第四章 崩壊の先へ17

 とても長い夢を見ていた。
 ゆっくりと浮上する感覚。鉛のように重い瞼を無理やり持ち上げる。黒っぽい器の中で、炎が揺れる。橙色の粉が、空中でぱちりと弾けた。
「あ、イゼット」
 白くて彫の深い少女の貌が、のぞきこんできた。初めて見たような心地である。少女はふしぎそうに首をかしげながら、ひらひらと手を振った。
「おう、起きたか」
「たぶん。……大丈夫ですか?」
 明るい声が、耳朶を、意識の根っこを揺さぶる。彼はそこでようやく、目に映るものを受け入れはじめた。からの器に一滴、また一滴と水が落ちる。満ちてゆく。憂いのにじんだ顔を近づけてくる少女――ルーを、今度はきちんと見つめ返した。
「イゼット?」
 名前を呼ばれる。言葉にならない音が出た。うまく、返せない。
 重い頭を緩慢に振る。やっと、少し五感が戻ってきた。逃げ込んだ小屋の中。泥のような苦い臭いが充満している。不快な臭気はけれど、彼を正気に戻すのには役立った。
「大丈夫、わかる」
「……本当ですか? これ、何本ですか?」
 びっくりしたように目を見開いてから、ルーは右手の指を四本立てて、見せてきた。彼女がそんな確認方法を知っているとは思わなかった。案外、デミルあたりが教えたのかもしれない。
「四本」
 かすかに答えると、ルーは、ほっと息をつく。ほころんでいる横顔に、彼はかすれた声をかけた。
「ごめん。まだ、少し、ぼうっとしてて」
「ゆっくりしてていいぜ。今のところ不審者もいない」
 答えたのはルーではなかった。デミルの声だ。おそらく小屋の入り口付近にでもいるのであろう。常と変わらぬ調子の言葉に、安心すればいいのか呆れればいいのかわからない。うなずくような舟をこぐような、曖昧な動きをして、彼はまた瞼を下ろした。
 隊商宿の跡と思しきこの場所に逃げ込んでから、おそらくさほど経っていない。外の様子は知れないが、火の光が及ばぬところは、まだ暗く冷たく、夜の気配が居座っている。短い間で何が変わるわけでもない。だのにイゼットは、自分が長い夢の中で、得体のしれないものに変貌してしまったように感じていた。
『こういうのは、『存在』を知るところから始まるんだ』
 ここではないどこかで聞いた言葉が、浮き上がる。
『彼』が指し示したものを、今は確かに捉えていた。これまでのように、実体がつかめず、影ばかりを追うしかなかったものでは、もうない。それをイゼットは、月輪の石だと思っていた。あの夜砕けてしまった石の破片だと思い込んでいた。間違いではない。けれど、正解でもなかった。
 奇妙な石は依り代にすぎぬ。本体はずっと、彼の中にあったのだ。
想像に過ぎないとわかっていても、つい想像してしまう。気分が悪くなってきた。
『怒るのも当然だし、むしろ怒るべきだ』
 また、浮き上がる。

 ああ、本当に――怒れたら、どれほどよかっただろう。

「デミル」
 揺らぎのない、現実そのものの声が響く。腹の底にわだかまる異物感と激情をそのままに、イゼットは薄目を開けた。声の主、少年の顔は見えない。ただ、音は聞こえた。
「誰か来る」
「騎士様かね?」
「わからない。足音の感じからすると、一人だ」
「ほーう?」
「見てくる」
「油断すんなよ」
「誰に言ってる」
 戦争屋との短い応酬の後、少年の気配は音もなく消える。
後にはまた、三人と、火の器と、夜だけが残った。

 岩と頼りない細木ばかりが立ち並ぶ、夜。聖都の郊外に限らずイェルセリアの多くの町の周辺にはそんな光景が広がっている。ただ、ここはより一層岩が多く、影が濃い。そのただ中を、男が平然と歩いている。闇を恐れる様子はない。緊張のためか寒さのせいか、頬がややこわばってはいたが、それだけだ。
 男は、まだ若い。二十代に差しかかったばかりであろう。それにしてはどこか厭世的というか、だるそうなまなざしではあるが、眼の奥に理知の光があるのをアンダレーダは見逃さなかった。デミルとはまた違う意味で、底が知れない相手である。
