第二章 ルシャーティの修行7

「アンダくんはまっすぐ過ぎたかね。良くも悪くも」
 デミルが、抑えた声で呟いた。こちらへ話しかけたのか、それともただの独り言だったのか、イゼットには判断できない。だから、無言でうなずくにとどめた。しかしデミルは止まらない。なおも母語でやり取りをする二人を見たまま、けれどイゼットに言葉を向けてきた。
「さっきのルーちゃんのやり口は、誰の影響を受けたんだかねえ」
「……さあ、誰でしょう」
 イゼットは形だけの笑みを浮かべて明言を避ける。事実、はっきりとした答えを彼も持ち合わせていなかった。きっと、ルー自身、今までに出会ったすべての人から影響を受けたのだと思う。――イゼットが、色々な人に救われてきたのと同じように。
 クルク語の会話が途切れた。見れば、ルーとアンダはお互いに礼をとった後、静かに離れた。ルーに背を向けたアンダが、小声で何かを言って走り去った。
 あたりが静まり返る。どこかから、かさかさと生き物の走る音がした。イゼットは、小首をかしげている少女のもとへ、慎重に歩み寄る。
「……ルー」
 そっと声をかけた。すると、彼女は、引き締めていた表情をやわらげる。
「付き合ってもらってすみません、イゼット」
「いい勉強になったよ。お疲れ様」
「ありがとうございます」
 ルーは静かに礼を取る。決闘の後とは思えない穏やかさだ。肌を切り裂くような砂漠の冷たさが、熱狂をさらっていってしまったのかもしれない。
「アンダくんは、どこへ行ったんだろう」
「わかりません。ここからは出てないと思うんですけどね。『風に当たってくる』って言ってました」
「大丈夫かな。これから冷えると思うけど」
「ですね……でも、アンダくんなら大丈夫だと思います。アンダくんですから」
「……よくわからないけど、なんとなくわかるような気もする」
 イゼットは苦笑する。屈託なく笑う少女の手をひいて、彼はデミルの元へ戻った。時折意地の悪い戦争屋は、ルー個人に対しては何も声をかけなかった。頬の傷を歪めて、笑いかけただけだ。
 イゼットがアンダのことを問うと、彼はひらりと手を振る。
「放っておけばいいさ。気が済めば、戻ってくるだろう」
 同行者がそう言うなら、そうなのだろう。なんとなく後ろ髪を引かれる思いを抱えながら、イゼットは二人とともに元の建物へ戻ることにした。

 隊商宿跡の西の端。アンダ少年は、不格好に積み重ねた箱みたいな建物の、二階のふちに腰かけていた。その影を見つけたとき、イゼットは思わず吹き出しそうになった。どうやってあんな場所に登ったのだろう、というまっとうな疑問が頭をかすめる。けれど、経験から答えは簡単に出せた。
 だからイゼットは、愚問もおかしみも頭の外に追い出して、建物の真下まで歩いていった。足を止めた瞬間、上から視線が降ってくる。それは刃のような鋭さを持っていたが、悪意は感じられなかった。
「アンダくん」
 わざと声を張る。いらえはなかった。
「そこ、寒くない?」
 今度は、反応があった。
「……別に。このくらい、慣れてる」
「そっか。でも、無理はしないでね」
 笑顔をつくったイゼットは、それ以上言葉を重ねず、建物の壁にもたれかかる。
 少しして、ふっと影が差して、動いた。アンダが元いた場所から飛び降りてきたのだ。重さがないかのように着地した彼は、乱れた衣を適当に直して、顔を上げる。
「慰めならいらないぞ」
「うん。俺も慰めを言うつもりはない。帰りが遅いから、様子を見にきただけだよ」
 ルーとアンダの決闘は、二人だけの神聖な戦いだ。その過程や結果に、イゼットが口をさしはさむ権利はない。だから、ただほほ笑んだ。アンダは少し顔をそむけ、気まずそうに口を尖らせる。
 イゼットは、目を曇らせた。アンダの顔が動いた拍子に、派手なあざが見えたのだ。決闘でルーが上から落ちていったときの怪我かもしれない。
「アンダくん、そのあざ……」
「このくらい、大した怪我じゃない。ほっとけ」
「……でも、念のためお医者さんに診てもらった方がいいよ」
 こういうのを、余計なお世話というのだろう。思いながらも、イゼットは前言を撤回しなかった。陽の色の瞳と、闇夜の瞳がぶつかり合う。先にそらされたのは、後者だった。アンダは声では応えなかったが、小さくうなずいたように見える。イゼットの気のせいかもしれない。けれど、それでもよかった。イゼットもアンダから視線を引きはがし、夜空にそれを投げかける。
