第一章 まどろみの終わり3

 町で唯一の医者は、北の岩山をさらに削ったような顔に渋面を刻んだ男だった。よれよれの上着を着ていたが、その端々に 巫覡 シャマン のお守りや道具入れをぶら下げているのを見つけ、イゼットは目をみはる。彼らが医者や薬師を兼ねていることは珍しくないが、イゼットがそういう人に会ったのは久々のことだった。
「よろしくお願いします」
 ひとしきり事情を話して最後にそう頭を下げたが、医者の返事はない。よく見たら多少顎を動かしていた、ような気もする。
「腕は確かだよ。大丈夫」
 イゼットが少し不安になったとき、優しいささやきが左隣から聞こえた。若者の傍らに立っていた宿の主人が耳打ちしてきたのだ。顔を上げるとおちゃめな笑顔が見えて、イゼットはほっとした。ただ、安堵していられたのはこの時までだった。
「症状を聞く限りはただの風邪だと思うが……実際に見ないと断定はできんな」
 道すがらそうこぼしていた医者は、静かな足取りで部屋まで行って、静かに扉を開けた。元の場所で薄い布団にくるまっている少女のそばに行き――姿をのぞきこんだ瞬間、顔色を変えた。
「おい」
 低く発せられた一言は、誰に向けられたものか判然としなかった。顔を見合わせた若者と男性の間に、冷たい刃が差し込まれる。
「クルク族だなんて聞いてないぞ」
 イゼットは放心した。訊き返すことすらしなかった。右肩から頭のてっぺんに、痛みが走る。受け止めきれなかった言葉は、頭の中をただ滑る。吐き気を催すほどの余韻を刻み付けて。
 一方、宿の主人は医者の言葉を繰り返した後、目元を厳しく引き締めた。我に返ったイゼットがものをいう前に、医者の方へと半歩踏み出す。
「悪かった。知らなかったんだよ。けど、彼女は見ての通りの状態だ。診断くらいは――」
「何度も言わせるな。俺は『異人』は診ない」
 吐き捨てるなり、医者は立ち上がる。ルーには一瞥もくれない。先ほどよりも荒々しい足取りで、イゼットたちの横を通り抜けようとする。
「だいたい、知らないってのも嘘だろ。あんたがクルク族の銀細工のことを知らないはずがないんだ」
 部屋を出る寸前、ぞっとするほど低い声でそうささやいた医者は、宿の主人の制止も聞かず去ってゆく。イゼットは立ち尽くしていた。怒りも戸惑いも超越して、呆然とするしかない。よれた上着に不釣り合いな護符の極彩色が、強く目に焼き付いた。