 己のすべてを殺して、近づく。男が足を止める一瞬前、懐から小刀を引き出し、それを突きつけた。
「何者だ」
「――善良なシャラク市民です、という冗談が通じる状況ではないね」
 アンダのつたないイェルセリア語に、予想より早く返答があった。しかもこの状況でふざけたことを言う余裕があるらしい。底がさらに深くなった気がして、アンダは気を動かさずに眉をひそめた。
「その物騒なものをしまってほしいんだけどね。僕は友人に会いにきただけだ」
「こんな夜中にか」
「そう、こんな夜中に。しかも丸腰で。なかなかにけなげでしょう?」
 とことん奇妙な奴である。警戒を緩めずにいるアンダに対し、彼は大事そうに抱え込んでいた紙束を片手で持ち上げ、示してきた。
「ほら。これじゃ、鈍器として扱うには心もとない」
 軽口を聞き流し、アンダは紙束に目を走らせる。イェルセリア語はややこしくてあまり得意ではないが、とっさに拾い上げた単語をそのままつなげた。そこから浮き彫りになった可能性と、この男の素性。アンダはこの夜初めて、息をのんだ。
 ひととき相手を観察してから、小刀をひっこめる。すると若い男は振り返り――だるそうな目つきのまま、ほほ笑んだ。
「どうもありがとう、小さな侵入者さん。僕は聖教本部文書管理室のファルシードだ。イゼットに会いたいんだけど、今どこにいるかな」
 彼が放った流ちょうなヒルカニア語を聞き取って、アンダは思わず舌打ちをした。

 二人分の足音が戻ってきた。片方は少年のものだ。イゼットはゆっくりと体を起こす。思考にはまだ霞がかかっていて、手足も浮いているかのように感覚がない。それでも、自分が起きていないといけないような気がした。色合いの違う視線が二人ぶん突き刺さるが、イゼットは肩をすくめただけで、彼らに応じることはしなかった。
 小屋の入り口を覆う布が、かさかさいいながら持ち上がった。隙間から褐色の肌の少年が顔を出す。
「追手じゃなかった。イゼットに用があるらしいから連れてきた」
「ふむ」
 デミルは手を挙げて軽く応じただけで、それ以上なにも言わない。ただ、彼のまわりの空気が少し研がれた。アンダも、なんだかいらだっているような風情である。
 来訪者は、とげとげしい雰囲気をものともせず、アンダの後ろで布をいっぱいに持ち上げて、顔を出した。顔を見て、正体を知り、イゼットとルーは同時に叫ぶ。
「ファル!」
「ファルシードさん?」
「こんばんは。予想通りルーも一緒か、よかった」
 何やら厚みのある紙束を抱えたファルシードが、友人と知り合いにほほ笑みかける。小屋に入ってからその顔があきらかにほころんだのは、明かりのある場所に入ったから、というだけではないだろう。
「出てきて大丈夫なのか。いろんな意味で危険だろうに」
「危険なのは否定しない。ただ、今後、君にはめったに会えなくなるだろうから。いろいろと伝えておきたい情報を持ってきた」
 言いながら、青年は紙束を無造作に置く。やはり膨大な量があるのか、どん、というような音がした。あのデミルがわずかに引いている。引かれているとは知らずに、ファルシードはイゼットを見ると、神妙に身を乗り出した。
「そちらこそ大丈夫? 顔色がよくない」
 言うなり彼は手を突き出して、イゼットの額を小突いた。今はそれだけでも刺激になってしまうらしく、イゼットはめまいを覚えてふらついた。体の奥で眠るものが瞬いて、一瞬ではあるが視界を妨げる。
 右目のあたりをおさえながら、若者は苦笑した。
「……正直、大丈夫じゃない」
「みたいだね」
「でも、俺が聞かなきゃ意味がないだろ?」
「ふむ。まあ、そうだね」
 あっさりとイゼットの言を認めた青年は、手っ取り早く紙束を床に広げて、仕分けはじめる。
「じゃあ、小難しい話は手早く終わらせよう」
