第一章 まどろみの終わり6

「バリス先生、こういうところは本当に変わってませんね」
「でしょ?」
 ため息交じりのベイザの声を聞きながら、イゼットは椅子に引っかかっている上着をつまんだ。何週間前のものかわからない汚れが点々と残り、なかなかの悪臭を放っている。聞くところによると、イゼットたちが目覚める直前くらいにベイザが洗濯をしたが、そのときの洗濯物にこの上着は含まれていなかったそうだ。
「あのバカ兄。洗濯物は戸口に出せって五百回は言ってんのに」
「あ、ははー」
 似たような言葉を数年前に聞いた気がする。イゼットはもはや笑うしかなくなっていた。どこからか発掘された汚れ物をベイザに預け、昨日の日付の頁が開かれっぱなしの患者名簿を一瞥したイゼットは、肩をすくめた。
 バリスに説教を食らった翌日。やはりじっとしていられなかったイゼットは、かつてのように雑用手伝いをしていた。ここの医師は腕がいい代わりに生活力が皆無だと評判で、そのしわ寄せは妹のベイザに行く。人手が一人増えるだけで、彼女は泣くほどありがたがった。
 汚れ物回収を終え、雑用は一段落したようだ。手持無沙汰になったイゼットは、ギュルズの様子でも見てみようかと戸口の方へ足を向ける。しかし、直後に、兄妹のものとは違う足音を聞いた。
「――イゼット!」
「え」
 明るい声。名前を呼ぶ音。
 心の強い揺らぎは、腕に痛みとなって表れる。
 それによる硬直と動揺のせいで固まっていた彼に、突風のような勢いでなにかが飛びついてきた。危うく突き飛ばされかけて、イゼットはたたらを踏む。扉に背中を打つ寸前で踏みとどまった。
 さらさらしたものに触れる。飛びついてきたものを無意識に受け止めていた彼は、黒くて丸い人の頭を見下ろしていた。顔は見えない。彼の胴に、真正面からしがみつかれているせいだ。
「ルー?」
 しがみついている人を呼んでみたが、返事がない。
「……ルシャーティ」
 ぎりぎりまで声を潜めて、本名を呼ぶ。すると、体が小さく震えた。
「ずるいです」
「ん?」
 たっぷり間をあけてそう言われたが、どういう思いから出てきた言葉がそれなのか、ぴんとこなかった。思わず尋ね返すと、しがみつく両腕に力がこもった。
「色々、言ってやろうと思ってたのに。声、聞いたら、ぜんぶ忘れちゃいました」
「ん、んん?」
「お礼言ったり怒ったりしたかったのに、がまんができなかったです」
 言葉と言葉のつながりが見えない。見えないが、少しずつ、何を言いたいのかはわかってきた。
 最初に起きたときイゼットがいなかったせいで動転したと、バリスは言っていた。取り乱して泣きわめくほど、心細い思いをしたのだろう。そういうことをしでかした自覚はある。
 イゼットはルーの頭を見下ろしたまま、深呼吸した。小さな体を受け止めていた手を外して、その手でそっと背中をなでた。抱きしめた。
「心配かけたね。本当、ごめん」
「先に謝るなんてずるいです」
「えー、じゃあどうすればいいのか」
 ここでも何かよくわからない非難を受けて、イゼットはとうとう肩を落とす。そのときルーが、初めて顔を上げた。だから、朝日の色の瞳と、大地の色の瞳が互いをはっきり映し出した。
「ボクも迷惑かけて、ごめんなさい。ここに連れてきてくれて、ありがとうございます」
「……うん。ルーが元気になってよかった」
「ボクも、イゼットに会えて安心しました」
 二人はようやく相好を崩した。何がおかしいのかよく知らないまま、声を上げて笑った。ルーが、また、しがみついてくる。
「だから、もうちょっとこのままでいていいですか。安心を補給したいです」
「さすがに意味がわからない」
 言いつつも、拒みはしない。ただ居心地は悪いので、無意味に黒髪をなでてみた。
 相方に会えて安心しきった二人は、周囲に甘ったるい空気を振りまいていることを一切自覚していなかった。後からやってきた人の眠たげな声が、それを突きつけた。
「あー、二人とも。そこから先はひとけのない場所でやってほしいかな。少なくともおじさんにはまぶしすぎてね。困るね」
 淡々と苦情を申し立てた人の姿を見つけ、少し顔を赤くしたのは、イゼットの方だった。
「バリス先生!」
「や。うらやましいよイゼット。僕なんてこの年で嫁さんいないからね」
「なんの話をしているんでしょうか」
「隣にいるのは姦しい妹一人」
 それは事実なので何とも言えない。イゼットが首をかしげながら、ルーを抱きかかえて少し移動した直後、扉が開いた。
「おや、いいものを見た」
 入ってきたベイザまで、からかうようにイゼットを見た。そこで顔を上げたルーには、いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。
「よかったね、ルーちゃん。外出許可が出たか」
「はい。ありがとうございます! えっと」
 ルーが首をひねると、ベイザは胸の前で両手を叩いた。
「ああ、自己紹介がまだだった。あたしはベイザ。そっちの 医師 ドクトル バリスの妹だよ」
 名乗られたからか、ルーも少し改まった様子で名乗った後、きらきらした目でベイザを見上げた。
「ベイザさん! 先生の妹さんだったんですね!」
「そーなのよ。嘆かわしいことに」
「一言多くなかったか、今」
 兄の小さな抗議は、華やかな声にかき消される。イゼットが見ると、バリスは、両手をあげてかぶりを振った。

