第二章 紅の誓い7

 一陣の風が炎をからかう。火の粉が飛ぶ。そして、黒っぽい布を跳ね上げる。その人物は、自分の顔を覆っていたものが外れたことに何の感慨も抱いていないようだった。細い目と、ぎょろりとした眼球は子どもたちだけに向けられていて、口もとを彩るいびつな笑みは少しも崩れない。
 自分たちより明らかに年上だが年齢のわからない男。突如として騎士見習いの首をはね、目の前に現れた人間を、イゼットはずっと下からにらみつけている。しかし男は、彼など眼中にもないかのように、踊るような身振りをした。
「すでに継承が終わっていたのは予想外だったな。おかげでだいぶん手こずった。だが、その苦労も今日、この夜までだ」
 独白のように言ってから、けらけらと笑う。見せつけるように動いた眼が、初めてまともに子どもたちを見た。とりわけ、将来聖女となるであろう幼い少女を。 イゼットは相手がなにかを言うより先に、彼女の前に立った。槍を構えた少年を、男は妙に熱のこもった瞳で見下ろす。
「おっと、やる気満々だな。従士の少年」
「彼女は渡さない」
「それは困った。将来有望な者を死なせたくないが、仕事もしなくてはいけないからなあ」
 両手を掲げ、芝居がかった身振りをしてみせる男。その両目に鋭い光が走ったのを、イゼットは見て取った。負ける者か、とにらみ返す。
 どういうわけかこの男は、聖教の機密の一部を知っている。彼を捕まえてそれを吐かせるのも騎士の仕事だろうが、今は不可能だとイゼットは判断した。戦える人間はイゼット一人。後ろにはアイセルがいる。ならば 従士 かれ のやるべきことは、ひとつ。
 落ち着け。そして吠えろ。言い聞かせて、槍を軽く引く。駆け出す前の半歩。それを男は見逃してくれなかった。
 闇と炎のただ中で、白い光がぶつかり合う。殺伐とした場に似合わぬ金属音が静寂を割った。男がいつの間にか手にしていたのは、短剣よりやや幅広で長い小剣。従士候補の槍を見つめたまま右手の得物を弄んだ男は、危険な笑みをひらめかせた。
 火が騒ぐ。遠くにのぞめる鐘楼の影が、ふいに大きく傾いた。火の明かりに照らされ、夜空を背にして、鐘楼は落ちてゆく。視界の端に崩壊の光景を見出しつつも、イゼットは謎の男から目を離さなかった。
 互いにほどんど動かぬまま、白刃がぶつかり合う。イゼットは愛用の槍を突き、時には引き、あるときは回転させて盾に使う。軽やかな動きで敵の反撃を封じつつ、その懐に飛び込む機会をうかがっていた。
 立ち回りのさなか、男の目が少年の背後を見やった。彼はその動きを見逃さなかった。男が踏み込む直前に身を反転させて小さな主人の前に立つ。縦に掲げた槍の柄を小剣の刃がかすった。かろうじて主人を守ったイゼットは、顔を上げる。白く小さな光を見つける。敵の両腕が高く掲げられ、武器の切っ先が少年の額をとらえていた。子どもと思えぬ冷徹さをもって、彼は光を見つめ返す。日の色が、炎に縁取られて鮮やかにきらめいた。
 光が動く。轟音が響く。瞬間、イゼットは槍を半回転させた。風がうなりを上げる。それほどの勢いをもって跳ね上げられた石突が、男の右手首を直撃した。悲鳴は上がらない。小剣が手から落ちる。けたたましい金属音が、爆ぜる火の音を打ち消した。相手が動くより先に、イゼットは再び槍を反転させ、突いた。喉元を貫く前に、穂先が止まる。
「動くな」
 鋭い一声を受け、どこかへ動こうとしていた左手が止まった。
 再びの沈黙。荒くなる呼吸をなだめながら、イゼットは目を細めた。
 空気が揺れる。追い詰められているはずの男が、喉を鳴らして笑っている。余裕を通り越して愉悦の気配を感じる声を、彼は嘆息とともに吐き出した。
「これは……ますます殺すのが惜しくなったなあ。ああ、ああ。あと三、四年もすれば素晴らしい戦士になれただろうに」
 高揚に震える声が、イゼットの背筋を寒くさせる。
