第二章 警告の声(1)

 翌日。午前中の講義が終わるなり、ステラは教室を足早に出た。足早に、とはいうものの、その身ごなしは危なっかしい。廊下の端を進んでいるとき、何度も左右によろめいた。いっそう大きく左によろけたとき、横から伸びた手がステラを肩から支える。顔を上げると、飄々とした幼馴染と視線が合った。
「おいステラ、けが人なんだからあんま無理すんなよ」
「うー、ごめん。でも、誰かに捕まったらもっと大変だから……」
「ま、心中はお察しする」
 軽い口調とは裏腹に、レクシオは慎重な手つきでステラの腕を自分の肩に回した。ステラはそこまでしなくていいと言おうとし、けれど焦って言葉が出ない。黙りこくっている間に、幼馴染が悪戯っぽい笑みを向けてきた。
「おまえも第二学習室だろ。どうせなら一緒に行こうや」

 学習室には、すでにいつもの三人がいた。ステラたちが入ってくると、彼らの視線は一斉に扉の方へ集まる。
「ステラ、レクシオくん、来たね」
「おう」
 行儀よく椅子に座っていたジャックが、立ち上がって手を挙げる。二人がそれに応えたところで、トニーが部屋の隅からもうひとつ椅子を持ってきた。骨折しているステラのためなのは、言うまでもない。ステラは妙な居心地の悪さを覚えつつも、仲間たちの厚意を受け取ることにした。体に衝撃を与えぬよう慎重に座ってから、ほっと息を吐く。
「やーっぱ、考えることは皆同じ、だったな」
 椅子の背もたれに手をかけたレクシオが、四人を見渡して笑う。
「だって私らも大変だったんだよ。教会にいたんでしょー、とか、犯人どんな奴だった、とかめっちゃ訊かれて。めっちゃ追いかけ回されてさあ」
「だいたい、みんなどこから情報つかんだんだろうな」
 お坊ちゃまお嬢様はこれだから怖い、と、帽子の位置を直しながらトニーがぼやく。誰もが苦笑する中、レクシオだけが首肯した。
 短い沈黙の後、気のいい団長がステラを見る。
「神父様からの一報は、さすがにまだだよね」
「まだ。昨日の今日だしね」
 端的に答えてすぐ、ステラは顔をしかめる。少し体をひねった拍子に、あばら骨が鈍い悲鳴を上げたようだ。
「にしても、昨日のあいつはなんだったのかな」
「えーっと、大きな鎌を持ってたり、瞬間移動みたいに消えたりしたっていう殺人犯?」
 不愉快に目を細める少女を、椅子の背もたれを前にしている猫目の少年が見上げた。
 彼は「殺人犯」と決めつけているが、昨日の不審者が本当に殺人犯かはわからない。帝都の教会での一件は、あくまで「殺人未遂」だからだ。ただ、ディノを含む各地で起きた事件が同一犯によるものなら、また話が変わってくる。
 それはともかく、トニーの一声で、全員が昨日の出来事と人の顔を思い出していた。
「魔導士ではないのかい?」
「あれが魔導士なもんかよ。なんもない空中から大鎌を取り出す術なんてないだろ?」
「それは……そうだな」
 珍しく、レクシオが荒々しく吐き捨てた。魔導術を学ぶ身である三人は、途端に難しげな顔になる。相手と直接対峙したナタリーなどは、薄気味悪そうに腕を組んでいた。
「そうだよ。あんなの魔導術じゃない。魔力は感じたけど、動きが変だったもん」
「うーん。そのへん、もう少し詳しく聞きたい感じだな」
「ほんとにね。私も、もっとよく見とくんだったって、後悔してるところ」
 ナタリーが自分自身に毒づく横で、ジャックが眉間にしわを寄せている。いつになく難しい顔をしている団長を見ながら、ステラは彼らとは別のことを考えていた。
 ステラには、魔導術のことはわからない。ならば、自分自身に考えられること、できることを考えるしかないのだ。
 記憶をなぞる。教会の壁にはしった亀裂。雑音のような笑い声。すべてを覆うローブの隙間から見えた三白眼。そしてあの腕力と、謎の鎌。どれをとっても人間離れしていた。もしかしたら人間ではないのかもしれない、と本気で疑うほどに。
 短い時間のことを、ステラはよく覚えていた。恐怖と衝撃と痛みがあれだけあったにも関わらず、頭の中は明瞭だった。彼の言動、身ごなし、ひとつひとつを拾い上げ――ささいに思える言葉を思い出す。
「そういえばあいつ、ほかにも仲間がいるみたいだった」
「え?」
 全員の声が重なって、八つの目がステラ・イルフォードを見る。居心地の悪さに彼女は身じろぎするが、無言の催促を受けて口を開いた。
