第三章 いにしえの戦士たち(1)

 ――喧嘩には慣れている。
「てめえ、何しやがる!」
 いきなり拳を振りかぶられることも、怒鳴られることも、彼にとっては昔からの日常だった。むしろ、ここに入学してからは荒事が減ったのだ。一応公立の名門なので、品行方正な生徒が多いのだろう。彼が元いた学校では、倍以上の喧嘩が日々起きていた。
 だから、学院でほかの生徒に突っかかられてもなんら痛痒を感じない。
 顔を赤くした少年をじろりとにらみつける。相手はひるんだようだったが、すぐに飛びかかってきた。彼は軽くため息をついて、身構えた。
 喧嘩には慣れている。それが日常だったからだ。
 だがそれは、学院においては褒められた行為じゃない。入学して間もない頃から、問題児と認定されている自覚はあった。
 そんな問題児を見守ってくれたのは、唯一の友人だった。
「オスカーは正義感が強いからこそ、みんなとぶつかってしまうんだよね」
 友人は、喧嘩した彼を見ると、数回に一回は笑ってそう言う。そのたびに、彼は唇を尖らせたものだ。
「正義感なんてきれいなもの、俺にはねえよ」
「でも、困っている人のことは放っておけないだろ? 昨日だって武道場の掃除を押し付けられた子を手伝ったそうじゃないか」
「てめっ……! どこでそれを……」
 慌てふためく彼を見て、友人はにこにこする。太陽そのものの笑顔を前にすると、何も言えなくなった。
 わかっていた。友人は、彼を元気づけるためにわざとそういう言い方をしたのだと。
 どれほど先生が彼をにらもうと、他の生徒が彼を恐れようと、友人だけは彼の味方だった。
 友人だけは笑ってそばにいてくれたのだ――それは、あの日も変わらなかった。


 ひょっこりと現れたオスカーたちを見るなり、ブライスは両目を輝かせて彼らに駆け寄った。飛びつくつもりであったのだろう彼女を、オスカーは無言で避ける。空振りした少女は、少年をにらみつけた。
「なんだい部長、冷たいなあ。ま、いいや」
 ふくれっ面を逸らした少女は、ステラの方に駆け戻ってくる。得物に手をかけながら、部長を見た。
「合流できてよかったよ。ところで、なんともない?」
「さっきから妙な笑い声は聞こえるな」
「それは私も。体調は?」
「俺は普通だ。ただ、シンシアとカーターは様子がおかしい」
 オスカーは淡々と振り返る。彼の後ろには確かにシンシアと少年がいたが、二人とも血色が悪く、ここまで歩いてきたので限界、という風情だった。ステラたちは、揃って眉根を寄せる。
「やっぱり、魔導士か……」
「そちらも似たような状況か」
 ステラは、二、三度まばたきした。思わず無愛想な少年の顔を見つめる。彼は怒るでもなく、じっとこちらを見返してきた。その視線で我に返って、少女は栗色の頭を軽く動かす。
「そう、みたい。この笑い声と関係がありそうだけど、はっきりとした原因はわからない」
「なるほど」
 顎に指をかけたオスカーは、そのまま視線を動かす。彼が見たのは、いま一人の少年――カーター・ソフィーリヤだった。こげ茶色の短髪の下、穏やかに垂れた目を、彼は驚きにみはっている。
「カーター。なんとかなりそうか」
「わ、わかりません。ただの怨念というわけでもなさそうですし」
 このとき初めて、ステラは彼の声を聞いた。思いのほか低く、けれど優しさがにじみ出る音。聞いていると心の緊張がほぐれるようだった。
「しゃきっとしなさいな、カーター」
 頼りなげに眉を下げる少年の背中を、かたわらの少女が叩いた。カーターはひっくり返った声を上げて前によろめく。
「こういうときこそ、あなたが頼りなんですよ」
「そ、そんなこと言われても……ぼくだって頭痛いですし……もちろん、やるだけやってみますけど……」
 ぼやいた少年は、それでもふらふらと歩き出す。「失礼しますね」と言って、ステラの脇を通り過ぎた。彼女は慌てて振り返る。
「みんな、動ける?」
