「説得……あなたが、ですか?」
ユタ青年が目を真ん丸にして、強気な発言をしたシャハーブの方へ顔を突き出す。薄闇と逆光の中に表情を隠した男は、どう思っているのか判然としない。
ユタは疑っているのだろう。疑心を抱いてもしかたがない。シャハーブはどこからどう見ても若い旅人だ。顔立ちは美しく、それに反して口は達者だが、だからといってあの祭司長と正面切ってやりあえる、とは思わないだろう。……普通なら。
イゼットはユタのかたわらで、口をつぐんで成り行きを見守っていた。彼自身はシャハーブの言わんとしていることを察したからだ。シャハーブはこちらに真意を見せぬまま騎士と向き合う。
「イゼットとルーが聖教ににらまれている以上、俺が行くほかあるまい。それに、俺は天上人の実在を、身をもって証明できる数少ない人間だ」
「『身をもって』? どういう、ことでしょう」
「そのうちわかるさ」
眉をひそめた青年に、旅人は明確な答えを返さない。彼が少しばかり体を前へ傾けると、ようやく暗がりの中にその相貌が浮かび上がる。
「イゼットたちは、とにかく急いで古王国を目指した方がいい。『反逆者』どもが直接各地に出てきているのだとしたら、時が経つほどに身の危険が増すからな」
「そうですね。また古王国跡地を『よどみの大地』化されても大変です」
イゼットが淡々と応じると、シャハーブは満足げにうなずいた。髪をかき上げた彼は、改めてしかめっ面のユタを見やる。
「どうかな。副隊長殿」
「……あなたの仰ることは、もっともです」
額をおさえてうめいたユタは、けれどそのしかめっ面を少しやわらげる。
「それに、時間がないのは我々とて同じだ。今はあなたの提案に従いましょう」
シャハーブは、その答えを当然のものとして受け止めているようだ。泰然として、わずかも表情を動かさなかった。ただ、ユタが「よろしくお願いします、シャハーブ殿」と手を差し出してくると、いつもの微笑で彼の手を握り返した。
これで、方針は決まった。細かな話し合いを二つ三つしたのち、イゼットとルーは弾みをつけて立ち上がる。
「それじゃあ、ボクたちは古王国跡地に出発ですね!」
元気よく両腕を突き上げたルーに、イゼットはうなずいてみせる。
「状況を聞く限り、あまり猶予はなさそうだ。急いで町に戻って、荷物をまとめよう」
「がってんです!」
いつも通りの応酬の後、二人はヤームルダマージュの方へ足を向ける。残る二人の青年は、その後ろから、何事かを話し合いながらついてきた。
灰白色の雲間から差し込んだ薄日が、四人の背を照らし出す。
急いで支度を整えたイゼットたちを、カヤハンは相変わらずの調子で見送ってくれた。
「君たちはいつも慌ただしいねえ」
「あはは……すみません」
「いや、いいよ。なんか見てて安心するからさ」
恐縮するイゼットに対し、カヤハンはゆったりと手を振って笑う。わずかな含みを感じる返答に、若者は頬を引きつらせた。
「……褒められている気がしませんが……」
「そうかい?」
首をかしげる男の表情は、変わらない。帽子のつばで半分ほどが隠れた顔から、明確な感情は読み取れなかった。それでも、ユタのことを詮索してこない点と。こうして送り出してくれることに、イゼットは心の中で感謝する。
真面目に礼を取ったイゼットのすぐ隣で、ルーが両方の拳を握り、『きっ』と精霊研究者を見上げた。
「ボクたちは東の方に行きますけど、カヤハンさんも気をつけてくださいね」
黒に限りなく近い茶色の瞳が、爛々と光る。少女の本気の心配を受け取ったカヤハンは、帽子のつばを下げてうなずいた。
「うん。多分大丈夫だと思うけど、気を付けておくよ。何かあったら精霊に守ってもらおう」
「カヤハンさんは覡じゃないですよね?」
「イゼットの名前を出すのさ」
首をかしげたルーに向かって、カヤハンは人差し指を立ててみせる。得意げな笑みとともにもたらされた答えを聞いて、ルーは「なるほど!」と顔を輝かせる。イゼットは、何も言えずに頭をかいた。
