幕間Ⅰ「箱庭の春」1

アーラシュにとって、家族という言葉は幻想であった。父親は自分が生まれる前に姿を消し、母親は子を産み落とすと同時に命も落としたと聞いている。親戚は存在すら知らない。生まれ故郷の記憶もない。ただ、彼は時々、ある風景をおぼろに思い出すことがあった。
つぎはぎだらけの家いえが並ぶ細い路地。とっ散らかった食物のかすや糞尿が砂の上でひからびる。落ちくぼんだ目をした人々がぼろきれをまというずくまる。きっとそこが自分の故郷なのだと、アーラシュはある時気づいた。今はある騎士の心配りで、兵士の候補生が入る訓練所に放り込まれているから、平民という扱いになっている。しかし本当は平民以下――いや、ひょっとしたら奴隷以下かもしれないのだった。同期の少年たちがしょっちゅう罵声を浴びせたり制服を隠したりするのも、アーラシュの出自のことを少なからず知っているからなのだろう。
怒りや不満はとうにしぼんだ。今はただ、うんざりしている。だが、訓練所を出た先に行くところはない。結局のところアーラシュはいじめられながら兵士になるしかないのだとあきらめていた。
恩人である騎士から思いがけない話が持ち込まれたのは、数え年十歳の初春のことであった。

「おまえか、アーラシュというのは」
「はい」
高圧的な視線が刺さる。いかにも貴族らしいひりついた空気に嫌悪感を覚えつつ、アーラシュはこうべを垂れた。南部州の州都であるというのに、彼のまわりは震えそうなほど冷えている。
「顔を上げろ」
少年は言われたとおりにした。威厳という名の鎧を着ている男と目が合う。ヒルカニア人にしては短い黒髪で、前髪は上げられている。そのせいか、鷹より鋭くいやみな両目がよく見えた。南部の領主様は獰猛な狼のようだという揶揄を聞いたことがあるが、あれはただの悪口ではなかったらしい。
勝手にそんな評価をされていると知ってか知らずか、領主は彼に背を向け、振り返った。
「バムシャードから話は聞いている。ついてこい」
「はい」
アーラシュは立ち上がり、男の背についていった。
長い廊下と階段を進む間、この家の人間とたくさんすれ違った。そのほとんどが召使だったが、お坊ちゃんの姿も二度ほど見た。みんな、アーラシュに気づくと露骨に顔をしかめた。耳を澄ませばどこかで聞いたことのあるような話がいくらでも拾える。
「あれが離れの新しい召使だそうだ。貧民街の子供だと聞いたが」
「いやだわ。そんな汚いものをこの家に入れるなんて……」
「バムシャード様の推薦とはいえ、ねえ」
アーラシュはそのすべてを聞こえていないことにした。この程度の悪意は、慣れたものである。
「でも、あの親子のお世話係なら、ちょうどいいかもしれないわね」
その声だけが妙にひっかかって、アーラシュは足を止めかける。咎められる前に慌てて歩き出したが、すでに帰りたくなっていた。
「離れ」という言葉は比喩でもなんでもなかった。アーラシュが連れてこられたのは、最初の邸宅から少し離れた別邸だったのだ。同じ敷地内にあるのだが、雰囲気はまったく違う。白を基調とした建物に足を踏み入れたとたん、頭がさえわたる感じがした。単に静かだから、ではない。ここと外の世界を仕切る、目に見えない 紗幕 カーテン があるみたいだ。
澄んだ音を聞きながら床を歩き、馬鹿みたいに幅のひろい階段を上ろうとしたとき。向かいから、誰かがやってきた。透明な空気の中に、山岳の風の薫りがふうわりと舞う。雇い主の後ろでアーラシュは呆然としてしまった。
「セリン、出てきたのか。待っていてくれればこちらから出向いたものを」
おや、と少年は目を瞬く。初めて、領主様のやさしさらしきものを感じられた。
「私どもの召使となる子でございましょう。私が出迎えないで、なんといたしますか」
対する女性の声は凛としている。領主様の長身のせいで、被り物の白い布くらいしか見えないが、きれいな人なのだろうと勝手に想像した。そうしているうちに領主に名を呼ばれたアーラシュは、おずおずと長身の横でひざまずく。
「アーラシュと申します。よろしくお願いいたします、奥方様」
「ラフシャーン様の妻、セリンです。あなたのことはバムシャード様から聞いていますよ」
靴音が鳴る。風の薫りが近くなる。そして鈴のごとく清らかな声は、すぐそばから降ってきた。
「そう固くならずともよいですよ。どうか、お顔を見せて」
言われるがままに顔を上げ、少年は息をのむ。領主の奥方だという女性の瞳が、真ん前にあった。朝日の光を閉じ込めたような瞳にしばし見入る。彼女がかがんで目線を合わせているのだと気づいたのは、続きの言葉を聞いたときだった。
