第三章 聖教の影8

 宿の前を走る通りは民家が多いせいなのか、立ち並ぶ建物はどれもきれいな箱型をしている。見ようによってはおもちゃのようにも見えた。人々が行き交う路地は狭く、体を少しひねらないと進めないほどだ。それでも頭上を舞う声は明るく、聞いているだけでもすっと背筋が伸びた。イゼットは、またはつらつとした呼び声を耳に入れつつ握りしめている白い手の感触を確かめる。身体能力が高いルーは、多少人混みにのまれても平気だろうが、ついつい気にかけてしまうのだった。
「わあ! あれ、なんですかねー!」
 当のルーはというと、なにかおもしろいものを見つけたらしい。背伸びして目を輝かせている。強い香りを漂わせている男性を軽くかわした後、イゼットは彼女を顧みた。
「何を見つけたの、ルー?」
「遠くの方に塔がいくつか見えたんですよ。なんですかね?」
「あー……もしかしたら要塞かなあ」
「要塞!?」
 ルーが好奇心にちらっと光る目をしながらも頬を震わせる。興味はあるが近づくのは怖い、というところだろう。感情を表に出している彼女を見下ろし、若者はほほ笑む。
「今、イェルセリアはどことも戦争してないから、どちらかというと盗賊や暴徒への備えに使われてるんじゃないかな。住民が立てこもったり、それから襲ってきた相手に反撃したり」
「へ、へええ……あんま入りたくないですね……」
「一応言っておくと、中に投石機はないからね」
 軽く頭を押さえている少女にそう言葉をかける。彼女はそれでも口を尖らせたままだった。そのやり取りがどことなく懐かしくて、イゼットは口もとをほころばせた。
 二人が今ここにいるのは、イゼットが昨夜「たまには観光でもしない?」と提案したからだ。この状況下での突然の提案にルーは驚いたような顔をしていたが、すぐに明るい笑顔を見せて「いいですね!」と応じた。――イゼットの提案の裏側を感じ取ったのかもしれない。それでも、変わらぬ表情を見せてくれたことに安堵した。
 そんなわけで、二人はハヤルたちと出会った次の日、町の中へと繰り出したのである。
 どこかで囃し立てるような声が湧いた。嫌な感じはしない。どちらかというと、誰かを言祝ぐ雰囲気だ。ぱっ、と散った花びらがそよ風に乗って飛んできて、イゼットの髪の毛の先に引っかかる。それを見つけたルーが笑い声を上げ、それで花びらに気づいたイゼットも淡い笑みを浮かべた。
 イゼットとルーは狭苦しい通りから抜け出した後、ほっと息を吐いた。二人が同時に似たような動作をしたことがまたおかしくなって、笑声を立てる。ひとしきりじゃれあった後、イゼットはようやくあたりを見回す。民家の多い通りを少し過ぎて、食堂や土産物の店が並ぶ区域に来たらしい。
「そろそろご飯食べようか」
「はい! お腹ぺこぺこです!」
 ぐしゃぐしゃになった黒髪を手でなでているルーは元気に答える。高い声が高い空にカーンと響いた。
 少し歩くと、人がばらばらと出入りしている食堂を見つける。看板を見る限り有名な店ではないが、日光が薄く差し込む店内から漂う香りに誘われて、ここで食事をすることにした。
「ハヤルさんたち、まだ町にいらっしゃるんですかね?」
 運ばれてきた料理をきらきらした表情で見ていたルーが、思い出したように呟く。イゼットは手元のパンから目を離した。
「いるんじゃないかな。騎士団が使ってる宿屋の方がちょっと騒がしかったから」
「え、そうだったんですか? 気づかなかったです」
「ルーは要塞のこと考えてたからかも……」
 ルーはぱちぱち目を瞬いた後、パンを手にしてかじりついた。パリパリと気持ちのいい音が響き渡る。イゼットもそれ以上は言わず、自分のパンを少しずつ食べていく。
「聖都でまた関わると思うよ」
「そうですね! ハヤルさん、いい人だからまたお会いしたいです」
 いきいきと答えたルーを見つめて、イゼットはおや、と首をかしげる。昨日会ってほんの少し話しただけのわりに、明るい反応が返ってきて驚いた。だが、彼が疑問を呈する前にルーの方から問いが返ってくる。
「イゼットは今日ハヤルさんと会っておかなくていいんですか?」
「え?」
 パプリカの 肉詰め ドルマ に手を伸ばしかけていたイゼットは、その手を止めて少し考えた。自然と、ほろ苦さが沸き起こってくる。
「うーん……まあいいかな。それこそ、聖都に着いたらまた会うし」
――それに、会ったら会ったで何を話したらいいのかわからなくなりそうだ。昨日の、少しひきつったハヤルの笑顔を思い出す。自然とその先へ伸びていきそうな思考を打ち切って、イゼットは口を開いた。
「そういえば、ルー。ここから聖都までの間に修行場はないんだよね」
 ルーは軽く首をかしげ、パンの最後のひとかけらを食べた後、うなずく。
「そうですね。次の修行場は北部の山道――『雲と雷の修行場』です」
「また怖そうな名前だな……」
「でも、今回はイゼットの用事優先になっちゃうので、イゼットとの修行場巡りは前の修行場で最後でしたね」
 寂しそうな呟きが落ちる。若者はそこで、小さく息をのんだ。ルーは気づいているのかいないのか、いつもと変わらぬ態度で「ありがとうございます」と、言葉とともに礼を取る。
「イゼットのおかげでここまで来られたし、これからも頑張れそうです。ほんとに、ありがとうございます」
「いや――」
 イゼットは短く息を吸って、正面を見すえた。クルク族の少女は出会った頃よりも凛とした空気をまとっている。自分は彼女にどう映っているだろうか、とつかのま考えた。そしてそれを打ち消してほほ笑む。
「無理は、しないようにね」
こちらこそ、君のおかげで覚悟ができた――そう形になりかけた言葉を、喉の奥に押し込んで。

