第三章 いにしえの戦士たち(3)

 レクシオの瞳の色を強調するような、妖しい光。それを見るのは初めてではなかったが、それでもステラは鼓動が速くなるのを感じた。
 ブライスがステラの肩越しにのぞきこんでくる。
「裏を取るって、どうやるの?」
 二人の後ろに立っているせいか、レクシオの変化に気づいていないらしい。榛色ヘーゼルの大きな瞳は、いつも通りにくるくるしていた。
 レクシオはいつもと違う目で彼女を一瞥し、口の端を持ち上げた。
「こいつの記憶を読み取るのさ」
「記憶を読み取る? なんか急に胡散臭くなったね」
「正確に言うと、石に蓄積された情報を拾うんだ。その中に、文字を彫った人のことやまわりの状況が記録されてるはずだからな」
 なるほど、と手を打ったブライスは、やや間をあけてから目をみはる。
「……ねえ、それってもしかして魔導術?」
「ご明察」
 ブライスの問いかけに、レクシオは軽く指を鳴らして答える。直前の一瞬、彼の表情がゆがむのをステラは見た。それはすぐに飄々とした笑顔の下に隠れてしまう。
 二人の間にある約束を知らない少女は、無邪気に顔を突き出した。
「幼馴染くんって、魔導術使えたんだ。『武術科』って脳筋野郎が多いから、ちょっと意外」
「それ、オスカーも含まれてるだろ。さりげなく部長に厳しいよなあ、ブライス殿は」
 肩を揺らして笑ったレクシオは、その後に笑みを消してまるい石に向き直る。彼は石の表面に触れ、そっと目を細めた。
「ちょっと珍しい術なんだ。だから他言無用で頼むよ」
「はいはーい」
 場にそぐわない明るい返事を受けて、レクシオは深く息を吸った。瞳の輝きが強くなる。それに呼応するように手もとからも光があふれる。そして――レクシオの頭が、がくんと落ちた。

 金属音と、怒号と悲鳴。それは、戦場を常に彩る音だった。
 ぼろぼろの鎧が砕け、肉の切れる音がする。また、悲鳴。視界の端で赤い雫が舞い、飛び散る。耐えきれず彼は視線を木立のむこうに投げた。一人の兵士が帝国兵に斬られたところだった。驚きと絶望に染まったその顔には見覚えがある。昨日の夜、並んで夕飯を食べた奴だ。自分より三つも年下なのにしっかりしていて、残してきた家族のことを気にかけていた。
 息をのむ。反射的に目を逸らす。そんな自分が嫌で嫌で、歯を食いしばった。人と刃の絶叫がやまない戦場を、腕を振り乱して駆ける。
 どうしてこんなことになったのか。
 帝国領内に攻め込んだまではよかった。みんなの士気も高かったし、自分も色々な「おこぼれ」をもらうことができたから、正直浮かれていたくらいだ。
 それがいけなかったのだろうか。浮かれて、悪いこともしたから、罰が当たったのだろうか。
 そうだ。きっとこれは神罰だ。
 見たことのない大軍に襲撃された。
『北極星の騎士』が指揮する軍が出てきたのだという噂もある。
 神に見放されたら自分たちはもう終わりだ。
 敵の影を見つけて、無我夢中で剣を振る。そのまま泣き叫びながら駆けた。汗と涙でぐちゃぐちゃに汚れた顔をぬぐう。ぬぐった後の手を見たら、手袋は赤く染まっていた。
 どれだけ走ったかわからない。木の根につまずいて転んだところで、やっと我に返った。顔を上げる。胸が苦しくて、少し動いただけでも体が張り裂けそうだ。
 目の前に地獄が広がっている。動かない人の肉体。血を吸った赤茶色の地面。そこらじゅうに満ちる鉄錆と汗と人体の腐った臭い。
 狂ったような高音が耳元で聞こえる。つらいのに涙は出なくて、汗ばかりが体を濡らす。
 立たなければ。立って走って、戦わなければ。思うばかりで足は空気を蹴り、四つん這いのみじめな自分がずるずると前へ進む。
 血のにおいの漂う場所で体をひきずり、まるい石の前で力尽きた。もともとは森で狩りをしていた人々が建てたものらしい、と上官に聞いた気がする。太古の昔の遺物を前にして、顔を伏せ、手足を投げ出した。それこそ、死体のように。
 ああ、ちくしょう。こんなつもりじゃなかったのに。こんなはずじゃなかったのに。こんな前線に出る気はなかったし、もともとはその予定もなかった。割りのいい給金をもらって軍の仕事をして、ある程度したら故郷に帰れるはずだった。国にいたときはそのことにすら不満を持っていて、どうせなら華々しく戦って英雄になりたいな、なんてぼやくこともあった。
 だが、どちらも叶うことはないだろう。鮮やかな夢も、平和な未来も、血の海に沈んでもう取り戻せない。
 短剣を抜いた。自死するだけの力も、気力もない。だからその刃は、頸ではなくて目の前の石に突き立てた。残された力全部を振り絞って、石に傷をつけていく。刃と石が、それぞれ苦しげな音を立てた。
 遠い未来に語り継がれる英雄にはなれない。戦場の端っこで、誰にも発見されず、何かを仲間に託すこともできず、死んでいくしかない。ならば、せめて痕を残したかった。どんなに無様で、汚いものでもいい。自分が生きて、ここで死んだんだということを証明したかった。
 だから刻んでやる。帝国領のこの場所に。どんなにおまえたちが野蛮で、卑怯で、醜いかを。そしておまえたちを憎み、呪う声をずっとずっと残し続けてやる。
 知っている限りの言葉で敵を罵倒し、それを刻んだ。決して長い文章ではない。長文を刻むほどの力はなかった。腕から力が抜ける。短剣が落ちて、甲高い音を立てた。
 鈍い疲労と同時に、笑いがこみあげてくる。彼は衝動に身をゆだねた。ひたすらに笑声を上げる。心が昂って、静まらない。体が熱い。苦しい。心地いい。
誰かの声と足音が、遠くから響いてくる。それでも気分は高揚していた。