 そう切り出して、ファルシードは場の全員を近くに招いた。むろん、デミルとアンダもだ。ここにいるからには一通りのことは知っているはず、と踏んだのであろう。話題の切り出しも、唐突だった。
「持ってきた情報は大きく分けて二つ。一つ、僕らは現状、月輪の石が聖教由来のものではないと考えているよね。その裏付けがとれそうな記述を昔の書物に見つけた。それも複数」
「えっ……裏付けって、どういうことですか」
 ルーが目を白黒させる。デミルたちは静かだった。彼らが動じていないのは、はなから話題についていく気がないからだろう。それを察してのことかはわからないが、ファルシードはルーだけを一瞥してから、言葉を繋ぐ。
「つまりは、月輪の石が『どこから来たのか』を探る手掛かりになりそうな記述、ということだ」
 イゼットは、ルーと顔を見合わせた。
 彼は、月輪の石の正体を期せずして知ってしまった。だが『なんであるか』がわかっても、『どこから来たか』は知らぬままだ。聖教に取り込まれるには異質すぎるこれは、果たしてどこから流れてきたのか。そこがわからぬことには、自力で調べることはできない。
 だから彼は、ファルシードの言葉を待った。友人の身に起きたことを知らぬ青年は、紙束に目を落としたまま、淡々と続ける。
「聖女猊下の宣誓文ってあったでしょう。あれを年代ごとに分別して、そこからさらに同年代の書物や記録を特定して、かたっぱしからあさってみたんだ。その結果、妙な記述が大量に出てきたのは――流浪の時代から新王国建国直後のあたりの記録。古くなって失われているものも、もちろん多いんだけど、思ったよりは残っていた」
「へえ、流浪の時代。伝説かと思ってたが、公式記録があるんだな」
 デミルが初めて、口を挟んだ。頬杖をついてにやにや笑っている。彼の反応はともかく、その言葉は、大陸の人間が百人いれば九十五人は同じことを言うであろう、ありふれたものだ。だからファルシードも表情を変えず、うなずく。
「その当時のものではなく、新王国建国後に回顧録的に書かれたものばかりですが。多くは、初代陛下が書き残したものとされています」
 流浪の時代と彼らが言うのは、古王国滅亡から新王国建国までの期間のことだ。崩壊から逃れた古王国の民が、青年ユイアトの先導のもと、安全な土地を求めてさすらった期間といわれている。
 イゼットも教養としては知っている情報を全体に流してから、ファルシードは再び目を戻す。
「で、奇妙な記述の話をする。まず一つ、頻出単語として『御使い』『空からの使者』というのがある。これが、僕が把握しているだけでも合計で八百回近く、記録に出てきているんだ。当時のイェルセリアを含めた国々――あるいは大陸そのものの動向に、『御使い』は密接に関わっていたようだね。というのも……この大陸ではたびたび常識では考えられないような怪現象が起きている。そもそも、国が山ごと吹き飛ぶなんてのもそうだし、あとは前触れもなしに局地的に雨が降ったり、荒野に一瞬で森が生まれたり、逆にある土地が紫色の雲に覆われて、瞬く間に荒野になってしまう、なんてこともある。そしてその怪現象は、『御使い』が一度表に出てきた後に、ぴたりとおさまっているんだ。ほぼすべての現象において、これは共通している」
「偶然とは言えないねえ。でも、それが今回の坊ちゃんの件にどう関わる?」
 デミルがまた、言う。ファルシードは小さく顎を動かして、それから紙束に向けたきりの目を細めた。
「さっき出した『ある土地が紫色の雲に覆われて、瞬く間に荒野になってしまう』現象。これは大陸のあちこちで観測されているけれど、もともと月輪の石はこれを収めるためのものである可能性が高いんだ」
 えっ、とルーが声を上げた。イゼットは、無言で目を閉じる。しかし二人は、おそらく同じ思い出を頭に浮かべていた。
