第一章 女神の祭り場(3)

「下見」の当日。ステラは、予定よりも早く院を出た。見学に行くため、というのはもちろんだが、もうひとつやっておきたいことがあったのだ。
 空気が冷えきって白い霧が立ち込める中、ステラは学院通りではなく、街の中心の方へと歩いてゆく。あちらこちらから、かすかにラフェイリアス教の聖句を唱える声が聞こえてきた。同じ言葉を斉唱する人々の声が、白濁した都市に溶けこんでゆく。音に耳を傾けていると、不思議と背筋が寒くなる。かすかに震えたステラはしかし、自分を叱咤するように背筋を伸ばした。
 行き着いたのは、街の中央広場。その一角、朝から扉を開けはなっている店の横手で、ステラは足を止めた。
「おや、お嬢ちゃん。こんな朝に来るなんて珍しい。しかも、うちに何か用かい」
 人に気づいたらしい店主が、開けっぱなしの扉の先から顔を出す。ステラは、曖昧にほほ笑んだ。
「おはようございます。ええ、たまには新聞でも見ようかなって」
「新聞? お嬢ちゃんが?」
 そのまま一瞬固まった店主に、ステラはここぞとばかりに明るい声をかけた。
「あ。今『頭打ったか?』って言いそうになりました?」
「ばれたか」
 白状して笑った店主は、ごゆっくり、と言い残して店内に戻っていった。あたりにひと気がなくなると、ステラは大きな板を見上げた。表面は紙でうめ尽くされている。
 この掲示板は隣の店のものではないが、その敷地を借りて置いているらしい。それはともかく、ここには帝国で発行されている新聞の記事のいくらかが張り出されているのだ。ステラたちのような新聞を買えない者たちが情報を得られる、貴重な場所である。ステラは数ある記事にすばやく目を通し、教会、あるいは神父の文字を探してみた。
 そして、目についたのはひとつの記事。文字だけのものだが、煽情的な見出しが躍っている。
「『神父死亡、神に仇なす不届き者の犯行か』……この町、帝都の近くだ」
 帝都より南に馬車で半日ほどの位置に、ディノという小さな町がある。どうやら、その町のラフェイリアス教会で神父が亡くなっているのが見つかったらしい。遺体の様子から殺人の線で捜査中、と新聞は淡白に報じているが、語調はほかの記事に比べて強かった。
「殺人事件……そっか、それで……」
 昨日の少年の話がようやく腑に落ちる。本当にその神父が殺されたなら、町の位置的にも犯人の心情的にも、帝都のラフェイリアス教会が狙われる可能性は高い。警察官が真昼に教会を訪ねたのは、捜査ついでの注意喚起だろう。
『調査団』のことを、そして昨日のミントおばさんの言葉を思う。軽く目を閉じたステラは、かぶりを振った。
「本当に、何も起きないでよ……」
 切実な祈りはけれど、霧に沈んだ街に浮き、どこにも届かず消えていった。

 教会に向かって歩いているうちに、霧が晴れていた。白い濁りが嘘のように澄んだ青空を見上げ、ステラは軽く息を吐く。これから一気に暑くなるかもしれない、と思うと少し憂鬱だった。
 前にレクシオと二人で通った道を、一人で歩く。今日は猫の子一匹いない。ところどころに、その足跡と思われる汚れが散っているだけで。
 小汚い路地を恐れず進み、記憶をたどりながら抜けると、教会が見えた。閑散としていた以前と違い、今日は門前が人であふれ返っている。
「やばい、時間間違えた……」
 少しずつ近づきながら、ステラは顔をひきつらせる。早く来すぎてしまったらしい。礼拝が終わるどころか、まだ始まってすらいなかった。
 群衆の一番後ろに、色鮮やかな布をかぶった老婆と、彼女に手をひかれる男の子の姿を見いだす。驚いているうちに、一か所に凝っていた人々が流れるように歩きだした。この小さな教会には、収まりきらないのではないだろうか。ステラは一人で気を揉んでいたが、「あの」と声をかけられて、飛び上がる。