「本当に一言だけだけど、別の人の名前を出したんだ。なんだっけ――ラメド?」
 慣れない言葉を口にしたとき、背中がひやりとした。実際に冷たいものが差し込まれたわけではない。武者の勘が発する警告だと、少女はよく知っている。
 第二学習室には、かたく重い空気が満ちていた。緑の瞳が鋭く光る。
「ステラ。おまえ、それは警察に話したのか?」
「い、いや。そのときは忘れてた」
 うなだれるステラに対し、ナタリーが「あんたねえ」と呆れたような視線を向ける。しかし、ステラの幼馴染は少し違う態度をとった。
「まあ……今回ばかりは、知らせないで正解だったかもな。むだに人が死なんで済む」
 両手を後頭部で組んで、天井を見上げながら、ことさらに軽い口調で呟く。その意味を察した全員の表情が、鋼鉄よりかたくこわばった。レクシオの失礼な発言が正論であることを、誰もが一瞬で理解したのだ。あの男と直接対峙した少女たちは、特に。
「でもさ。あれと同じくらいヤバイ奴がほかにもいるなら、放置しておくのはまずくない?」
「まずいな。まずいが、だからと言って俺たちにできることなんかないっしょ」
「それは……そうだけどさ」
 反論を正論で粉砕されたナタリーが、頬をかく。どちらの気持ちも言い分もわかるステラは、黙っているしかない。ジャックやトニーにしても、思うところは同じだろう。ただ、ジャックだけがほかの二人と違った。手を叩いて「まあ、そのへんにしよう」と呼びかけたのである。
「ここで議論してもしかたがない。今はとにかく、エドワーズ神父からの連絡を待つことだ。それと、追っかけの生徒に気をつけること」
『クレメンツ怪奇現象調査団』を取り仕切る少年は、あくまで明るい態度を崩さない。団員たちはほっとした表情でうなずいた。そののち、レクシオが人の悪い笑みを浮かべてステラを見やる。
「あと、ステラは怪我を治すこと、だな」
「……はーい」
 幼馴染に釘を刺され、ふてくされたようにそれを受け入れる。二人のいつものやり取りであり、長い関係の証であった。
 とりあえずその日は、生徒の追及をかわしつつ、なるべくいつもどおりに過ごそうということで話が決着した。ぬぐえない不安を抱えつつ、五人はそれぞれの日常へ戻っていく。
 ――ミントおばさんを通じて、エドワーズ神父から連絡があったのは、それから二日後のことだった。

 いつもより暑い夜。点々と立つ街灯の乏しい明かりの下をステラは一人で歩いていた。空は濃紺に染まり、あたりは静まり返っている。建物の明かりはほとんど消えて、街路も家も闇の中。未だにぎやかなのは、東区の歓楽街だけだ。
 この時間帯に、若い娘が一人で出歩くなど狂気の沙汰である。しかし、ステラはいっこうに気にしていなかった。愛用の長剣をひっさげて、周囲への警戒は怠らない。できる範囲での備えは常に万全なのである。
 時々歌を口ずさみながら、彼女は学院の方へ歩みを進める。一歩、二歩、前へ出るたび、剣の鞘が鈍い光を反射した。そして、闇とかすかな光の中、巨大な学び舎の影が浮かび上がる。色も輪郭も判然としない巨大建造物は、さながら悪の大魔王の居城だ。しかしステラは顔色ひとつ変えず、黒い門の方へ走った。そこだけ、ことに明るい。そして明かりの下には数人の人がいた。
「みんな、お待たせ!」
 声を潜め、手を振ると、ステラの同級生たちは揃って振り向いた。ステラに一番近いところにいた幼馴染が、軽くにぎった拳を掲げる。
「ようステラ。何事もなかったようで、結構」
「何事かあると思われてたの?」
「けが人だしな」
 拳を相手のそれに合わせながら唇を尖らせたステラだが、そう言われると反論できない。悪戯っぽく笑うレクシオの背後から、ナタリーが顔を出した。
「そうそう。ちょうど、誰かが迎えにいこうかって話してたとこ」
「ええ? 大丈夫よ、そんな」
「みたいだな」
 レクシオがなおも笑いをこらえているので、ステラはその脇を小突いてやった。やった後に肋骨が軽い悲鳴を上げたことは黙っておこうと心に決める。そうこうしている間にも、腰に手を当てたジャックが全員を見回していた。
「これで、みんな揃ったな。では、これから教会へ向かうことにする。準備はいいね」
「うっす」
「ばっちり!」