 あたり一面に響く音に負けぬよう、声を張って呼びかけた。そこかしこから、力ない応答がある。うずくまっていた人たちはよろめきながら立ち上がったが、いきなり協力をお願いするのは酷かもしれない。
 ステラがぬぐえぬ不安を抱えている間に、カーターは人の輪の中心に来ていた。腰からさげた小さな鞄から、細長い紙のようなものを取り出して自分の足もとに並べていく。円を描くように並べ終えると、彼は立ち上がった。
「皆さん、ぼくのまわりに集まってください」
『研究部』の三人は、特に動じることなくカーターのもとへ走り寄っていく。『調査団』の五人は戸惑いの視線をぶつけ合いながらも、少年の言葉に従った。ふらふらして転びかけたレクシオの腕をとっさにつかんで、ステラもなるべく身を寄せ合うようにした。
 足もとに視線を落とす。カーターの置いた紙には、表面に見たことのない模様が描かれていた。これも魔導術の一種だろうか。ステラが首をひねっている間に、事は大きく動き出していた。
 カーターは人々が集まったのを確認すると、前に手をかざして目を閉じた。深い呼吸の音が聞こえる。それが三度ほど響いて消えたとき、紙に描かれた模様が一斉に光り出した。
 紙の表面から立ち昇った光は、カーターの頭上あたりで一本につながって、薄く広がる。光は内側から押し出されるようにして薄い銀色の半球を形作り、ステラたちのまわりを覆った。
 笑い声が遠のく。完全に消えたわけではなく、薄い壁一枚で空間が隔てられた感じだった。先ほどまでの不快感がなくなって、ステラはほっと肩の力を抜く。彼女の手を、幼馴染が放した。
「なんか、楽になったな」
「あ、レク。大丈夫?」
「おう。さっきまではめちゃくちゃ頭が痛かったんだけど、今はちょっとマシだ」
 肩を軽く動かしたレクシオは、目を閉じたままの少年を振り返る。『調査団』のほかの三人も彼をまじまじと見ていたが、直接声をかけることはしなかった。ジャックが、ブライスに視線を移す。
「これはもしかして、結界のたぐいかい?」
「そうだよ~。カーターは霊とか神様とかに関わる魔導術が得意なんだ。未来の司祭様だからねえ」
 ブライスは、にこにこしながら光をつつく。それまで不安定に揺れていた銀色が、急に静まった。
「あまりそういうこと言わないでくださいよ。緊張しちゃうじゃないですか……」
 かすかに震えた声が、人の輪の中心から聞こえる。カーターが目を開けて、人々の様子を見ていた。
「とりあえず、悪霊の力を遮断する結界を張っておきました。普通の霊とは違うようなので、どこまで効くかわかりませんが……」
「そうか! 助かったよ、ありがとう」
「あ、えっと、どういたしまして」
 ジャックが満面の笑みを向けると、カーターは肩をこわばらせて両手を振った。耳が少し赤くなっている。ステラとブライスは顔を見合わせて笑った。
 なごやかな空気の中、しかし一人だけがしかめっ面で結界の外をにらみつけている。オスカーだ。その様子に気づいたシンシアが名前を呼ぶと、彼は小さくため息をついた。
「ひとまず危機は去ったが、これからどうするかと思ってな」
「確かに……霊が消えたわけではありませんものね」
 二人のやり取りを意識の端で聞きながら、ステラも薄い銀色をにらんだ。笑い声は消えていない。それどころか、高まっている気配すらある。結界のおかげで被害は受けずに済んでいるが、状況はひとつも好転していなかった。
 レクシオが頭をかく。置かれた状況のわりに、のんびりとしていた。
「あれをどうにかしないことにはここから動けねえなあ。団長、どうしたらいいと思う?」
「ううん……ここまで強力な霊は久々に見るからねえ。けど、逃げるのが最善かな」
「身も蓋もないねえ」
 レクシオの軽やかな返答が、むなしく響く。その応酬は現状の厳しさを学生たちに突きつけてくるだけだった。
 一同の間に、形容しがたい重苦しい空気が流れる。その間を笑声のそよ風が通り抜けた。仲間たちが沈痛に黙りこんでいる横で、ステラはすっと目を細め、結界の外に意識を飛ばす。
