ゆっくりと、夜が明けていく。
黒い闇に覆われていた空がじょじょに青く染まり、朝日を受けて黄金色に輝いた。
その、空の移ろいを、アイセルは自室から見つめていた。
夜半、聖教本部で騒ぎが起きたことは、彼女も知っている。だが、彼女は現場に出なかった。こういう騒動の折、表に出るのは聖女の仕事ではない。神聖騎士団の仕事だ。騎士団長サイードのことはアイセルも信頼している。任せておけば問題ないだろうと、思っていた。
扉が軽く叩かれる。やや遅れて、野太い声が響いた。
「猊下、サイードでございます。報告に参りました」
アイセルは、深く息を吐く。被きを深くかぶりなおしてから「どうぞ」とささやいた。
礼儀正しく入室してきたサイードは、アイセルの前にひざまずく。彼女が報告をうながすと、サイードはわかりやすく昨夜の騒ぎについて教えてくれた。
侵入者は取り逃がしたそうだが、騎士に重傷者や死者は出ていないという。そして、拘留されていたイゼットは侵入者にさらわれて姿を消した――それを聞いたとき、アイセルは安堵した。しかし、騎士団長の前でそれを出すわけにはいかない。表面上は厳かにうなずいてみせた。恐縮する男をねぎらってから、軽く息を吸う。
「被害状況はわかりました。負傷者の手当ては?」
「動ける者が対応にあたっております。もうじき一段落するかと」
「では、手当てが終わったら全員に休息を。その後に改めて、残りの事後処理を行ってください」
「はっ」
大きな体をむりやり縮こまらせながら、サイードは退室する。それを見送り、足音が聞こえなくなった頃、アイセルは一度被きを取り払った。
イゼットが聖都を出た。
出られたのだ。本当に。
鼻の奥が熱くなる。喜びと寂しさと悔しさがこぼれそうになるのを、ぐっとこらえた。
これからどうなるかはわからない。自分の足場がさらにもろくなったのは確かだ。それでも、今は彼の未来を守れただけで、じゅうぶんだった。
再び、扉が叩かれる。今度の声はファルシードのものだ。アイセルは息をのむ。イゼットに会いにいってくれた青年は、無事に帰りつくことができたらしい、
入室を許可すると、ファルシードはハヤルと連れだってやってきた。今度は、肩の力を抜いて二人の報告を聞く。
「今度の侵入者は、ルーの知り合いみたいですよ」
ハヤルが肩をすくめる。アイセルとファルシードは、瞠目した互いの顔を見合わせた。
「どこで知り合ったのかは知りませんが……厄介な奴らを引き入れたものです。感心しますよ」
「『戦争屋』の傭兵とクルク族の少年……」
考え込んだアイセルは、視線をファルシードに投げた。彼女がなにかを言う前に、青年が口を開く。
「どちらもかなり腕が立つ印象でした。しかも、かなり『くせ』がある。正直、ハヤルが彼らと渡り合えたというのが意外です」
「おいこら、そりゃどういう意味だ」
「そのままの意味だよ。ハヤルは良くも悪くもすなおだから、振り回されて終わりかと。違った?」
「うっ……それは……」
容赦のない言葉の応酬を聞いて、アイセルは思わず笑声をこぼした。慌てて口を押えたが、ごまかしきれてはいないだろう。
彼女が聖女になってからも、この三人の間には友人としての空気感が流れている。その空気を保ち、三人をつないでいるのは、ここにはいない従士なのだ。
「……これからが大変ですよ、猊下。今までと違って、イゼットが完全に悪者扱いされている。猊下のお立場は悪くなる一方でしょう」
「それでも、上手く立ち回るしかないわ」
どのみち、イゼットを犠牲の羊にすることはできなかった。それができる人間ではないのだ。アイセルも、二人の青年も。だから、こうなることは最初からわかっていた。
「二人には苦労をかけてしまうけれど……」
アイセルが少しうつむくと、青年たちは悪童のような笑みを向けてきた。
「お気になさらず、猊下」
「これは俺たちが趣味でやっていることですから」
ハヤルは明るく、ファルシードはあくまで淡々と言い切った。その言葉を信じて、アイセルはほほ笑んだ。ほほ笑むことにした。毅然として、穏やかであり続けることが、彼らの支えになるはずだから。
報告を終えて、二人はアイセルの部屋を去ろうとした。しかし、その直前でファルシードが足を止める。振り返り、二人をそれぞれ呼んだ。
「猊下。それと、ハヤルも。もう一つ、伝えておかなければならないことがありました」
アイセルは目を瞬く。ハヤルも首をひねっていた。怪訝そうな二人を静かな瞳で見つめ、文書管理室の青年が口を開く。
「イゼットからの情報です。月輪の石について」
そして、彼からもたらされた情報は――二人に少なからぬ衝撃をもたらした。