第四章 崩壊の先へ15

 夜の大地に深い影を落とす岩は、身をひそめるには絶好の場所である。音と気を消すことに長けた四人は、その陰に隠れて騎士たちの様子をうかがうことにした。複数の足音と話し声が、流れてくる。夜目が利くクルク族二人が、顔を少しだけ道の側に出した。ややして二人を振り返った少年少女の表情は、たいへんに険しい。アンダはともかく、ルーには珍しいことだ。
「デミルさんの推測した通りですね。傭兵っぽい人たちが騎士の人と一緒にいます」
「それはそうと、ずいぶん荒っぽい感じだったぞ。イゼットを殺す気じゃないのか、あれ」
 闇に溶ける声で告げられた内容に、イゼットはつい眉をしかめた。隣で戦争屋も珍しく神妙に傷をなでている。
「なあるほど。従士ごと都合の悪い情報を消してしまえ……と」
「それか、俺を消してしまえば、今度こそ猊下を都合よく操れると思っているかな。むこうにしてみれば、口実は揃っているわけだし」
「でも、神聖騎士団はアイセル様の味方ですよね?」
 ルーが首をかしげて言った。それにはイゼットも、曖昧に首を振るしかない。
「一枚岩ではないともハヤルは言っていた。どういう人がどういう立ち位置にいるのか、もっと詳しく探れればよかったんだけど……」
 現実には、ハヤルたちに教えてもらったことくらいしか判断材料がないのだ。聖都に短期間しかいなかったから、詳しい情勢を探る余裕もなかった。
 陰に沈む日の色の瞳が、鋭い光を帯びる。
「少なくともサイード団長は味方についている。だから、俺が完全にいなくなっても致命的なことにはならないとは思う。断言はできないけど」
「だからって死ぬ気はさらさらないんだろ?」
 横から口を挟んできた戦争屋は、悪童のような笑みを浮かべてイゼットを見ていた。彼はその顔をまっこうから見てほほ笑む。
「当然です。でなければ脱獄なんてしませんよ」
 なにかがそぎ落とされたような、それでいて強い笑顔は、周囲の者を少なからず驚かせた。ルーが岩に背をつけたまま、ひゅっと息をのむ。その変化を痛みとして感じながらも気づかなかったイゼットは、あっさりと笑みを消して、再び夜に目を向けた。
 それからしばらく、四人は無言だった。いよいよ見える範囲に、騎士たちがやってきたからである。そのうちの一人に見覚えがあったイゼットは、知らぬうちに顔をこわばらせた。『会議』の議場へ行く途中、声をかけてくれた騎士だ。
「従士はなるべく生かして連れ帰りたい。だが、難しいようなら殺しても構わん」
 彼の声が響いた。隣で空気が鳴る。少女の視線をはっきりと感じながらも、イゼットは闇夜から目を離さない。あの騎士にとっては、どちらが本当の自分だろうか。そんなことを、ふと、考えた。
 荒々しい男たちの様子を観察しながら、アンダが眉根を寄せる。
「小屋に行く道がふさがれたな」
「下手すると、お馬と荷物も見つかっちまうかねえ」
 デミルがいつものような言葉で応じたが、それを奏でる声はかたい。どうする、と四人は視線で問いあう。ややしてルーとアンダが動いた。砂礫と丈の短い草をかきわけて道なき道へ踏み込むと、イゼットたちに手招きする。
「こっちからも行けないことはない」
「強引になっちゃいますけど、しかたがないですね」
 胸の前で拳を握るルーに合わせて、四人はうなずきあい、行動を開始した。足もとすら把握しきれぬ中で、石と草をかき分けて進む。騎士たちに見つかるわけにはいかないため、火であれ術であれ光を使うことはできない。頼りは地上最強の狩猟民族たちの瞳だけだ。それぞれ小柄なルーとアンダは横一列に並んで先陣を切り、そこへイゼット、デミルと続いた。草葉のない森を無言で拓く。その先、ひらけた空間をひとにらみし、アンダが舌打ちをもらした。横でルーも、息を詰める。
「まずいな」
 彼のささやきを聞き取って、イゼットは足をとめた。槍衾はそのままに、得物をかたく握る。厳しい表情のまま振り返ったルーと目が合った。
「どうしましょう」
「何があった?」
 イゼットが問うと、少女は難しい顔でささやく。
「この先に三人ほどいます」
「先回りされてたか。侮れんなあ」
 ひとり呟くデミルだけが、どことなく楽しそうだった。呆れかえったアンダの視線に気づいているのかいないのか、彼は変わらぬままで、問いを投げかけてくる。
「どうするよ」
 イゼットと、ルー。短い言葉は、果たしてどちらに向けたものだろうか。あえて確かめぬまま、若者はクルク族の少女を呼ぶ。
「その人たちの様子はどう? 俺たちに気づいてる?」
「いえ、全然気づいてないです。けど、油断もしてないです。それに、ほかの方々も近くに散らばってます」
「このまま行けば、全面衝突は避けられないか。となると、採れる手段は――」
 いったん黙って考え込む。両目の雲が晴れた。
「強行突破」
 若者と少女のささやきが重なる。