笑いあい、そして別れの挨拶を交わして。イゼットとルーは、ヤームルダマージュに背を向ける。先ほどの洞穴の前で待っていたシャハーブたちと合流し、しばし馬を走らせた。
半刻ほど進んだ地点で、イゼットとルー、シャハーブとユタで別れることとなる。ユタたちは調査に来ている第三小隊と合流しなければならなかった。ハヤルにだけでも顔を見せていくかと誘われたが、イゼットはやんわりと断った。
「第三小隊は味方ですが……どこに敵の目があるかわからないから。姿は隠しておいた方がいいでしょう」
ユタはそうですね、とほほ笑み返して礼を取った。この答えも予測していたのだろう。
かたい地面が続く道。その凹凸が一度途切れた場所で、シャハーブが軽く手綱を引いた。別の方へ行くイゼットたちを振り返った彼は、陽気に口の端を吊り上げる。
「さて。ここで一度お別れだな。気を付けていけよ」
「シャハーブさんも。――古王国跡地で会いましょう」
同じく馬上で振り返り、イゼットは左の拳を持ち上げる。その意味を察したシャハーブが、彼の動作に応じる。分かれ道の真ん中で、拳を軽く打ち合わせた。
雲が晴れる。それと同時に、ユタが馬の腹を蹴った。走り出した青年を、旅人も追いかけていく。イゼットとルーは、走り去る二人の影が見えなくなるまで見送った。人影が青い光にのまれると、彼らは顔を見合わせる。
「さ、行こうか」
「はい! しゃきしゃき行きましょう!」
若者の微笑に、少女は満面の笑みで答える。
ここからしばらくは、また二人だけの旅だ。
過酷な道行になるだろう。けれど、イゼットの胸に恐れはない。一人ではないからだ。
身をひるがえし、愛馬に出発の合図を出す。二人分の鋭い一声と馬蹄の音が、静かな大地に響き渡った。
※
トラキヤ西部、静かなる森の奥。数多の書物を隠す館に、管理者はひとり身を置いていた。
館の広間には、空間を埋め尽くすように棚が並び、巻物や石板が収められている。人によっては目を輝かせ、人によっては目を回すであろう。その場所を、フーリはどちらでもなく、淡々と歩いている。何も見ていないようでいて、その実、彼は書物の状態を確かめていた。これらは彼の友からの預かり物だ。せめて、彼がこの地を去るときまでは、厳重に保管しなければならない。
無音の広間に、時たま木材の乾いた音が割って入る。それだけの空虚な時に変化が起きたのは、フーリが書棚の上を見ようと梯子に足をかけたときだった。
頭の奥に、遠くと繋がる感覚がある。思念伝達の石が使われたときの感覚だ。そして、今の世において石を持っている者は一人しかいない。フーリは虚空に手をかざし、同じ石を呼び出す。同時、ここにはいない人間の声が響いた。
『フーリ』
「シャハーブ」
その人の名を呼ぶと、変わらず陽気な声が返ってくる。
『状況はどこまで把握している?』
「ヤームルダマージュ付近の荒野が完全に浄化され、再びよどみや穢れが溜まる気配もないこと。それから、各地でよどみの大地がまた生まれていることだ。そちらで何かあった?」
淡々と応答すると、シャハーブは現在の状況を教えてくれる。聖教本部が捕捉した、よどみの大地と『反逆者』と思しき者の存在、それを受けた人間たちの混乱、そして、シャハーブたち自身の選択。
現状の詳細を把握したフーリは、受諾のために口を開く。
「わかった。僕もそちらへ向かおうか」
『俺の方は問題ない。狸じじいはなんとかするさ。それよりも、イゼットたちの方へ行ってくれ。『反逆者』どもが狙うなら、あの二人の方だろう」
「その通りだ。すぐに行くよ」
『ようし、頼んだぞ、〈使者〉殿』
いつも通りの楽しげな一言を最後に、音は途切れた。透明な石を見つめたフーリは、それを消して梯子を下りる。
もう一つの仕事の時間だ。速やかに行動しなければならない。
細い腕を掲げたフーリは、その場からヒルカニア方面へ向けて飛ぶ。そのとき、自分たちとは真逆の、天上人の気配を捉えた。