第二章 ルシャーティの修行5

 ルーの明るい声は、修行場一帯に響き渡った。もちろん、イゼットも聞いていた。いまだに騒がしい精霊たちをなだめるのに難儀したが、自然と口もとはほころぶ。
 ひととおり精霊を鎮めて岩陰から顔を出せば、苦笑しているアンシュとまともに目が合った。
「兄さん、覡だったのか。知ってたら制限もうけたのにな」
「『まとも』な 巫覡シャマンではありませんよ。こんな大がかりな術を使ったのは、生まれて初めてです」
 ひょいっと肩をすくめたちょうどそのとき、イゼットはよろめきかけて岩に手をついた。役割を果たした安堵も手伝ってか、今になって疲労感が押し寄せてくる。世界が少し歪んで見えた。
「まあ、ともかく」
 アンシュが咳ばらいをする。彼が居住まいを正したことで、ルーやイゼットも表情を引き締めた。
「ルー。これで修行は終わりだ。成人の儀が終わったら、おまえは晴れて一人前の戦士として認められるだろう」
 青年の厳かな声が、透き通った青空の下に響く。
「おめでとう。ここまでよく頑張ったな」
 ルーが唇を噛んだ。顔がくしゃくしゃに歪んでいる。アンシュも、しわをいっぱい作って笑っている。
 イゼットはしばし、二人を静かに見守った。

 しばし余韻に浸った後、イゼットはなるべく音を立てないよう、その場に座り込んだ。それでも、クルク族の耳をごまかすことはできず、青年と少女は揃って振り向く。ルーが目を曇らせた。
「イゼット、顔色悪いですよ」
「そうかな?……そうかもね」
 精霊たちを楽しくさせて動かすのは今の正道から外れた術の部類に入る。聖教の 巫覡シャマンではなく在野の 巫覡シャマンに多い手法、とも言えるだろうか。効率化がされていない分扱うのは難しく、体力の消耗も激しいらしい。イゼットはそんなことをかつてアイセルから聞きかじったが、その意味を理解したのはどっと疲れた今この瞬間であった。
「ちょっと、どこかで休めるといいんですけど」
「それなら」
 不安げに視線をさまよわせるルーに対し、アンシュが手を挙げた。
「ここを出て、集落方面に少し行ったら、大昔の隊商宿跡があるはずだ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「なんなら俺と一緒に集落まで行くか? どうせ、成人の儀をしないといけないし」
 なんでもないような口調で、アンシュは提案してくる。ルーが言った通り、アグニヤ 氏族ジャーナは外の人間との交流に抵抗が少ないらしかった。
 イゼットとルーは、なんとなく顔を見合わせる。それから、ゆるやかに首を振ったのは、ルーだった。
「申し出はありがたいですけど、二人だけで向かいます」
「そうか」
「もしかしたら、ちょっとだけ遅くなるかもしれません」
 うなずいたアンシュに、ルーがそう言葉を続けると、彼は首をかしげて「寄り道でもするのか」と笑い含みに尋ねた。
 ルーは、肯定も否定もしない。しかしその相貌には、皮肉げとも不敵ともとれる笑みがかすめた。
「はい。もう一人、決着をつけなきゃいけない相手がいるんです」

 イゼットたちはアンシュに見送られて、名もなき修行場を出た。彼の言った大昔の隊商宿跡を探して、馬たちとともに駆け出す。いつもは馬の扱いに長けるイゼットが先頭に立つが、今日はルーが前だ。このただっぴろい平原を迷わず進めるのは、アグニヤ 氏族ジャーナの彼女だからだ。
 乾いた大地を往く二人の間に言葉はない。
 イゼットは、砂のまじった空気を軽く吸い込み、大きく吐いた。数刻で重くなった口は開きそうもない。少女の横顔は、ちらと見える。唇は強く結ばれていて、大きな瞳が前を見据えていた。息をのむほど清冽な強さは、こちらの口をますます重くする。
 ほどなくして、地平線にごつごつとした影が見えてきた。迷わず前進していくと、それらがかつての隊商宿であったことはすぐに知れる。朽ちかけた今でも五十人は入れそうな大きな宿と、屋根付きの厩舎、それから用途のわからない小屋が三軒建っている。かたわらには今も透明な水をたたえた窪みがあって、周囲はちょっとした緑地になっていた。
 ラヴィを止まらせたルーに追いついて、イゼットは横に並ぶ。そこでようやく顔を見合わせて笑いあった。
「休みましょうか」
「うん」
 それだけ言い合って、後はてきぱきと作業をした。馬たちに水を飲ませ、食事をさせる。厩舎が崩れていないことを確認してから二頭をつなぎ、人間たちの水も確保した。隊商宿に入った後に保存食をかじって、布を広げて壁にもたれる。
 それだけで眠気が襲ってきた。体が鉛に変わってしまったようにさえ感じる。イゼットが落ちかかった瞼をむりやり上げると、ルーの横顔が映りこんだ。小さくあくびをした彼女は、戸口の横の壁に寄りかかって、背を丸める。
 その姿を見ているうちに、イゼットの方もとうとう睡魔に負けていた。