 男はほほ笑み、少年は黙したままでいた。
 冷厳な世界で、動植物は息をひそめている。ただ人間のみが、騒ぎ、うごめき、心を燃やしていた。
「いけるかな」
「ここにいる全員が協力すれば」
「ま、乗ってやるわ。こういうの好きだし」
「しかたがない。今だけだぞ」
 各々が、心を固め、息をひそめる。
 騎士と在野の男たちは、手当たり次第に捜索しているようであった。そのうちの一人、帽子をかぶり短めの剣を腰にさげた男が、四人の方へ近づいた。ぎょろりとした彼の目が、こちらを向く――直前に、ルーとアンダが飛び出した。無言で一切息を乱さず動く。ルーが体当たりをかまし、男は大きく後ろによろけた。そこへ背後の闇から飛び出してきたアンダが、鋭い蹴りを繰り出す。少年の一撃は、骨を砕きそうな勢いで顔面に直撃した。男はまともな声も上げられずに沈む。周囲の者は異変にすぐ気づいたが、男のかたわらに少年少女の姿を認めると、困惑した様子で顔を見合わせた。
 態度が違ったのは、騎士の二人である。
「侮るな、クルク族だぞ!」
「さては聖教本部に侵入したのもこいつらか」
 気色ばんだ二人をよそに、ルーとアンダは顔を見合わせる。
「なんだか微妙に勘違いされているようなのは気のせいでしょうか」
「間違いじゃないだろ」
 頭を傾ける少女に、少年は投げやりな返答を寄越した。自分たちを無視されたと感じたのか、追手たちはその様子を見てより殺気立つ。武器を構えてなだれかかってくる彼らを、クルク族の若者はのんびりとした態度でながめ――頃合いを見て跳んだ。少年少女の姿が『消える』。人々が驚きに顔を見合わせる。彼らの相貌には一様に戸惑いが浮かんでいた。彼らが惑っている間に、ひゅっと空気が鳴る。一拍の後、一人が吹き飛んで目をむいた。言葉にならない声を上げる彼らを旋風が襲う。それが子どもの形をした存在だということに気づかぬまま、彼らは衝撃と巻き上がる砂塵から逃げ惑った。見えざる嵐を巻き起こしたアンダは、高い岩場に着地して、無表情のまま男たちを睥睨する。その途中、彼は一人の騎士に目をとめた。その目がこちらを見ていることに気づいたのだ。
「上だ!」
 叫んだ騎士が剣を抜く。アンダはそれを見てもなお、動かなかった。
 騎士たちに雇われているであろう男たちの視線が、アンダに集まる。だが、彼らがそちらへ飛びかかるより早く、彼方から小さな礫が飛来し、一人のこめかみにぶつかった。おそらく鈍器で殴られるほどの衝撃を受けたであろう男が、ふらりとよろめいて倒れ伏す。その後ろに降り立ったルシャーティが、誇るでもなく短く息を吐いた。
 七人いた追手がこの短時間で半減する。騎士たちはそこでようやく、クルク族を恐れる心が強まったのだろう。得物は構えたまま、向かってこなかった。しかし、短時間に三人も仲間を倒された男たちはそうもいかない。
「このガキども、よくも!」
 荒々しいイェルセリア語で叫んだ彼らは、刃が湾曲した剣を振りかざし、それをルーに向けた。高いところにいるアンダより先に、目の前にいる彼女を片付けてしまおうと、高ぶった感情の中で判断したのだろう。しかし――彼らがルーに剣を振り下ろすより先に、突きの一撃が一人の眉間を貫いた。その瞬間、ルーは身をかがめ、呆然としつつも止まれなかった一人に足払いをかける。叫んで転んだその男を、ルーは淡々とねじ伏せた。痛みにあえぎながらも罵声を上げる男を、黒に限りなく近い茶色の瞳は静かに見返す。
 その、ルーの背中側から、のんびりとした声がかかった。
「戦闘の最中に気ぃ抜いちゃだめだろ? この子相手じゃなきゃ、二人とも死んでたぜ?」
 からかうような言葉は、むろんルーに向けられたものではない。短剣を構え、大剣を背負ったデミルが、ルーの半歩後ろでにやにやと笑っている。追手たちに向けられた短剣の先は、すでに血を吸って鈍く輝いていた。彼はそれを空中で滑らせ、残った二人のうち一人――若い騎士の方へ向ける。
「さて、味方がずいぶん減っちまったな。どうする、騎士様?」

 挑発的な戦争屋を、騎士たちがいまいましげに見返す。そのうちの一人、金髪の騎士はしかし、途中で視線を引きはがした。イゼットは、彼が自分を見つけたことに気がついた。それでも表情を変えることなく、足を止めることもなく、デミルの陰から踏み出してゆく。
「……おや」
 騎士の口もとに淡い笑みが浮かぶ。その笑みはどことなく、祭司長の老人を連想させた。『会議』前に声をかけてくれた騎士と同一人物とは思えない。己の内側をひっかくような痛みを覚える。だが、イゼットはあえてその痛みから意識をそらして、騎士をにらみつけた。感傷に浸っている場合ではない。今、自分がやるべきことはひとつだ。
「まさか出てきてくださるとは思いませんでしたよ、従士殿」
 ささやくような声がかかる。イゼットはそれに応じず――静かに槍を構えた。