「たくましそうな子ね。バムシャード様に鍛えられていたのかしら」
「あ、い、いえ。ですが、兵士の訓練所で鍛錬をしておりましたゆえ、力仕事は得意です」
獰猛な領主が隣にいるというのに、どもってしまった。ついでに、変なことを口走った気もする。しかし、奥方は楽しそうに笑う。どこかの町娘のようだった。
「頼りになりそうね。それに、あなたにならうちの子を任せられそうだわ。精霊にひかれて時々無茶をするから、心配しているの」
「は、はあ」
うちの子、と聞いてアーラシュはなぜかひるんでしまった。領主と第三夫人の間に息子がいることは聞いている。それに、口さがない召使も「親子」と言っていたではないか。
己の中の奇妙な感情に、アーラシュは首をひねる。ただ、そのとき領主ラフシャーンが顔をしかめていたのは見逃さなかった。
挨拶が終わると、領主は去っていった。セリンへの気遣いは見せていたが、なにかから逃げるような態度だったのが、アーラシュには引っかかった。しかし、彼の直接の主人となる女性は気にしていないふうだ。彼を立たせると、邸宅の奥へと案内してくれた。ほかの召使くらいいてもよさそうだが、人の気配は乏しい。
少年の疑問に気づいたのか、セリンはくすぐったそうな表情をした。
「最低限のことは自分でしますから、お世話の人は数人でいいですと、私が言ったです。ふしぎなもので、故郷にいたときの感覚がなかなか抜けなくて」
「……もしかして、奥方様はペルグ人ですか」
「わかるの? って、わかるわよね。名前もペルグのものだし」
ええ、とあいまいにうなずいたアーラシュは、直後に頭を抱えた。考えてみれば、自分はものすごく失礼なことを訊いたのではないだろうか。思ったことをつい口にしてしまう性分は、どうにかしないといけないのかもしれない。
アーラシュが悶々としている横で、主人は足を止めた。何かと思ったところで、今までで一番にぎやかな足音が聞こえてくる。と、思ったら、すぐ前に小さな人影が出てきた。
「ははうえ!」
「あら、イゼット。お勉強は終わったのですか」
「いま、終わりました。あたらしい人にあいさつをしに来ました!」
「ちょうどよかった。こちらへいらっしゃい。ああその前に、ちょっと息を整えて。嬉しいのはわかるけれど、落ち着きなさいな」
「ご、ごめんなさい」
母にたしなめられているその男児は、確かにセリンによく似た顔だちだ。彼女より少し力強い目つきは、父親ゆずりだろうか。母よりもまぶしい朝日の瞳が、アーラシュを見た。彼はとっさに膝を折る。
「アーラシュでございます」
男児は虚を突かれたように目を瞬いた。何かおかしいところがあっただろうかと、彼が思った直後、子どもらしく甘やかな、けれど妙に成熟した声が返ってきた。
「イゼットです。よろしくお願いします」
にっこりと笑った男児を、アーラシュは驚きをもって見返す。
容姿以前に、ふしぎな空気をまとった子どもがそこにいた。彼はアーラシュと目が合うと、ぱっと顔を輝かせる。言動は、アーラシュが苦手な相手、無邪気な幼子そのものだ。
こいつの面倒を見なくちゃいけないのか、頭が痛い……。
イゼットと初めてまみえたとき、彼が抱いた感想はそんなものであった。

その日から、アーラシュは離れの召使となった。待遇は今までの何倍もよく、奥方は優しかったが、作法や言葉の勉強はきつかった。何が楽しくてもの一つ取るときの動作すら変えなければいけないのか。最初のうちは、一日に何度もいらだった。
「ヒルカニア貴族の世界は、大変ですよね」
そんなふうに言いながら話を聞いてくれたのは、恥ずかしながら奥方のセリンだった。彼女ももともとペルグの少数民族の出身であったから、共感するところがあるのだという。
「故郷のご老人たちも口うるさくはあったけれど……また別の厳しさがあるわ」
「……あの、奥方様、すみません……」
「畏まらなくていいんですよ。私だって、この時間を楽しみにしているんですから」
はかなげに見えた領主の第三夫人は、予想以上に大胆でたくましい人だ。アーラシュは勤めはじめて二十日ほどで、直接の主人の気質に気づきはじめていた。
アーラシュの主な仕事はセリンの身辺の世話だ。しかし、初日の発言からもわかるように、彼女は自分でできることは自分でやってしまう。大変そうな衣服の着付けは女性の召使の担当だ。アーラシュの出番は、たまに舞い込む力仕事に限られる。
その代わり、彼は勤務時間のほとんどをご子息のイゼットと過ごしていた。