 乾いた空に雲はない。色とりどりの星たちが、少しずつ位置を変えながらも瞬いている。その下にはただ、音のない空気だけが広がっているのだろう。
「……あんた、母ちゃんに似てるよな」
「え?」
 弾かれたみたいに振り返る。それこそ聞き間違いかと思い、イゼットはアンダの方をまじまじと見つめた。彼はこちらの視線に気づいていないようで、ぼそぼそと言葉を続ける。
「母ちゃんも、口うるさくて、世話焼きだった」
「……うん。なんか、けなされている気がするんだけど……」
「どうだろうな」
 アンダは唇の端っこに、毒のある笑みをちらつかせた。ガネーシュ 氏族 ジャーナ の少年の、こういう一面を見るのは、初めてだ。新鮮な気分になると同時、イゼットは心がひきつるのを感じた。……踏み込んではいけない領域に、つま先を突っ込んでしまった気がする。若者の予感は、すぐに的中した。
「やかましかったけど、狩りも料理も、家の仕事も上手な人だった。父ちゃんがちゃんとしていれば、集落の人間に殺されるなんてこと、なかったはずだ」
「どういうこと? ――って、聞いてもいいことかな」
「いいよ。そうじゃなきゃしゃべらない」
 暗闇の中でも浮かび上がる笑みは、なおも崩れない。アンダは、表情とは裏腹に淡々とした調子で話を続けた。
「うちは戦士兼狩人の家だった。といっても、ほとんどのクルク族がそうだからな。父ちゃんも母ちゃんも、『ふつう』の人だった、ってこと。でも、あるとき、父ちゃんが氏族の掟を破った」
 掟破り――その言葉は、イゼットの心に冷気の刃を突き刺した。悪寒が走ったのは、砂漠の気温のせいだけではない。
「掟、って、いったいなんだったの?」
「さあな。知らない」
「知らない?」
「何も教えてくれなかったんだ。両親も、大人たちも」
 そこで初めて、アンダの相貌に感情がよぎる。苛烈な怒りのようにも、暗い悲しみのようにも見えた。イゼットは無意識に息を殺して少年を見つめる。
「何も教えてくれないまま、父ちゃんは無茶な狩りに出されて、帰ってこなかった。実質の死刑だったんだろうな。――それを知った後すぐ、おれは母ちゃんと一緒に逃げることになった。けど、一年経たないうちに仲間に見つかって、母ちゃんも殺された。
おれは……母ちゃんに逃がされた。逃げて逃げて、逃げた先で、国境の検問にひっかかった。捕まってどこぞの牢屋にぶち込まれそうになったんだけど、ふざけた男がそこに割り込んで、おれを勝手に『同行者』にした」
 その「ふざけた男」がデミルだったのだ。イゼットは少しおかしくなったが、笑顔は表面に出てこなかった。かわりに、つとめて穏やかに、少年に言葉をかける。
「それで今……二人で旅をしているわけだ」
「そう。むこうもクルク族の戦力を欲しがってたし、おれも行き場はなかったから、ちょうどよかったんだ」
 呟きながら、アンダは膝を抱える。緑の衣にゆるやかなしわが寄る。その姿勢のまま、彼はふと、遠くを見るような視線をイゼットに向けた。
「『同族だからって、なんでも知ってると思うな。知る努力もしないで、言葉を振りかざすな』――あんたの、言う通りだった」
 ともすれば自分が忘れてしまいそうな過去を掘り起こされ、イゼットは耳を赤くする。アンダと初めて出会ったときのことが、突然、鮮やかに思い出された。――同時に、アンダが何を言いたいのかも、わかった気がした。
「おれは、ルーに怒ってるんじゃなくて、あいつに嫉妬してたんだ。それを認めたくなくて、噂に怒っていただけだ。あいつが何をどう考えていたのか、知ろうともせずに」
 だからきっと、負けたんだろう。そう言ってほほ笑んだ少年は、どこか吹っ切れたような顔つきをしていた。

「で、二人は集落に行くわけだな」
 未だ冷たい幕に閉ざされた、早朝の遺跡。デミルは夜明け前の空を見上げながら、楽しそうに訊いてきた。愛馬をなでたイゼットは、いつも通りの穏やかさで、戦争屋と少年にほほ笑む。
「一緒に来ますか」
「冗談よせやい。クルク族とのかかわりなんて、こいつ一人で十分だ」
「おれは行っても石を投げられるだけだから、連れていかない方がいいぞ」
 デミルは陽気に手を振って、アンダはそっけなく呟く。相変わらず棘のある態度をする少年に、ルーが苦笑を投げかけた。
「そんなことはないですよ。集落のみんなは、優しいです」