 若い男性が立っていた。黒っぽい長衣をまとっている。その長衣のゆったりと広がる袖と裾に、銀糸で刺繍が施されていて、それは陽光を受けるとかすかな光を放った。ラフェイリアス教司祭――神父の服装だ。ステラが気づいたとき、神父は軽く首をかしげた。
「礼拝にいらっしゃったのかと思いましたが、違いますか?」
 は、と息をのんだステラは、頭の中で爆発しそうな言葉たちを懸命にかき集めた。自分でも何が何だかわからなくなりながら、必死に口を動かす。
「あ、いやその、違うというか違わないというか……礼拝じゃなくて見学に来たんですけど、早く来すぎてしまって……あ、入信希望とかそういうのでもないんですが…………すみません」
 全部言い終えてから、ステラはうなだれる。全体的に何を言いたいのか、自分でもわからなかった。しかし、落ち込む少女をよそに、神父は涼やかな笑い声を立てると、改めて彼女を扉の方へうながした。
「見学ですか。なるほど。それなら、せっかくですから礼拝から見ていかれてはいかがですか。ラフェイリアス教の雰囲気がよくわかりますので」
「あ、ありがとうございます」
 恐縮しきって肩をすぼめつつ、ステラは神父が開いた扉をくぐる。そして、次の瞬間には帰ろうかと思ったが、かぶりを振って気の迷いを打ち消した。
 学院の講義室ひとつより少し狭い空間に、先ほど詰めかけていた人々がお行儀よく並んでいる。大人の足もとを走り回る子どもなど、一部お行儀のよくない人もいたが、先ほどの神父が奥の壇に立つと、彼らも少し静かになる。
 神父は評判通りの優しい笑顔で人々に挨拶すると、慣れた様子で手もとの小さな本をめくった。少しして、祈りの言葉が流れ出す。

 宗教などまじめに信じたことはなかった。
 神の存在を疑ったことなど、一度や二度では済まないほどで。
 それでもステラは、眼前に広がる光景に目を奪われた。

 翼を持った女性神の像に向きあい、強く祈りをうたう神父。彼に続いて、穏やかに揃う声。女神に祈る人々の、信頼しきって安らいだその表情。すべてに少女は吸い寄せられた。
 欺瞞を感じないわけではない。馬鹿正直に信じられるほど、安穏とした十六年ではなかった。だが、少なくとも――あの神父の信仰心は本物だろう、と思わせる何かがあった。
 朝の礼拝は、淡々と、それでいて優しく進んだ。そして、ステラがあっけにとられているうちに、終わった。人々は神聖な時間が終わると、夢から覚めたかのように日常へ戻ってゆく。それでも多くが神父に対して、真心のこもったお礼の言葉を述べていく。その様子を不思議な心地でながめていたステラは、最後の一人が教会を出ていくと、ためらいながらも一歩を踏み出した。この部屋の一番奥、女神の像の前にいる神父のもとへ歩いてみる。彼も、それに気がついたのか振り返り、ほほ笑んだ。
「お疲れ様です。どうでしたか、礼拝は?」
「あ、えっと……なんかすごかったです。本当に」
 自分でも呆れるほどの語彙力のなさに、ステラは言葉を出してから頭を抱えたくなったが、「それはよかった」と言う神父は、心底満足そうだった。
 彼はふと思案顔になる。その表情は神父というよりも、一人の男性が世間話をするふうだった。碧眼が少女を見つめて、優しく細められる。
「あの、突然こんなことをお伺いして申し訳ないのですが……南の孤児院の方ですか?」
「え!? どうしてわかったんですか?」
「いえ」
 困ったようにほほ笑んで、神父――エドワーズは言葉を続ける。
「院長さんと市場でよくお会いするのですが、そのときに院の子たちの話を聞くのです。あるとき、一人の女の子の特徴を挙げて『みんなの面倒をよく見てくれるお姉さんがいるので安心だ』と笑っておられて。その姿が印象に残っていましたもので、もしかしたら、と」
「ミントおばさん……」
