巨大な魚が孤を描いて、飛んだ。黒い尾びれが陽光を反射し、てらりと光る。
シャハーブはその光景を、感嘆をもってながめていた。今、盛大な水しぶきを上げて水底へと帰っていった魚は、大きさがシャハーブの三倍ほどある。もともと大きな魚で人を襲うこともある種だが、おそらく忌み地の穢れを浴びて遺伝子に異変が起き、さらに巨大化したのだろう。
「すごいな。魚とは、あれほど大きなものなのか」
「……あれは特別に大きいわ。私の親指くらいのだっているわよ」
気が抜けるような会話が、遠くから聞こえ、近づいてくる。どちらの声にも聞き覚えがあったシャハーブは、肩をすくめて振り返った。予想通り、見覚えのある男女がこちらへ歩いてくる。男の方が先に気づいたようで、顔を上げた。精悍な顔立ちの青年だが、青紫色の瞳は、この世のものとは思えぬ輝きを湛えている。
「シャハーブじゃないか」
「これは殿下。お元気そうで何よりです」
目を丸くした青年に対し、シャハーブは優雅に礼を取る。相手は予想通り顔をしかめた。
「殿下はよしてくれと言っているだろうに」
「お気になさらぬよう。これは私の精一杯の嫌味でございますから」
シャハーブがさらりと切り返すと、青年――メルトはぽかんとした後、吹き出した。そんな彼から目をそらし、シャハーブは隣の娘にも頭を下げる。元神聖騎士団団員のフェライは、のほほんとした笑顔でそれに応じた。
古王国跡地での騒ぎから一年ほど。フーリから話を聞いた彼が、この二人に接触してからは半年ほどになる。見たところ、メルトは一時的に回復しているようだが、それも持って二年というところだろう。呪物というのは得てして、人体に大きすぎる傷跡を残す。シャハーブ自身が、身をもって知っていることだった。
「シャハーブさんは、浄化の月探しの最中ですか?」
「そうだな。これがなかなかうまくいかん」
川辺に三人並んで腰かける。フェライが、話を振ってきた。それに対して頭をかいたのは、演技でもなんでもなかった。
「天上人の『反逆者』がもたらした穢れを払う呪物……確か、人に宿るのだったか」
「そう。人に宿って初めて効果を発揮する呪物だ。製作者があえてそういう設計にしたらしい」
「今も誰かに宿っているのか」
「十年ばかり前に、先の宿主が死んだ。問題なのは、それ以降、『月』の行方が追えなくなっているということだ。今までは、こんなことはなかったんだがな」
シャハーブの『ぼやき』を聞いた二人が、顔を見合わせる。その表情を横目でうかがいつつ、男は目を細めた。
シャハーブが呪物回収にあたって数百年。浄化の月が追えなくなったのは、ここ十数年が初めてだ。
ただ――追えはしなくてもあてはある。ロクサーナ聖教だ。急激に勢力を拡大した彼らが、宿主を担ぎ上げたその過程で浄化の月の在り方を歪めた可能性は高い。それを口に出さなかったのは、確たる証拠がないからであり、元神聖騎士団員のフェライが目の前にいるからであった。
「しかし……その呪物は、宿主になにも影響を与えないものなのか?」
話が停滞したのを感じ取ったのか、メルトが少し違うことを口にする。シャハーブは、顎に手を当て、しばらく記憶を探った。
「害はないよう調整してあると聞いたぞ。宿主が発覚した後に執り行う儀式があるのだが、それさえちゃんとしていれば大丈夫だ。儀式のやり方は人間たちの記録に残されているというしな」
手元の短剣を弄びながら、答える。
「儀式、か。何かあったかな」
「それとわからんような形で継承されているんだろう。上手く執り行われていればいいが、そうでなければ、多少の影響はあるだろうな」
それを聞き、メルトは何やら神妙な表情になった。シャハーブは内心で肩をすくめる。この王太子のことだ。変なところで責任を感じて、なんとかできないものかと考えているのだろう。シャハーブは短剣をしまうと、横で薬草の検分をしていた娘の肩を叩いた。
「おい、フェライ嬢。うまいこときまじめ殿下の力を抜いてやってくれよ。あれはそのうち体にくるぞ」
フェライは最初、ぽかんとしていたが、振り返ってその意味に気づいたらしい。薬草を詰めた籠を置き、拳をにぎりしめた。
「わかりました。任せてください!」
※
シャハーブは体を椅子に預け、しばらく天井をながめていた。が、途中で気が変わって、視線を下にやる。寝台に横たわる人の、生気のない顔が目に入る。少年というほどの齢でもないはずだが、相貌にはその幼さが残っていた。生気がないとはいっても、少しばかり血色が戻ってきている。本当に死人のようだった数刻前とは大きな違いだ。
「どうだ、フーリ」
寝台のかたわら。黙然と若者を見下ろす、白い子どもに声をかける。彼は相変わらずの無表情をシャハーブに向け、ひとつうなずいた。
「損傷は激しいけれど、思ったほどではない。浄化の月の修復じたいは、二日ほどで終わる」
「それはよかった。後はお坊ちゃんの体力次第だな」
フーリは、また一度うなずいた。が、直後に頭をかたむける。
「『なにか』が浄化の月を守っていたらしい。彼らに干渉されてこのていどで済んだのは、守護のおかげもあるだろう」
「守護? なんだそれは。精霊か?」
「いいや。どちらかというと、僕たちに近いものを感じる。錯覚かもしれないけれど……少しだけ、『曙の杖』の気配があるような……」
天上人のフーリには珍しい、歯切れの悪い言葉をシャハーブは興味津々で聞いていた。しかし、『曙の杖』という一語を聞いて、目をみはる。
天の呪物のひとつ。今は役目を終えたため、この世界のどこにも存在しない物だ。そして、それにゆかりのある者も――
神妙に考え込む、青年の横顔を思い出す。
生まれてから死ぬまで、おそらく人の理を超えた後も、イェルセリア古王国の王子であった青年。余生を過ごすことすら苦痛を伴った彼はその後、本当になにかを為したのだろうか。
「……あの殿下かな」
つい、声に出して呟く。目を細めたシャハーブは、ますます首をかしげるフーリに笑いかけた。
「この世界には理屈じゃ説明できないことがあるのさ、フーリ。俺も、幽霊などは信じないクチだが……いないよりはいた方が、おもしろいとは思うね」