 医者が去った後の宿は、心地の悪い静寂に包まれる。それを打ち払ったのは、男性のため息だった。
「すまないね。子ども相手なら妥協するだろうと思ったんだけど」
「いえ……こちらも最初に話しておくべきでした」
 言いつつも、イゼットの胸のあたりにはまだ不快な感覚が残っている。なにかに似ていると少し考えて、思い出した。実家にいた頃、長兄が母を「阿婆擦れ」と呼んだときの気分と同じなのだった。ただ、あの時、母のセリンはその場にいなかった。
 自分たちが使っている客室をのぞきこむ。ルーは掛布を頭からかぶっていた。少し震えているようにも見える。こみあげるものから目をそらそうとすると、体の方に叱られた。
「アルトヴィンのお医者さんは、彼だけなんですよね」
 うずくまりたいのをこらえてイゼットが恐る恐る尋ねると、男性はうなずいた。
「それに、よそへ行っても対応は変わらない。このあたりでは 巫覡 シャマン が医師を兼任していることが多いのだけれど、ほとんどがクルク族を嫌っているんだ」
 状況の悪さとやるせなさに、イゼットは黙り込んでしまった。
 ただの風邪なら、医者にかからずとも治せる。しかし、万一厄介な病気だったときに対処が遅れたら、命に係わるのだ。診断だけはつけてもらいたいが、そもそも受け入れてもらえないのでは仕様がない。
 万事休すか、と頭を抱えたとき――若者の脳裏に、色あせた記憶がよみがえった。
「あ……そうか、医者……」
 朝日の色の瞳に光がともった。それに気づいたのだろうか、男性の表情も変わる。
「心当たりがあるのかい」
「はい。ただ、その方はギュルズに住んでいるんです」
「ギュルズ、ということはイェルセリアか。きついね」
 男性は乱暴な手つきで頭をかいた。言いたいことはイゼットにもわかる。アルトヴィンからギュルズまではそう遠くない。ただし「遠くない」というのは、健康な人が馬に乗って行くという前提での話だ。
 今のルーには、これまでのような移動はきつい。歩くことすらままならない人間が、馬に乗れるはずがないのだ。とはいえ、『彼』のほかにあてはない。
 イゼットの方こそ頭をかきむしりたくなった。痛いのと悩ましいのと情けないのとで、頭の中がぐちゃぐちゃだ。気が狂いそうだった彼はしかし、宿の主人の一言で我に返る。
「外で少し待っておいてくれるかい」
 いきなり彼がそう言いだした真意はまったくわからない。けれど男性の表情は真剣そのものだ。イゼットは、何が何だかわからないままにうなずいた。
 その後しばらく、イゼットは看板の下で佇んでいた。男性はというと、宿の横手の小屋の中へ入ったきり出てこない。その小屋も男性の所有地だったことは驚きだが、動揺しきった若者の心を静めてくれるような話ではなかった。
 壁にもたれて、さらに待つこと半刻。ようやく男性が小屋から出てきた。両手で大きな荷車を押している。小柄な人間一人くらいなら寝られそうだ。荷車をごろごろ押してきた男性は、それをそのままイゼットへ差し出した。
「持っていくといい。気休めにしかならないだろうけど、布も詰めてみた。君たちの馬は立派だから、これならなんとか引っ張れると思うよ」
「えっ……いいんですか」
「もちろん。もう使わなくなったものだから、用が済んだら売るなり解体するなりしてくれて構わない」
 イゼットは口元を引き結び、男性に向かって深々と頭を下げた。

 部屋に戻ったイゼットは、ルーの様子を見ながらこれからのことをぽつぽつと話した。隣国の町までかなり無茶をして行くことになる。ルーに負担をかけないようにはしたいが、ゼロというわけにはいかない。だからこそ、ルー自身も心の準備ができていた方がいい。そう思ってのことだった。
 ルーは辛そうにしつつも、時々相槌を打った。それだけでも、イゼットはほっとした。
 布団にくるまる少女の様子を気にしつつ、出立の支度を進める。部屋の中はいつになく静かだ。二人でいるのに、一人でいるような気になってくる。
 荷物を一通りあらためて、袋の口を閉めたとき。布団がもぞもぞと動いた。
「あの、イゼット」
「うん? どうしたの」
「……ごめんなさい」
 手を止めた。思わず、ルーの方を見た。布団があるので表情は見えない。けれど、聞こえる声は震えている。
 イゼットは何に対して謝られているのか、すぐにはわからなかった。しかし、医者のことを思い出したとき、頬をはたかれたような気がした。逃げたい、けれど逃げてはいけない。喉を焼く懊悩をおさえこむ。
「いや。俺の方こそ、配慮が足りなかった。ごめん……」
「違うんです。ボクは、あんなの、慣れてます。でも」
 言葉が途切れる。再び紡がれた言葉は、嗚咽まじりだった。
「イゼットは、痛い、でしょう? 今だってがまん、して」
「ルー」
 この にはかなわない。心の端に生まれた思いは、別の強い情念にかき消された。何を言えばいいか、どうしていいのかわからない。気持ちが定まらないまま、布団のそばに体を寄せる。全身の震えを悟らせないよう気をつけながら、布団の上から少女の背中をさすった。
「大丈夫。俺は、大丈夫だから」
「でも」
 ほとんど泣いているような声を上げたルーは、けれど言葉を続けなかった。
 幼い子をあやすように、イゼットは背をさすり続ける。すすり泣く声が少しだけ大きくなって、すぐに小さくなった。