 ステラは思わず目を逸らし、毒づいた。頬が熱い。ミントおばさんのことだ、あることないこと、そしてあることを話したのだろう。そう思うと消えてなくなりたいような気持になるが、なんとか気を取り直してエドワーズに向き直った。
「そうでしたか……私も以前、教会に行くと話をしたときに、少しだけエドワーズ神父のことを聞きました」
「おや、それはそれは。なら、私のことは名前で呼んでいただいて大丈夫ですよ」
 おどけてそう言い、壇を降りた神父は女神像を見上げる。ステラはそっと、彼の隣で立ち止まった。
「さて――本題に入りましょう」
 エドワーズは、ステラの方を振り返る。
「教会へようこそ、若き方。ラフェイリアス教に興味を持っていただけたこと、たいへん嬉しく思います」
 丁寧に礼をするエドワーズに、ステラもどぎまぎしながら返礼した。彼の表情は穏やかなままで、そのことに少し安堵する。
「見学にいらっしゃった方には、ひととおり説明をすることになっているのですが……ラフェイリアス教について、どの程度ご存じですか?」
「えっと、学校で習う程度……ですね」
「なるほど、わかりました。では、基礎的なところから」
 呆れられはしまいかと心配だったが、エドワーズの声色は変わらない。彼は再び登壇すると、ステラに「こちらへ」と呼びかけた。登ってよいものだろうか。思いはしたが、彼女も神父に倣い、女神像の前に立つ。ほとんどどこの教会にもある像だが、今日はいっそう神秘的に映った。
「ラフェイリアス教は名の通り、女神ラフィアと彼女に従う神がみを信ずる宗教です。主神はラフィアですが、他の多くの神がみも信仰の対象ですから、細かい宗派が無数にあります。ですが、基本的にはラフィア神を信仰している、と覚えていただければ大丈夫です」
「ラフィア……。金の翼と銀の翼を持つ女神、ですよね」
「そのとおり」
 ほほ笑んだエドワーズの碧眼が、白い壁と同化しそうな像を、そっと見上げる。
「この像だと色が剥げてしまっているので伝わりづらいのですが、背中の左の翼が銀色、右の翼が金色だといわれております」
「へえ――って、この像、色がついてたんですか?」
「はい。もともとは像全体が着色されていたそうです。ただ、もう何百年も前のものですから。今はこのとおりです」
 胸の前で手を合わせた、巨大な鳥のような翼を持つ女性。その形でなければただの灰色の石にしか見えない像に、エドワーズは触れなかった。だが、深い敬愛をにじませるまなざしを像に注いでいる。
「ラフィアと彼女に従う神たちは、ひとまとめに『神族しんぞく』と呼ばれることが多いです。この神族たちは、基本的にこの世界に干渉しません。高き所から見守られ、本当に必要なときにのみ手を差し伸べる――そうして、この世界を保ってこられました」
「見守る、か……。もっと積極的に色々するものかと思ってました」
「『この世界のことは可能な限りこの世界に任せる』というのが、ラフィア神のお考えです。もっとも、違う考えを持つ神族もいたようなのですが、そういった神がみに関する記述や口伝はあまり残っていません」
 神父の優しい瞳が、つかのま翳る。既視感を覚えたステラは思わず彼の方を凝視してしまった。が、浮かびあがった影は、すぐに消えてしまった。ステラが首をかしげていることに気づいていないのか、エドワーズは爽やかな笑顔のままで手を合わせた。
「本当に一部のみですが、ラフェイリアス教の基となるラフィア神族について解説させていただきました。希望されるようでしたら、教会の中を見回りながらもう少し説明いたしますが、いかがですか?」
「あ、じゃあ……お願いします」
 ステラは、あまり考えず神父に頭を下げた。どの道、ジャックたちが来るまでにまだ時間がある。見られるうちにいろいろ見ておいても、損はないだろう。
「承知いたしました。それでは、ご案内いたします」
 どこか嬉しそうな神父の後について、ステラも軽やかに歩きだした。