 これでは、足りない。
 直感した少年は、つかの間の優勢を捨ててその場から飛びのいた。直後、彼がいた場所に、黄色く光るなにかが落とされた。実体のつかめぬそれは、地に落ちるなり昼間の太陽さながらに輝き、次いで爆音と熱をまき散らす。熱風を全身で受けながら踏みとどまったイゼットは、小さな悲鳴を頼りに主人の位置を把握して、足をずらした。
「子ども相手に、何をてこずっている」
 爆発のむこうから聞きなれない声がした。夜風のような鋭さをまとった女の声。強い光が消え失せた先に、声の主はいた。男と同じような衣をまとっていて、顔は見えない。ただ視線は男の方を向いている。
「それとも、遊んでいたのか。この馬鹿が」
「そう言うな。次代の従士はなかなか素質があるぞ」
「やはり遊んでいたのではないか」
 声色から呆れがにじみだす。表面上愉快に思えるやり取りをイゼットはしかめっ面のまま聞いていた。聞きながら、半歩ずつ後ろに下がり、少しずつアイセルに近づいてゆく。
 女が無造作に手を動かした。イゼットはとっさに槍の先を跳ねさせる。澄んだ音が響いて、奇妙に光る短剣が宙へ弾き飛ばされた。あっさりと自分の横に落とされたそれを女は冷たく見下ろす。それから、初めてまともにイゼットの方を見た。もっとも、顔は隠れたままだ。
「確かに身のこなしと武器の扱いはなかなかだ。が、しょせんは温室育ちの小僧だな。他人の腕の一本も切り落としたことのない者が聖女の警護など……笑えもせぬ」
 イゼットは息をのんだ。女のささやきには殺意さえ感じられるが、彼の本能がすくい上げたのはそれではなかった。目に見える誰とも違う息遣い。腕を組む女の背後に、いくつもの気配がうごめいている。その数、十ほど。把握できていないだけで、もっといるかもしれない。夜と騒乱にまぎれた人々は、黙している。動くべき時を待っているように思われた。
 広がる炎熱。凍てつく空気。はざまで膨れる殺気に気づかぬほど、少年は鈍感ではなかった。
 また、半歩下がる。すぐ後ろにいる少女へ、ささやきかけた。
「アイセル様」
 応答はない。それでよい。
「北門の方へ逃げます。よろしいですか」
「……ええ」
 ごく小さな声での肯定。受け取ったイゼットは、左手でアイセルの腕を取る。いまだ消える気配のない炎が、夜を圧迫した――そのとき、彼らは身をひるがえした。怒号を背に受けながら、走る。瞬く光が二人を追いかけ、飛び散った火が足元を照らす。皮肉にも、それが今は二人の行く先を照らす唯一の灯火だった。
「このままもう一つの抜け道へ行きます。あちらにどれほどの人が集まっているかはわかりませんが……」
「それがいいと思うわ。あの場所に彼らがいたということは――西側と正門の方はかえって危険よ」
 アイセルの言葉に、イゼットはうなずく。
 突然現れた大人たちは、十中八九「賊」だ。あの調子でほかの騎士たちが殺されている可能性を考えると、増援も期待できない。となれば、とれる手段は限られてきた。
 イゼットは主人とともに残された道へと駆ける。そのさなか、未だ出会えぬ仲間たちの無事を祈らずにはいられなかった。

 北へと走る少年少女。それを追う男の目に、怒りや動揺は一切ない。むしろ、どこか楽しげでもあった。
「いいねえ。うちに欲しいくらいだ」
「ほざいている場合か」
 対照的に、いらだっている女は、自分の背後を顧みた。そこで無愛想に黙りこくっている仲間たちに指令を飛ばす。
「追え。必要とあらばあれも使え」
「いいのか? 間違えて標的に当たったら――」
「構わぬ」
 女は即座に仲間の言葉をさえぎった。融通の利かない者の尻を叩いているような気分だ。
「最悪、目的の物さえ手に入ればよいのだ。妙な遠慮はするな」
 静かな言葉。それを聞いているのは陰鬱な空気を漂わす者たちばかり。北へ向かった二人の子どもは、このやり取りをついぞ知らぬままであった。