石と月光の修行場』と違い、修行の手がかりになるものもない。自身の勘を頼りに歩くしかなくなっていた。
 しかし――やがてイゼットは足を止めた。静かすぎる道の真ん中で、ぐるりとあたりを見回し、顔をしかめる。彼が止まったことに気づき、ルーも立ち止まった。彼女はこてんと頭を傾ける。
「イゼット?」
「――ルー。ここ、おかしくないか」
「へ?」
 ルーが気の抜けた声を上げる。イゼットはあくまでも険しい表情で、「まわり、見てみて」と続けた。ルーは大げさに首を振ってあたりをうかがう。疑問に細められていた目が、だんだんと見開かれた。
「ここ……入口、ですか?」
 とどめに、彼女は後ろを振り返る。イゼットも、あえてそれにならう。畑から生える野菜の葉が遠くに見えた。人の声はしない。人はおろか、鳥獣や――精霊のさざめきさえも、どこか遠い。
「俺たち、三回くらい同じ所をぐるぐる回ったんだと思う」
 弾きだした結論を告げる。それからイゼットは、静かにつけ加えた。
「正確には、同じところを回らされたんだ」
 ルーはぽかんとしていたが、イゼットが黙りこんで少しすると、急にしかつめらしい顔でうなずいた。
「ここにも、目には見えないからくりがあるということですね」
「そういうことだね」
 そうとわかればやることは一つ。「からくり」の元を探るのだ。二人は色々なことを試した。木々の隙間をのぞいたり、脇に生えている草花を触ってみたり、枝を揺らしたり――しかし、何をしても森の奇妙な現象の正体はわからない。
「なにもないな」
 イゼットが木の幹を触りながら呟くと、ルーも目を細めた。
「でも、ここでやめるわけにもいきません。ここを突破することが、『木々と幻想の修行場』の修行かもしれないからです」
「なるほど。『幻想』ってそういう意味――」
 受け答えしようとしたイゼットは、そこでふと口を閉ざす。木の幹を触るのをやめて、道の真ん中まで歩いていった。頭を傾けているルーに「ちょっと待ってね」と告げるなり、その場で目を閉じ、すぐに開いた。
 相変わらず、精霊たちの姿はほとんどない。声も聞こえない。彼らに近づいてみると、この森に奇妙な靄がかかっていることに気づく。ふつうは見ることのできない靄が、森のところどころに広がっているようだ。逆に言うと、靄のない場所もある。
 イゼットは、歩きだした。靄が少しずつ薄らいでいく、その始まりの地点に。背後から足音がする。ルーがついてきているのだと気づきつつ、あえて振り向かなかった。
 そしてイゼットは、一本の木の前に立った。
「どうしたんですか」
 説明がないことに耐えかねたのか、とうとうルーが訊いてきた。イゼットは「うん」と言ったものの、質問に答えなかった。どう説明したものか、わからなかったのだ。
 言葉のかわりに、行動で示す。左手を軽くにぎって、彼は木の幹を叩いた。すると、彼が叩いたところから、水面にできるような波紋が広がる。
「えっ!?」
 叫んだルーが、隣にやってきた。イゼットは少し考えこんでから、彼女を顧みる。
「ルー。妙なことをお願いするようで、申し訳ないんだけど」
「はい」
「この木を蹴ってみてくれないかな」
「はい?」
 ルーは、両目をいっぱいに見開いて固まった。目を点にする、とはこのことだろう。
 少女が困惑していることは、イゼットも重々承知していた。だが、やはりどう説明していいのかわからない。結局、うなりながら軽く頭をかいた。ルーはその様子をふしぎそうに見上げていたが、ややして「わかりました」と言う。
「うーん……なんか、ごめん」
「問題ないです。やってみた方が早いこともありますからね」
 イゼットの前に出たルーは、一度彼を振り返る。
「ちょっと離れててください」
 少女の明るい忠告に、イゼットはすなおに従った。
 イゼットがじゅうぶんに距離をとったことを確認すると、ルーは数歩後ろに下がった。直後、気合いの声とともに右脚を振り上げ、体をひねって脚を木の幹に打ち込んだ。凶器にもなりうる一撃は、空気を裂いて木に直撃する。普通だったら、木がそこから折れているところだ。
 しかし、そうはならなかった。
 パンッ、と乾いた音がする。その次の時、木は蜃気楼のように消えてしまった。
「え、ええ?」
 体勢を立て直したルーが素っ頓狂な声を上げる。しかし、呆けたような表情はすぐ、純粋な驚きに変わった。木が消えた先に、蛇行した道が続いていたからである。
「こ、これがからくりだったんですね……」
「そうみたいだ」
 二人は、新たに見えた道の前に立ちつくす。にわかには信じられなかった。
 だが、彼らを強制的に正気に戻すことが起きた。
 ずっと遠くから音が聞こえる。それは人の声――しかも、まだ幼い男の子の声だ。
 イゼットとルーは顔を見合わせる。その声は記憶に新しかった。
「行こう」
「はい!」
 彼らは一転、気をひきしめると、「幻想」の先へ駆けだした。

 それから少しして、木々の先から蛇行した道を見つめる者がいた。その者は、いびつに口の端を歪めると、自然の闇の中へ消えていった。