 歌が聞こえる。
 出陣の日、人々が歌ってくれたあの歌が。

 母さん、弟たち、おじさん、おばさん、名も知らない人たち。ごめんなさい。俺たちは、勇者にはなれませんでした。

 彼が最後の笑声を漏らした瞬間、背後から金属の冷たさが突き刺さって――間もなく熱と痛みにかき消された。

「レク!」
 何度目かの呼びかけで、少年の肩が震える。ステラはほっと息を吐いたが、安心するにはまだ早いようだった。
 レクシオは、石から手を離した。というより、ずるりと滑り落ちるようだった。彼はいまだにうつむいたままで、言葉ひとつ発しない。
「おーい、大丈夫……?」
 ブライスが、ステラに続いて少年の顔をのぞきこむ。尋常でない状況を察したのか、声は低く、赤い眉が緊張で吊り上がっていた。
 レクシオは彼女の呼びかけにもしばらく答えなかったが、手は地面から口もとに動いた。少女二人が不安に顔を見合わせたところで、ようやく「悪い」とかすれ声が響く。
「結構、刺激が強かったわ。いや、参った」
 そう言って振り返った彼の顔は、一目でわかるほどに青ざめていた。ブライスが「大丈夫?」と繰り返すと、レクシオは曖昧にうなずく。
「なんとなく、わかってきたよ。二人にも報告したいけど……その前にちょっと休ませて……」
 言い終わるやいなや、彼はその場にうずくまってしまった。ステラが慌てて顔を近づけると、かすかに「吐きそう」と聞こえてくる。おろおろと手を動かしたが、とりあえずは背中をさすってあげるくらいしかできることがなさそうだった。その様子をかたわらで見つつ、鞄から水筒を取り出したブライスが、軽く頭を傾ける。
「実はそれ、かなりやばい術なんじゃ……」
 渋い顔をした彼女に返す言葉を、ステラは持っていなかった。
 レクシオの体調が少し落ち着いたところで、二人は彼が視た光景の話を聞いた。ティルトラスの若い兵士が、死に際に刻んだ必死の叫び、そして憎しみ。それがこの石に刻まれたものだと知ると、無機質な文字がまがまがしく映る。
 自分の赤毛をいじりながら、ブライスが不思議そうな表情をした。
「ってことはやっぱり、さっきの笑い声は兵士さんかなあ」
「だと思う。ただ、幽霊の目撃情報が急に増えた件については、まだ何もわかってないんだよなあ。本当は、最近の情報に的を絞ってもう一回術を使うといいんだけど」
「それはだめ。幼馴染くんが死ぬよ?」
「俺もそう思う」
 珍しく鋭い視線と言葉を投げつけた少女に、レクシオは乾いた笑いを返した。その声が少しだけうわずって聞こえたのは、まだ体調がよくないせいなのだろうか。
 ステラは石の文字を目で追いながら、唇を指でなぞる。
 まだ謎に包まれた部分も多いが、この石の記憶が今回の幽霊騒ぎと関係していそうなことだけはわかった。あの笑い声の主がティルトラスの兵士だという確証が得られれば、事態が少しは動くかもしれない。
 ステラは弾みをつけて立ち上がると、残る二人を振り返る。
「とにかく、このことはみんなに報告しないとね」
「そうだね」
 ブライスも、伸びをしながら立ち上がった。その動きは軽やか、かつしなやかで、猫を思わせる。
 だるそうに膝を立てている幼馴染のもとへ駆け寄って、ステラは手を差し出した。
「悪いな。ありがとさん」
 レクシオは苦笑しつつも、手をつかんで立ち上がる。
 ひとまず来た道を戻ろうと、彼らは仲良く並んだ石に背を向けた。
 だが、足を一歩踏み出した瞬間に、ステラは弾かれたように振り返る。悪寒が背中じゅうを駆け巡った。
 くすくす、くすくす。笑い声がやってくる。
 冷や汗がにじんで、手を濡らした。
「まずい」
 ステラが呟いている間にも、笑い声は大きくなって、広がる。ステラとブライスはほぼ同時に剣をつかみ、少年をかばうように立った。
(見たんだね)
 幼い声は、身構える三人をあざ笑うようだった。それに追随するように、声が一斉に弾ける。
(見ちゃった、見ちゃった)
(知ったんだね)
(おれたちがだれだかわかったかい?)
 違う。
 先ほどの声とは明らかに違う。
 ステラは無意識のうちに剣を抜き、構えた。だが、その腕はすぐには動かなかった。
 目をみはる。手先が、震える。
(わかったんなら――しんでくれる?)
 怒りと憎しみと、愉悦に憑りつかれた声。それがひときわ大きく響いた後、彼女たちのまわりに無数の人影が現れた。