 それからどれほど時間が経っただろう。イゼットはふいに目覚めた。耳元でなにかをささやかれたような感覚がしたのだ。もちろん、見回しても隊商宿跡にはイゼットとルー以外の人間はいない。そのルーは、イゼットになにかをささやけるような位置にはいない。
「なんだったんだ?」
 呟いてから、イゼットは伸びをした。まだ鈍いけだるさがまとわりついているが、精霊たちを動かした直後よりは『まし』になっていた。
 ルーは丸まって眠っている。見た感じでは、当分起きそうにない。イゼットはもうひと眠りしようかと考えかけたが、すぐに思考を打ち消した。なるべく音を立てぬよう立ち上がり、入口に近づく。
 小さく聞こえる、足音と、かすかな話し声。
 人数はおそらく二人だ。
 入口の際に立って、耳を澄ませる。そのとき、ちょうど、ルーが身じろぎした。
「あ……来ましたね」
 ぼんやりとした声で、少女が言う。イゼットが目を丸くして振り返ると、目を覚ましたルーは穏やかにまばたきしていた。
「なんで今だってことと、この場所がわかったんだろうね、あの二人」
「んー……なんでですかね。勘ですかね?」
「そんな馬鹿な、と言いたいところだけど、彼らならありそうだ」
 イゼットは肩をすくめる。ルーはゆっくり立ち上がる。
 戸口の、ぼろきれのような布を持ち上げて、二人は外へ顔を出す。陽が傾きかけた平原に、人の影が四つ、伸びた。
 正面からやってきた二人も、イゼットたちに気づいたらしい。
 一方はむっつりとした表情を崩さず、一方は愛想よく手を挙げた。
「よう、お二人さん。聖都以来だな」
「……お久しぶりです、デミルさん」
 イゼットは、一応聖教式の礼を返す。戦争屋の男と相対するときは、いつも次の言動を警戒しないといけないような気がしていた。ただ、今回の彼は、無言で笑んだだけである。魔よけの銀の耳飾りがチカッと光って揺れた。
「お久しぶりです。すごい時機に来ましたね、二人とも」
 ルーが率直な感想を漏らす。イゼットも、心の底からうなずいた。そんなわけはないが、実はどこかから尾行していたのではないかと疑うほどの時の良さだ。
 対するデミルは、あっけらかんとしている。
「場所についてはアンダの情報から絞り込んだ。時は――俺の勘」
「勘だった……」
「やっぱり勘ですか……!」
 こめかみをつついたデミルを見、イゼットとルーは声を揃える。デミルは終始楽しそうにしていたが、その笑顔の裏でどれほどの経験則に基づく思考とと計算が働いたと考えると、空恐ろしいものがあった。
「ルー」
 ふいに、とがった声が響く。それまで一言も発しなかったアンダが、強い視線をルーに向けていた。
「約束だ」
 短い言葉。だがその意味するところを、二人はよく知っている。
 息を詰めたイゼットの横で、ルーが小さくうなずいた。
「はい。約束ですから――やりましょう」
 隊商宿跡に、ぴりりと緊張が走る。しかしそれは、肩をすくめた戦争屋によってすぐさま打ち消された。
「ちょーい待ち。その前に、ちょっと休もーぜ」
「勝手に休めば?」
「何言ってんだよ。おまえが一番休まなきゃだめだろーが。朝から飲まず食わずのアンダくん?」
 ルーが、唖然として目と口を開く。アンダが気まずげに目をそらしたところを見ると、デミルの指摘は事実らしい。
 二人は、一体どんな日程でここまで来たのだろう――イゼットは、想像しかけて、やめた。