 空に暗黒の翼が広がりはじめた頃、イゼットとルーのもとに、宿屋の主人が顔を出した。珍しいことに顔を見合わせている彼らに、宿屋の主人はむっつりと「お客さんだ」とだけ伝えて引っ込んでいった。二人ほどの人物の顔を思い浮かべながらも、一度外へ出ることにする。
 宿屋正面の扉を開けると、夕闇が柔らかく眼前の世界を覆った。空は濃い青と赤が入り混じっていて、周囲の静寂とも相まって幽玄さを醸している。
 暗がりの中、建物の外壁のそばにその人物は立っていた。もとより直立不動の姿勢をとっていた彼は、イゼットとルーの姿に気づくとさらに背筋を伸ばした。
「夜分遅くに失礼しました、イゼットさん、ルーさん」
「ユタさん!」
 二人の、名を呼ぶ声が揃う。青年は少し驚いたようで、目をみはった。しかし、すぐに真顔に戻る。軽く咳ばらいをした彼にイゼットは「どうなさったんですか」と尋ねた。
「イゼットさんが聖都に向かうまでの、大まかな日程を確認させていただきたいのです」
「日程……? また、どうして」
「隊長からお願いされまして」
 ユタはあくまでも大まじめに続けた。噂が広まることを避けるためか、今の彼は白の上下に緑色の帯を締めて庶民らしい外衣を羽織っているが、たたずまいから騎士然とした雰囲気がにじみ出ている。
「イゼットさんと行動をそろえたいのです。我々でできることは限られていますが、できる限りイゼットさんの助けになりたいと――それが隊長のお考えです」
「そう、ですか……。ハヤルが……」
 イゼットは、よろめきそうになりながらも言葉を返す。聖院時代の記憶と、昨日の彼の表情が重なった。
 あふれ出てくるものをかみしめつつ、目を閉じる。少しずつ顔を出した痛みを呼吸とともになだめ、瞼を上げる。意外そうな表情のユタを見返した。
「――わざわざありがとうございます。ハヤルにも伝えてください」
「……はい」
「後――『あんまり無茶をするな』とも」
 ただでさえ丸っこい瞳がさらに丸くなる。ユタが言葉を返せないでいる間に、ルーが横で背伸びした。
「やっぱり、ハヤルさんはとってもいい人ですね!」
「そうだね……お人よしすぎて、ちょっと心配になる」
 頬を染めているルーの頭を撫でて、イゼットも表情を和らげる。すると、ルーはどういうわけか剣呑に目を細めた。
「それ、イゼットが言いますか?」
「え? どういうこと?」
「え? 自覚ないんですか?」
 お互いに言葉を投げあった後、二人は首をかしげあう。イゼットは、鏡を相手にしているみたいだとぼんやり思った。
 たわいもない思考を打ち消したのは、二人のものではない笑い声だ。顔を戻す。ユタが口元を左手で押さえて、笑っていた。そうしていると、幼ささえ感じられる青年は、二人の視線に気づくと慌てたように笑いをひっこめた。ただ、抑えきれてはおらず、頬がひきつっている。
「す、すみません……」
「いえいえ。気にしなくていいですよ」
「でも、色々とわかりました」
「ええ? どういうことですか」
 ユタにまで含みのあることを言われ、イゼットはなんだか釈然としない気分で肩をすくめる。ただ、青年はかぶりを振り、それ以上この話をしなかった。しかたがないのでイゼットたちも話を軌道修正した。
「じゃあ、大まかな日程だけ伝えますね。そんなしっかり決めてるわけではないんですが……」
「お願いします。あ、それと――」
 しかつめらしくうなずいたユタはしかし、次の時、ほろ苦い微笑を浮かべた。
「敬語はなしでお願いします。私の方が位は下ですし……隊長のご友人に畏まられるのも落ち着かないので」

「――そうか、わざわざありがとうな」
「いえ」
 気遣うような副官の声を聞き、ハヤルは強くうなずいた。それから、指先にとまっている銀色の鳥に短く言葉をささやく。鳥は身震いした後、紺碧の空へ羽ばたいた。光はすぐに薄らいで、鳥は空に埋没する。
巫覡 シャマン ってすげえよなあ。あんなものを作っちまうなんて」
「そうですね……それゆえに、厄介なことも多いですが」
 ユタはふっとため息をついた。
 きまじめな副官は、最低限のやり取りを終えるとさっさと戻ってしまうことが多い。しかし、この日は違った。
「猊下がイゼットさんのことをお知りになったら、どう思われるでしょうか」
 じっと夜空を見つめていたハヤルは、彼の声が続いたことに軽くない驚きを覚えて振り返る。ユタは、この上なく真剣な表情であった。明かりを背にしているからなのか、瞳が光っているようにも見える。
「……どうだろうな。本来ならお喜びになるだろうが、今は状況が状況だ。それに、イゼット自身のこともある」
「月輪の石の件ですね」
「ああ」
 短く息を吐いたハヤルは、再び鳥が去った方を見上げる。その影はもうどこにもなく、空にはただ星が瞬いていた。
「……すぐには知らせない方がいいだろう。万一、猊下に反発する連中に知られたら厄介だ」
「では、今の鳥は――」
「ファル……ファルシードのところに飛ばしたんだよ」
 口の端がゆっくりと持ち上がる。不安と高揚のはざまで心が揺れる。
「あとは、俺たちにできることをやるだけだ」
 副官に向けて放った言葉。それは、自分に言い聞かせるためのものでもあった。