イゼットは、アーラシュが当初警戒していたような、奔放な幼子ではなかった。むしろ、出来すぎているといっていいくらい、聞き分けのよい男児だ。想像より手がかからないことに安堵している。が、振り回されることも多々あった。
「アーラシュ、あんなところに水のりゅうがいる」
ある日の休憩時間。中庭を囲む回廊を歩いているとき、植え込みの陰を指さしてイゼットが言った。
「水の……竜、でございますか」
アーラシュは首をかしげる。彼の目には、ただの手入れされた植え込みにしか見えない。ということは、水の竜とやらはイゼットにしか見えていない。精霊だ。
「ちいさい。きっと、まだ赤ちゃんだな」
前のめりになりながらイゼットは目を凝らしている。頼むからそのまま転げないでくれよ、と、アーラシュは心から願った。
「精霊にも赤ん坊がいるのですか」
「うん。かれらも、うまれたり、しんだりする。しんだら『ていえん』に行って、またすぐうまれるんだ。ははうえがおっしゃっていた」
「そうなのですね」
また一つ賢くなった。
アーラシュより幼いイゼットだが、貴族の世界の常識や精霊のことについては彼より詳しい。もっとも、その知識のほとんどが大人の受け売りなのだが、アーラシュはそれについては何とも思わない。幼いうちはそういうものなのだ。知識を自分のものにしていくのは、これからのことである。
「まいごかもしれない。水にもどしてあげなきゃ」
子どもらしい声が耳の中を通過していった。アーラシュは何気なく隣を見やり、目をむいた。イゼットが、室内着の絹服のまま、庭へ歩き出しているではないか。
「お待ちください坊ちゃん、危険です」
植え込みの方へ駆けだした幼子を、アーラシュは慌てて追いかける。よく確かめもせずに走り出して転びでもしたら大ごとだ――と思った矢先に、イゼットは回廊と庭の間の段差で体勢を崩した。
「うわあっ!?」
「やべっ……!」
アーラシュはとっさに手を伸ばす。小さな体が前のめりになった、その一瞬のうちにイゼットの腕をとらえて、後ろに引き戻した。よろよろと不安定な体を背後から抱え込んで、屋根の下に連れ戻す。両足で地面を踏みしめてイゼットが大人しくなると、安堵から知らず大きなため息をついた。
間に合ってよかった。万一植え込みに顔面から突っ込んでしまっていたら、イゼットも危なかったし、アーラシュの首も飛ぶところだった。
「――ごめんなさい」
腕の中から泣きそうな声が聞こえてくる。奥方の子息は腕の中でうなだれていた。見ているこちらが悲しくなるほどの落ち込みっぷりに、アーラシュはなんと言葉をかけようか迷ってしまう。
彼は少し考えこんだ後、イゼットを放してから、その前に回り込む。膝を曲げて向かい合うと、母親譲りの朝日の瞳が、こまっしゃくれた少年の顔を映し出した。
「坊ちゃんに何事もなくてよかったです。周りを見ずに走らないよう、次からは気を付けてください」
「……はい」
「『水の竜』のことは、セリン様に伝えておきます」
奥方も元は地位の高い巫女だったと聞く。この家で精霊に対して適切な対応ができるとしたら、あの方だけだ。
黙ってうなずくイゼットの頭をくしゃくしゃと撫でたアーラシュは「戻りましょう」と言って、小さな相手の手を取った。おずおずと握り返された手を軽く揺らしながら、壁に沿って歩いていく。
「ねえ、アーラシュ」
その途中、イゼットが控え目に声をかけてきた。
「なんですか」
つとめて穏やかにアーラシュは聞き返したのだが、イゼットは少し考えこんでから「なんでもない」と言って顔をそらした。それきり、母のもとへ行くまで口を開かなかった。

精霊のことを報告すると、セリンはすぐに、侍女とともに庭へ出た。しばらく経って戻ってくると、息子と召使の少年に、穏やかにほほ笑みかける。
「あの精霊は、元は近くの水路の水にひかれてやってきたみたい。道案内してあげたら戻っていったから、もう大丈夫よ」
「本当ですか!」
イゼットが目を輝かせる。彼を安心させるようにうなずいたセリンは、しかし、その後わずかに表情を引き締めた。
「イゼット。迷子の精霊を見つけたときは、まず私に相談してちょうだい。あまりアーラシュを困らせてはいけませんよ」
「は、はい」
分かりやすく顔をこわばらせたイゼットに、セリンは優しいまなざしを注ぐ。アーラシュは、ふだん自分が見られない親子のやり取りをながめた。そこに、なにか特別な感情があるわけではない。ただ、初日のラフシャーンの不自然な態度をぼんやりと思い出していた。