 ブライスと遭遇したあのとき、彼女はカラスを見た。彼らの気配を感じた。教会に現れた人々が幽霊森にも何かしているのだとしたら、この笑い声にも彼らの操り糸が結びついているかもしれない。


 辿る、辿る。森の奥まで、深くまで。
 そして彼女は、再びつかんだ。

「……見つけた」
 今度は、前よりはっきりしている。魔力ではない力のかたまり。
 それは、『銀の選定』の夜に現れた、金色の目のカラスと同じものだ。
 目を開いたステラは、輪の中心で不安げにしている少年を振り返る。
「カーターさん。この結界からあたしだけ出ることって、できる?」
「え? それは……一瞬だけ結界を解けば、できますけど……」
「わかった。じゃあ、本当に一瞬でいいから、結界を解いてもらえないかな」
 ステラの「お願い」にカーターは目をいっぱいに見開いた。驚いたのは彼だけではない。全員が、ステラに張り詰めた視線を向けている。
 ナタリーが、不安とかすかな怒りに眉を曇らせた。
「ステラ。あんた、何するつもり?」
「大したことじゃないわ。ちょっと『魔力』を試すだけ」
 銀という言葉を省いてステラが言うと、『調査団』の全員が目覚めたような表情になった。残る四人は納得がいっていないようだったが、『翼』の件を知らない彼らに教えるわけにもいかない。
 もう一度カーターに「お願い」と言うと、神学専攻の少年はしぶしぶといった様子で目を閉じた。
「わかりました。では――解きますよ」
 少年の言葉にうなずいて、ステラはわずかに腰を落とした。左脚を少しだけ後ろに引く。
 二度の呼吸の後、目の前の銀色が消えた。その瞬間にステラは地面を蹴り、跳ぶようにして結界から走り出る。栗毛をなびかせて振り返り、再び結界が閉じたのを確かめると、空中をにらんだ。
 あれほど青かった空が、いつの間にか妙に暗くなっている。笑い声はかなり大きくなっていた。こちらの聴覚が麻痺しそうなくらいだ。
 実体のない脅威を探っていると、笑い声の隙間から別の何かが聞こえてきた。
(にんげん、にんげん。にんげんがいまいましいおりから出てきたぞ)
(何するの? 何するの?)
(お姉ちゃん、あそぼうよ)
 それは、人の言葉だった。若い男の声と子どもの声が重なって聞こえる。独特な音と雰囲気。この幽霊たちは、今まで見てきたものと少し違う気がした。――気になりはしたが、詮索している余裕はない。
 思考しかけたステラは、軽くかぶりを振ってそれを打ち消すと、静かに剣を抜いた。
 瞼を下ろす。呼吸と足裏に意識を集中させる。
 ナタリーやジャックと一緒にやった、魔力制御の訓練のことを思い出した。
 まずは、安定して魔力を外に出すことから。魔力の流れは川、風、血液など、とにかく人によってさまざまに喩えられる。大事なのは、自分が一番理解しやすい形に落とし込むこと。最初は物を使ってもよいので、感覚を身に着け、自分なりの「比喩」を見つける。
 足裏に向けていた意識を手のひらへ移す。金属の、柄の感触。そこからゆるやかに剣先までをなぞる。刃に落ちかかった陽光が反射されて、剣と同じ形にきらめくような。そんな光景が、彼女の脳裏に広がった。
 ぴりぴりと手もとが痺れる。
 何かが膨れて弾けるような感覚が、全身を駆け抜ける。
 ほぼ同時、笑い声が悲鳴に変わった。
 下ろした瞼を突き抜けて、白銀の光が広がる。ステラはよろめきそうになった体を慌てて保った。
 少しも目が開けられないほどに光は強い。ステラの背後、みんなが無事かどうかはまったくわからないが、馴染みのある魔力だけはかろうじて感じ取れる。
 そして、幽霊とおぼしき声たちは狂乱の中にあった。何か言っているようにも聞こえるが、内容は一切聞き取れない。どろりとした黒い感情だけがひしひしと伝わってくる。
 どんなに怒り、憎んでも、『銀の魔力』は彼らにとって毒らしい。甲高い悲鳴が徐々に遠ざかり、不気味な言葉も聞こえなくなる。そして――
(ラフィアの狗め、ゆるさない。ぜったいに、おまえをつかまえてやるぞ)
 地の底から響くような怨嗟を残して、声たちはどこか遠くへ消えていった。