ぱきり、といった。
石のどこかが、鳴いたのだ。
イゼットはつかのま天井を振り仰ぐ。なんの変化もないと知って、すぐに顔を戻した。膝の上で両手を組んで、指に力を籠める。意識してそうしていないと、思考がどこか遠くへ飛んでいってしまいそうだった。
拘留場という名の牢屋は狭い。が、なにもかもに不便を感じるほどではなかった。掃除はされている。寝床も用意されている。食事はきちんと摂らせてもらえる。各部屋にわずかばかりの明かりが置かれる。見張りの騎士たちも腰が低い。ここに来るのはただの犯罪者ではないため、拘留場の住人に対して最低限の配慮はされているのだった。限界まで気を引き締めていたイゼットが、拍子抜けするくらいには。
それに彼は、『会議』の後にこうなることを予想していた。だから揺らがないつもりでいたのだ。待つべきときは待つ。受けるべきものは受ける。それが自分のためであり、アイセルのためでもあるから。そう思っていた。
だが、その心構えは、たった一つの訃報によりかき消された。
心構えを保とうにも、その心が動かない。頭の中を巡る言葉は、形をなす前に消えてしまう。気を抜けば、暗闇に沈んだ瞳は、明かりをながめたまま、茫洋として止まってしまうのだ。
妙な心地だった。夢を見ているような、あるいは今までの日々が幻想だったかのような。夢現の境目は不安定に揺らぎ、彼をまた迷わせる。
牢屋には窓がない。時刻を知らせるものもない。今がいつかを知ることができるのは、決まった時間に運ばれてくる食事だけだ。外の世界の移ろいを見ることなく、単調に過ぎる時。それはどこか、聖院での日々を思わせた。
色彩のない平穏。それが唐突に打ち破られたのは、食事が下げられてからかなり経ったときだった。にわかに牢屋の外が騒がしくなる。無意識に瞼を下ろしていたイゼットは、そっと目を開け、耳を澄ませた。
足音と怒号。侵入者、という言葉と数や状況を尋ねる声が交差する。イゼットは久方ぶりに目を見開き、上半身を乗り出した。
侵入者という単語は、否が応でも六年前の悲劇を連想させる。イゼットだけでなく見張りの騎士たちも同じはずだ。騎士たちの声には焦りと怒りと、一抹の不安が混ざっていた。
緊急事態を知らせる鐘の音が、分厚い壁を抜けてかすかに聞こえた。イゼットは息を殺して、しばらくぶりに腰を浮かせた。似た姿勢を保っていた下半身は軋んだが、それに構っている余裕はない。
ややして、騎士たちの足音が遠ざかって静かになった。そう――奇妙なほど、静まり返った。今、この拘留場にはおそらくイゼットしかいない。彼はそのおかしさに気づいて目を細めた。
「おい」
幼い、しかし偉そうな声が響いたのはそのときだ。
イゼットは、一瞬の動揺を押し隠して振り向く。限りなく黒に近い茶色の瞳を見出して、息をのんだ。
牢屋の壁の上部には一か所、通風孔がある。格子状のふたがきっちりと閉められているそこが今は雑に開かれて、孔から小柄な少年が顔を出していた。黒い髪、褐色の肌に高い鼻。そして、見たことのない動物の模様がほどこされた緑色の上着と、ぶかぶかの
筒袴
を身にまとっている。口と目をむっつりと引き締める少年をイゼットは知っていた。
「アンダ君!? な、なにして……」
クルク族・ガネーシュ
氏族
の小さな戦士アンダレーダは、通風孔から体をひねり出しながら、ぼそりと呟いた。
「侵入者」
「は?」
「あんたも聞いただろ。侵入者。デミルとおれだ」
唖然とした。アンダだけでなく、戦争屋のデミルまでいると来たら、なおさらだ。イゼットは再会の挨拶もそこそこに、少年を見つめる。
「ええと、なぜに聖教本部に侵入してるの? 君がここにいるってことは、まさか俺絡み?」
アンダはすぐには答えなかった。壁に張り付いたまま体を反転させ、通風孔のふたを少し動かした後に、ようやくうなずく。
「ルシャーティからの依頼だ」
今度、イゼットは言葉も出なかった。しばらくぶりに聞くルーの本名を噛みしめて、押し黙る。
――そうだ。彼女は、そういう人だった。
「今はデミルと一緒になって暴れてるはず。面が割れてるけど、デミルの背後に隠れてやればなんとかなるだろう、とかなんとか」