 男女がそれぞれの答えを返して、五人は夜の帝都へ踏み出した。見事な列を作って進む様は軍隊のようでもあったが、それを見ている者はいない。並び立つ建物の先から、ほんのかすかに梟の鳴く声がした。

『調査団』が辿り着いたとき、教会にはわずかながら明かりが灯っていた。建物を規制線が囲っているが、ジャックはそれをひょいっと持ち上げて、内へ入ってしまう。ほかの四人は外側から、彼の手招きに従って裏手へと回った。教会の裏口にあたる小さな扉の前へ辿り着く。普段は箱が雑然と積み重なっているのだが、今は寂しいくらい整頓されていた。
 ジャックが再び規制線をくぐったとき、裏口の扉が音を立てて開いた。
「ようこそ、皆さん」
 エドワーズ神父が入口の隙間から顔をのぞかせた。少し疲れた様子の彼はしかし、少年少女にほほ笑みかけて、中に入るよう手ぶりでうながす。五人が足早に屋内へ入ると、エドワーズは音を立てないように扉を閉めた。
 数日ぶりに訪れた教会を、ステラは息をひそめて見回す。
 思っていたより明るい。燭台に火が灯されているほかに、二つか三つ、照明をつけているようだ。白壁とくぼみ、木の扉、美しい彫刻、それらを温かい色の光が照らしている。廊下は静まり返っていて、少し音を立てても、吸い込まれたかのように消えてしまう。ここだけが透明な膜で隔絶されているかのようだった。
「お久しぶりです。お待たせして申し訳ありません」
「いえいえ。こちらこそ、無茶なお願いを聞いていただき、ありがとうございます」
 なめらかな会話が耳に入り、ステラは我に返った。柔和にほほ笑んで一礼したエドワーズに、ジャックが笑顔で応じている。少年のそんな姿を見ていると、普段はなりを潜めている上流階級の子息らしい品が感じられた。同じものを感じたかどうかは定かではないが、笑みを深めた神父は、体をよそに向けて五人を振り返る。
「では、ご案内しますね。裏庭はこちらです」
「よろしくお願いします」
 揃って頭を下げた五人は、彼の後をついていく。静寂の中にあった教会に、人数分の靴音と、扉の軋む音が響いた。
 ステラたちが使った裏口のものとよく似た扉。その先にはまた、夜の闇が口を開いて待っている。ステラは、生ぬるい風を顔に浴びて、ほんの一時たじろいだ。それに気づかぬエドワーズは、するりと庭へ出ていった。置いて行かれてはまずい。我に返ったステラは、慌てて足を進めた。
 明るいところから出ると、夜がいっそう濃くなる。庭の柵と夜空を見分けられるようになるまで、少し時間がかかった。迷いなく歩くエドワーズを追っていくと、時折背の高い草が膝下をくすぐった。
 大きく曲がった道を行くと、教会の裏手に出る。遠くに見える墓石の列と、居並ぶ木々がさらに暗い影を作り出していて、どこか不気味に思えた。ステラはみんなに気づかれないよう、軽く唾をのみこむ。
「話によれば、このあたりに人魂が出たそうです」
 エドワーズが大きく手を振って示す。少年少女はその一帯をぐるりと見回し、それから顔を見合わせた。
「今は何も見えないね」
「だなあ」
 ナタリーとトニーがうなずきあう。その姿を横目に、ジャックが神父を仰ぎ見た。
「ちょっとだけ、ここを見て回っても?」
「大丈夫ですよ。あ、植物を折らないようにだけ、気をつけてください」
「わかりました。ありがとうございます」
 礼儀正しく頭を下げたジャックは、団員たちを見回した。残る四人はうなずいて、教会の敷地内にばらける。ステラも慎重に庭を調べてまわったが、妙な物も気配もない。
 たまたま隣に来たジャックに、首を振って見せる。彼は、苦笑して肩をすくめた。
「まあ、毎晩出るわけではないらしいから」
「出直すしかないか。……でも、出直すってなるとだいぶん先になるわね」
「そうだね」
 うなずきかけたジャックがしかし、ふいに口を閉ざす。切れ長の目が急に険を帯びた。
「どうしたの、だんちょ――」
「しっ」
 尋ねかけたステラを、彼の鋭いささやきが制する。ステラは、理由がわからないまま口をつぐんだ。
 息を殺して待った時間は、さほど長くない。その時の終わりを、魔導士でないステラは異様な寒気で悟った。
「あれだね」
 ジャックが静かに空中を指さす。その先を見て、ステラは、あっ、と声を上げた。
 光の玉が、浮いている。