「クルク族は、はぐれものに厳しいだろ。自分も同じになりたくなかったら、変な同情をしない方がいい」
「もうっ、君は頑固ですねえ」
「おまえに言われたくはない」
 少女と少年の間に流れる空気は、やわらかい。アンダの発言の、おそらく本当の意味を知るイゼットは、昨日までより打ち解けた様子の二人を黙って見守っていた。
 デミルもしばらくにやにやしていたが、彼はイゼットより早く気を取り直した。同行者の背中を叩いて、急かす。
「ほれほーれ。陽が昇る前に出ようぜ。人の丸焼きになりたくなかったらな」
「丸焼きになりそうなのはそっちだと思うけどな。ペルグ人は砂漠に慣れてないだろ」
「おっ、手厳しいね。昨日いじけてたのが嘘みたいじゃねえの」
「……そこを動くな。自然に殺される前におれが殺してやる」
「わあ、怖い怖い」
 こちらの二人のやり取りは、いつもどおりにとげとげしい。イゼットとルーは、顔を見合わせ、苦笑した。それぞれが馬上の人となったとき、アンダから逃げ回っているデミルが、軽い声を放ってくる。
「ああそうだ、言い忘れてたことがあったんだがー」
「なんですか」
「黒い服着た連中に気をつけろよー」
「……黒い服?」
 イゼットは首をかしげる。まるでわからないかのような動作をしてしまったが、その言葉は彼の記憶に引っかかった。ルーも、たくましく愛らしい相貌を軽くしかめている。
 アンダが、追跡の足を止めた。今思い出した、といわんばかりの顔で、遠くのデミルを見つめている。血気盛んな同行者が立ち止まったのを確かめてか、戦争屋の男はのんびりとした様子で三人のところまで戻ってきた。
「ちょーっと前に依頼を受けたんだ。『空気がおかしいから原因を調べてくれ』っていう内容の依頼だったんだがね。その『空気がおかしい』原因を作ったのが、けばけばしい模様の入った黒服を着た連中だったんだ。そんで、奴ら、聖女の従士殿を探してたんよ」
「あいつらの仲間が、この辺をうろついているかも、ってか?」
「この辺どころか、大陸じゅうに散らばってるだろうよ」
 淡々としたデミルの報告を聞き、ルーが目を丸くする。彼女は珍しく、ラヴィの背から上半身を乗り出した。
「どうしてそれを、聖都で教えてくれなかったんですか……」
「忘れてた、ごめんなー」
「そんな軽い調子で……」
 ルーは文句を重ねかけたが、かぶりを振ってそれをのみこむ。代わりに小さく頭を下げた。デミルは「じゃあ、伝えることは伝えたからな」と言って、またさっさと歩いていく。目をすがめたアンダが、小さくため息をついて、二人を振り返った。
「悪いな。あれはもう、どうしようもない」
「大丈夫、わかってるから」
「……そうか」
 アンダはなにか言いたげな目でイゼットを見上げた。しかし彼が小首をかしげると、ほどなくして顔をそらし、緑の衣をひるがえす。
「じゃあ、おれたちは行く。せいぜい死なないように頑張れよ」
「うん。お互い生きてたら、また会おうね」
 答えはなかった。けれど、ほほ笑んだ気配を感じた気がした。そしてアンダは、デミルの背中を追って駆けていく。彼らの姿が見えなくなった頃、イゼットとルーも静かに出発する。
 荒野には馬の足音だけが響く。夜が静かに明けていく。その中に、ぽつりと少女の声が落ちたのは、いつのことだったろうか。
「ボク、思ったんですけど……『あの人たち』は月輪の石について、なにか知っているんじゃないでしょうか」
「うん、俺も思った」
 イゼットは、一拍間をあけて答えた。
 思い返せば、彼らは聖院で、何やら含みのあることを言っていた。イゼットの『中』にあるものについて、地上でもっとも詳しい人たちなのかもしれない。ひとまずは文献などを探っていくつもりだが、それでも手がかりがなかった場合は――彼らに接触するという手段も、考えていく必要があるだろう。
 胸と喉がもやもやする。イゼットは大きなため息をついて、澱を追い出した。
「今考えてもしかたないか」
「そうですね」
 横で、ルーが笑う。もしかしたら、同じことを考えていたのかもしれない。
 今は頭の片隅にとどめておくだけにしよう。まだまだ、できること、やらなければいけないことは多い。この考えを実行に移すのは、それらすべてをやってみてからでもいいはずだ。
「まずはアグニヤ 氏族 ジャーナ の集落に行くこと、か」
「族長に会いに行きましょう!」
 イゼットは小さくうなずく。ルーの明るい声に背を押され、彼は愛馬に合図を送った。