 イゼットとルーの二人がそろったので、改めてこれまでの経緯を説明することにした。診療所の扉には、『本日、休診日です。急患は東口より』と書かれた看板が揺れている。
 いつもの席であらかた事情を説明したイゼットは、深々と息を吐く。隣で、ルーが居心地悪そうに背筋を伸ばしている。
 対面のバリスはいつもどおりに見えるが、目つきはいつもの倍以上真剣だ。兄の後ろで動き回っているベイザも、時折こちらに視線を送っている。
「なるほど。厄介だったね。僕とイゼットが知り合いだったのは、不幸中の幸いということか」
「ということだと、思うのです」
 ギュルズ唯一の医者は、しかめっ面で腕を組んだ。
「確かにこの辺の医者――というか 巫覡 シャマン は、クルク族や西洋人をはじめとする外の地域の人間を『異人』と呼んで嫌ってる。過去にも、そうやって拒まれた人たちが僕を頼ってきたことがあった」
「そうだったんですか」
 イゼットが素っ頓狂な声を上げると、バリスはうなずいた。さらに、ベイザが兄の後ろから顔を出す。
「兄さんのことを知らないまま苦しんで……亡くなった人もかなりの数いると思う」
「だろうね。こんな在野の医者なんて、知ってる人の方が少ない」
 冷酷ともいえる口調で肯定した医者はしかし、苦り切った顔をしていた。イゼットとルーは、思わず互いを見合う。自分たちがどれだけ危なかったか実感すると、重いものが後ろからのしかかってくる感じがした。
 頭を抱えたイゼットの横で、今度はルーがため息をつく。
「でも、どうして、イゼットとバリス先生は知り合いだったんですか……」
「聞いてないかな。彼の『体質』について、研究と診療を行っていたことがあるんだ。っていうか今も絶賛研究中」
 隣で椅子が激しい音を立て、イゼットは思わずそちらを振り向く。ルーが、居眠りから覚めたような表情でこちらを見ていた。
「も、もしかして、『最初に診てくれた』お医者さん?」
「あ、うん。そうだよ。そこまで驚かれるとは思わなかった」
「驚きました。でも、納得です」
「そりゃあよかった」
 うんうんと首を振っている少女に、バリスが笑いかける。そこは話していたのかと、ぼさぼさの髪をかきながらぼやいていた。だらしなくも見えた医者の顔は、ひと時で怖いほど真剣になる。
「で、気になるのが、さっきのイゼットの話」
「目の前がずっと明るかったっていう、あれだね」
 兄妹に確認されて、イゼットは顔をしかめる。眼の痛みが今にもよみがえってきそうだ。あるいは、今感じている疼きも現実のものなのかもしれない。
「それが明け方まで続いちゃ、きつかったろう。夜に明るいところで寝ようとしてもきちんと眠れないものだし」
「まぶしいのと痛いのとで一睡もできませんでしたよ」
「寝ようとした努力は認めようか」
 手元の紙の切れ端に書付をとっているバリスは、それを逐一確かめながらうなずいた。彼の文字は流れるような走り書きであることがほとんどで、一見しただけでは何語かもはっきりしない。それを再び上から下までなぞった彼は、お手上げとばかりに頬杖をついた。
「いや、しかし。これ病気でも怪我でもないよね。どう考えても僕の専門外だよね」
「兄さんがそれ言ったらおしまいじゃないか」
「最初からわかってはいるんだよ。だけど、こんなものにまともに向き合える医者なんて、それこそ僕しかいないだろう」
 病気でも怪我でもない、だから便宜上『体質』と呼んでいる、感情を起因とする痛みとその他の現象――兄妹とイゼットを結び付けたものは、六年近く経つ今でも治療の手がかりが見えない。イゼットが訪ねた他の医者は早々に匙を投げた。それに比べれば、バリスは粘り強い方だ。彼の言葉どおりなのである。
「話を聞く限り、精霊に関わるなにか、って線が強いよね。そっちはイゼットの方が詳しそうだけど」
「俺も色々考えてはみていますよ。考えるほどわからなくなりますね」
「うーん。ほかの 巫覡 シャマン を頼るか? いやでも、このあたりの奴らとは関わりたくないんだよねえ、やっぱ」
 あれこれと言葉を交わす二人の横で、ルーは今にも爆発しそうなしかめっ面をしている。ベイザはため息をついて「メフルザードみたいなこと言って」とぼやいた。彼女が思い立ったように目を見開いたのは、そのすぐ後だ。
「そういえばあんた、光ってるときになにか見えたって言ってたよね。何が見えたの」
 彼女が尋ねたのは、あの夜イゼットが見た影のことだ。なんの気なしに答えようとしたイゼットは、少女の存在を思い出すと、言葉を息に変えてのみこむ。黙りこんだ彼を不審に思ったのか、ほかの三人がそろって首を傾げた。
 瞑目し、膝の上の手を拳に変えて。彼は慎重に吐き出した。
「すみません、それについては……少し待ってもらっていいですか」
 三人ともが、さらに怪訝そうな顔をする。間もなく彼を見、そしてルーを見やったバリスだけが、なにかに気づいて呟いた。
「そういうことか。ま、簡単な話ではないものね」
「どういう意味? 兄さん」
 横から頭を突き出したベイザの額を、 医師 ドクトル は布ごしに小突く。
「おまえならすぐわかると思うよ」
「だからどういうことよ」
 眉間にしわを寄せる妹を放って、彼はイゼットに向き直る。その微笑はやはりどこか間の抜けたもので――
「わかったよ。僕もそこは急かさない。ただ、この町にいるうちに教えてほしい。――聖都に行く前に、ね」
 けれど、落とされた言葉には、隠しきれない重みが潜んでいる。
 イゼットは、静かに肯った。