 ヤームルダマージュ近郊にあった荒野。ふしぎな精霊研究者カヤハンとそこに潜ったときのこと。思えばイゼットがかつての襲撃者と再び出くわしたのは、あのときだった。
「新王国の祭事は基本的に聖教本部が取り仕切ってるから、祭事の記録が文書管理室にあったんだけどね。それをたどったら、数百年ごとに『浄化の時期が来た。月輪の石を持ち出す必要があるだろう』っていうふうな記述があるんだよね。かつてはそれが聖女の大きな仕事のひとつでもあったんだろう」
「浄化……あの雲をなくすことができてたんですかね」
「成功と失敗、五分五分ってところだったみたいだね。欠けてる年もあったし、具体的な過程がわからないから、証拠としては弱いけど」
 難しい顔をしているルーに淡々と言葉を返し、ファルシードは紙束を丁寧にばらしている。実際の記述の書付を探していたらしい。それを見つけて、何枚かを取り出したとき、彼の視線がひときわ鋭くなった。
「そして、最も重要なのが、これだ。見て」
 イゼットを見て短く言った彼は、ある紙の上の方を指でなぞった。イゼットは、言われるがままに友人の指を追いかけて、文章をなぞる。その中の短い文に、自然と視線が吸い寄せられた。
『月輪の石の破裂を確認』
「破裂って……そんなことがあったのか!」
「だいぶん昔の話だけど。確かにあったらしい。それも確認できただけで三回」
 ファルシードは右手の指を三本立てた。その後「続きも読んで」とささやく。イゼットは、イェルセリア語が堪能でない人々も意識して、文章を母国語で、声に出して読み上げた。
『宿主一人では、浄化が追いつかなかったためと推定される。この地の穢れの濃度が 巫覡 シャマン たちによる予知の二倍近かったためであろう。以後、一層の備えが必要である。現状の対策としては、まず、御使いにお伺いを立てること。そのために、聖女猊下と 巫覡 シャマン たちで連携して、ただちにかの方の居所を突き止めていただきたい』
 さらに形式的な文章が続いた後、最後はこんな文言で締めくくられていた。
『我々の領分である精霊の世界とは全く異質な力である。不用意な行動と憶測は慎むべし。今一度、このことを各々が胸に刻むこと』
「聖教とは違うもの、って自分から明言してるじゃないか」
「だよね。だからこそ、祭司たちは今回の『会議』でこの資料を証拠として扱わなかったんだろう。ロクサーナ聖教こそが正しいと主張する人々にとって、かつて『異教』に関わっていたという事実は、あまりにも都合が悪い」
 穏やかな顔で苛烈に言い切り、青年は肩をすくめる。思わず文句を垂れてしまったイゼットも、その姿を見るうちにすっと心が落ち着くのを感じた。改めて文章に目を通す。紙やすりを軽くこすりつけられるような、無視できぬ違和感があった。
「宿主、浄化、穢れ……それに御使い、か」
「また御使いですか」
 む、とルーが眉を寄せた。かつて聞いた宣誓文について考えているのだろう。
 デミルとアンダの二人は、他人事として聞いている、かと思われた。しかし、誰もが黙って考え込んでいる途中に、デミルの方がふと口を開いた。
「怪現象を止める者、か。いつぞや、どこかで、そんな話を聴いたことがあるな。聖教が広がる前に、大陸じゅうで知られていたおとぎ話だとか、なんとかって」
 この男が、おとぎ話を話題にすることじたいが、珍しい。アンダが意外そうに目を丸めて、彼を見た。
「そんな話があるのか。でっちあげじゃなくて」
「それは知らねえよ。ただ、その話の中じゃあ、御使いなんてのは出てこなかった。なんて呼んでたっけな。確か、元はヒルカニア語で――」
 デミルが傷をなでながら、珍しく沈思黙考する。戦争屋の神妙な姿に、四人分の視線が集まった。
 火が音を立てる。
 壁の中で、影が踊った。
 ややして、ひらめいたのだろう。彼は、少年のような笑みをのぞかせた。
「そう。天空の人、 天上人 アセマーニー だ」