旅というのは、想像していたほど風情あるものではないらしい。
頭蓋にまで響く重低音と、そのはざまでわずかに奏でられる水音は、とてもではないが心を豊かにしてくれるとはいえなかった。それでも、一日二日聞いていれば慣れてくるものだ。騒音のただ中で読書ができる程度には。
青年は今日も、部屋の隅で黙々と本をめくっている。もはやそれが日常になりつつあった。しかし、あるとき彼は、ため息をひとつ落とした。かと思えば本を閉じる。分厚い革表紙の本は、それだけで重い音を立てた。
「アルロ、今日も読書か~?」
後ろから声が降ってくる。予想していたので、動揺はなかった。ただ、呆れをこめて背中に手を伸ばす。すると、自分によじ登ってきた少年の頭を小突く格好になった。
「いって」
「わかってるなら邪魔すんなよ。昼飯の前には終わるだろうから、それまで適当に遊んどけ」
「えー」
不平を漏らした少年は、それでも青年の背中から下りる。ちょうどそこに、少年とよく似た顔だちの少女がいた。彼女は興味津々に、革表紙の本をのぞきこんでいる。
「何読んでるのかと思った。お話?」
「あっちの方に伝わる物語なんだとさ。少しでも予備知識を入れておきたくて、読み返してる」
青年が読んでいる本は、ずいぶん前から自宅の本棚で眠っていたものだ。確か、学生時代に古代ヒルカニア語の勉強をしようとして買ったのである。結果は大失敗だった。入門者が読むには高度すぎる内容で、一、二ページめくっただけで挫折してしまったのである。ただ、今こうして役に立っていることを思うと、失敗と言い切ることでもないのかもしれない。
「でも、物語なんかじゃ情報は得られないと思うよ? てきとーなこと書いてあるのも多いしさあ」
ませた口調で呟いた少女は、青年に半眼を向ける。彼は、しかめっ面で手を振った。
「俺はおまえらと違ってド素人なの。だからそんなに高度な情報は求めてない。物語読むくらいがちょうどいい」
「そんなもん?」
「そんなもん」
顔を突き出した少年に答えを寄越してから、青年は革表紙をなでる。
内容はもちろん、題名もヒルカニア語で書かれていた。確か、翻訳版ではもっと違う表題がついていたはずだが、彼は原題の方が好きだった。理由は自分でもよくわからない。思い出が、好意を形作っているだけかもしれない。
『月と炎の伝説』――その文字をなぞった青年は、本を抱え込む。若い同行者にいたずらされる前に、鞄にしまった方がいい気がした。
「あーっ。アルロ、逃げるなよー」
「逃げないって。いったん部屋に戻るだけだ」
まとわりついてきた少年をにらむ。彼はぱっと青年の足もとから離れ、『気をつけ』をした。
「じゃ、戻ってきたら遊ばせて」
「遊ばせてってなんだ。そこは遊んでじゃないのか。嫌な予感しかしないぞ」
「だめ?」
「だめって言ってもやるんだろ」
けらけらと笑う少年と、彼を小突く少女を放って、青年は歩き出す。
謎多き姉弟に巻き込まれる形で、天の庭とやらを目指すはめになったアルロ・グリューズは、ひとり苦笑して頭をかいた。