もはや相槌も打てない。ここの壁が厚いせいで外がどうなっているか知るすべはないが、不安と愉快さが奇妙にも混在して、胸のあたりがむずがゆくなった。
少年が、壁をつたい下りて、危なげなく着地する。
「おれはあんたに確認をとりにきた」
「確認?」
「そう。ルシャーティが言っていた。最後にはあんたの意志を優先したいと。だから選ばせてやる」
尊大なペルグ語で言い放ったアンダは、右の人差し指を立ててイゼットに突きつけた。
「じじいどもの言うことをきいて犯罪者になるか、ここを逃げ出して犯罪者になるか」
アンダの声は、淡々としているが、力強い。
「あんたはどっちがいい」
明かりが揺れる。ちりちりと、燃える音が二人の間で弾けた。
イゼットは拳をにぎる。皮膚の冷たさとわずかな痛みは、彼を現実にとどめはしても、最適解を与えてはくれない。
小さな灯が、わずかに背伸びをして、元に戻る。アンダが息を吸った。
「言っておくけど」
幼い声が、壁と天井に跳ね返る。
「聖女の従士としてとか、常識的にどうかとか、そんな話はいらない。『あんたは』どうしたいのか、それだけを言え」
イゼットは、はっとしてアンダを見つめた。心臓がつかのま縮み、汗がぶわりと吹き出した。少年の表情は変わらない。対照的に、若者の心はいまだ揺らいでいた。
いらない、と言われても、どうしても考えてしまう。アイセルの存在と、従士としての自覚。言ってしまえばそれこそが、今までの原動力だったのだ。
自分がここを逃げ出せば、アイセルの立場はどうなるのか。今度こそ彼女は、従士のいない聖女として茨の道を歩まなければならなくなるかもしれぬ。ハヤルやファルシードにも、迷惑がかかるだろう。軽率な行動を従士たる自分がとってよいものか――
――落ち着け、そうじゃない。
イゼットは激しく首を振る。
先ほど、アンダはなんと言った。聖女も従士も立場もいらない。そう言われなかったか。
わかっていても、渦巻く思考は止まらない。何が最善か、何が正しいのか。
「違う」
どうでもいい。
そんなものは全部、どうでもいいのだ。
自分が望むこと。自分がしたいこと。それはすべて、見えている。ならば、それだけを見つめればいい。
「俺は……」
惑わされるな。もっと深くに手を伸ばせ。
「俺は、このまま終わりにしたくない。何が起きたのか、ちゃんと知りたい」
自分を見ろ。今まで目を背けてきたものを。
「それに、ルーの修行もちゃんと見届けたいんだ。まだ危ない修行場があるらしいし。この『体質』の原因を突き止めないと、バリス先生も安心できないだろうし。
師匠にも、ちゃんとお礼を言ってない。……ああ、アイシャとも約束したもんな、アハルにまた行くって」
アンダは口を挟まない。むすっとしている彼の目の奥にはしかし、ほのかな驚きとぬくもりがあった。――それはあるいは、イゼットが錯覚しているだけだろうか。
うつむく。さらに拳をにぎる。唇が震える。涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
「会いたい」
ほとんど無意識に、声がこぼれた。今度はそれをちゃんと拾って噛みしめる。
「みんなに……ルーに、また会いたい。だから」
顔を上げる。クルク族の少年と目が合った。
「だから、俺はここを出る方を選ぶ。アンダレーダ、君に手伝ってほしい」
「……わかった」
アンダは、ほんのちょっと笑って応じた。今度こそ、確かに。
小さな手が差し出される。イゼットはその手をしかと取った。アンダはすぐさま身をひるがえし、再び石壁に手をついた。見上げながら、口を開く。
「イゼットは、壁上れるか」
「ここなら凹凸があるから、なんとか……君やルーほどするするとはいけないけど」
「十分。デミルがそんな感じだから」
言いながら、アンダは通風孔の方へ上っていく。きぃきぃと高い音を立てるふたを少し動かすと、片手で衣を探って紫色の帯を取り出し、それをイゼットの方へたらした。礼を言って帯をにぎったイゼットは、石壁の段差に足をかけて、慎重によじ登った。生ぬるい風が髪を撫で上げ、頬をくすぐる。
「じゃ、行くぞ」
不愛想な少年の声がけに、若者は無言でうなずいた。