第四章 幽霊森の終焉(1)

 甲高い笑い声は、子どものような、などという生易しいものではなくなっていた。楽しげな音は人間たちの恐怖を掻き立て、森を薄暗く染め上げる。大気の波打つ様が目に映るかのようだった。
 ステラは思わず耳もとを押さえる。押し寄せる不快感は、さすがに彼女の動きを鈍らせた。だが、ここで倒れている場合ではない。最も幽霊たちの影響を受けているであろう少年が、真っ青になりながらもまだ立っているのだから。
 ステラは、険しい顔をしている赤毛の少女を振り返る。
「ブライス! あれをお願い!」
「あいよ!」
 ブライスは軽快に鞄を開くと、一枚の紙を引き抜いた。カーターがすべての組に託してくれた符だ。少女がそれを宙に放ると同時、符の表面の構成式が鮮やかに輝きだす。光は三人のまわりに広がって、薄い膜を作り出した。笑い声が少し遠くなり、不快感もやわらぐ。気休め程度の変化だったが、今の三人にはそれで十分だ。
 ブライスは光の膜を見て、汗をぬぐう。
「ふう、これでちょっとの間はしのげそうだね」
「本当に一時しのぎなんでしょう」
 ステラは少し眉を寄せる。脳裏に優しい少年の声が響いた。
『この符を使うと、近くにいる人に簡単な結界を張ることができます。万が一あの幽霊に遭遇したらこれを使ってください。と言っても気休め程度のものですから、過信は禁物です』
 そう長くはもたないのだ、とも少年は言っていた。その長くない時間のうちで、どう乗り切るかを考えなくてはならない。しかも、今度は前回のように強引に逃げるのではだめだ。
「とは言っても、じゃあどうするって話だよねえ。逃げたらだめ、さっきの銀の光を使うだけでもだめ。打つ手なしってやつじゃん」
 薄い結界の中で、ブライスがうんざりと伸びをする。苦笑してから、ステラは得物に手をかけた。
「何もあたしたちだけで解決しなきゃいけないわけじゃない。今は時間稼ぎさえできればいいのよ。だから――」
 静かに剣を抜く。一歩を踏み出す。剣身が薄い銀色をまとったことに彼女は気づかない。それでも、無数の影の方へその切っ先を向けた。
「退いてもだめなら、押してやる!」
 幽霊たちの笑い声が高まる。ステラは構わず駆け出して、影のうちの一体を切り伏せた。手ごたえはない。けれど悲鳴が上がる。
 生まれた一瞬の間隙に、ステラは仲間たちを振り返った。ちょうどブライスが影二つを切り払ったところだ。といってもそれは空振りで、影はすぐ元に戻ったが、それでも十分だった。ブライスはステラに向けて、悪そうな笑みを向けてくる。
「いいね、そういうの嫌いじゃないよ。派手にやろうじゃないの!」
 赤毛の少女とうなずきあい、ステラは闇に覆われた道へと駆け出す。一体、二体、三体――湧き出る黒い影を手当たり次第に斬った。ブライスの剣は空を切るだけだが、ステラの剣は彼らを絶叫させる。魔力の違いなのだろうが、ステラにはよくわからなかった。
 ブライスに斬られた一体の胴がゆっくりと繋がって、その影が揺れる。
(ばかだねえ。そんなの、ぜんぜん意味ないよ)
 幽霊たちはそんなふうにこちらを嘲弄してきたが、ステラは一向に構わなかった。
 新たな一体を斬った直後、ステラの周囲を金色の半球が覆う。横合いから迫っていた影が、それに当たって弾かれた。ステラは目をみはって振り返った。
 文字が刻まれた木の幹に手をついて立っているレクシオは、彼女の視線に気づくと笑みをひらめかせる。
「ぼさっとすんなよ、ステラ」
「わかってるわよ」
 変わらぬ様子を見せつける少年にほほ笑み返して、少女は大きく踏み込んだ。剣を力いっぱい薙ぎ払う。その軌道に沿って銀色の光が孤を描いた。そのとき初めて、ステラは『銀の魔力』が放出されていたことを自覚する。だが、感慨に浸っている場合でもない。ステラは表情を引き締め、剣を構え直した。
 人間は一人もいないはずの方角から笑い声が立ち昇ったのは、そのときである。ステラはその方を視線だけでうかがい、思わず声を上げた。
 拳が黒い影をすり抜ける。影は躍るようにゆらめきながら上へ昇っていった。
 霊に殴りかかった張本人、オスカーは、その影をにらむと舌打ちする。
「やはり手ごたえはなしか。面倒な」
「幽霊を殴るって発想をするおまえがすごいと思うんだわ……」
 大柄な少年は、そよ風が吹いたほどにも動じず立っている。その影から猫目の少年が顔を出した。そしてかたわらには、きらめく笑声を立てるもう一人の少年。ステラとブライスは彼らを見て、それぞれに表情を輝かせた。
「わーい! 部長だ!」
「団長、トニーも!」
 少女二人の歓声を受けて、ジャックは明るく手を振ってきた。対してオスカーは、影に向かって拳を振り続けている。十回ほどそれを繰り返したところで、彼は己の拳をじっと見つめた。
 ジャックがその姿を一瞥した後、ステラのもとに歩み寄ってくる。その間にも周囲の影はうごめき、笑い声は響いているが、団長は動揺をおくびにも出さない。
「また突然幽霊たちが出てきたね。彼らを刺激するようなことをしたのかい?」
「刺激、したつもりはないんだけど。きっかけは与えたかもしれない」
「ふむふむ。ぜひ詳しく話を聞きたいものだね」
 ジャックは瞳を無垢に輝かせた。いつものことだが、大人びた端正な容姿で子どもっぽい表情をされると、なんだかおかしくなる。つかの間だが、ステラは肩の力が抜けるのを感じた。そんな彼らの横で、ブライスが飛び跳ねながら幽霊の影を薙ぎ払う。榛色ヘーゼルの瞳が爛々と光って彼らをにらんだ。
「悪いけど、悠長にお話ししている余裕はないよ! カーターの簡易結界も切れそうだし!」
 鋭い声を飛ばす間にも、彼女は幽霊たちの影を跳んで、しゃがんで避ける。飛び上がり、そのついでのように三体を一気に打ち払った。しかし影はすぐに復活し、耳障りな笑声を立てる。ブライスはそれに対して、犬歯をむき出しにして怒った。
「むっきー! 復活するのはいいけど、なんか腹立つなあ」
「これは厄介だな。どうしたものか」
 手足をばたばたさせる少女の横で、ジャックは笑う幽霊たちをにらみつける。その表情は言葉のわりにあまり深刻そうではなかった。しかし彼の声色が若干硬いことに気づいている三人は、少し目を細める。
(しんでしまえ、しんでしまえ。みんなしんでしまえ)
(たたかわなきゃ。ていこくじん、ころさなきゃ)
 甲高い笑声の隙間から、子どもの声がかすかに響いた。それは常に聞こえていたが、今のはひときわ大きかった気がする。ステラは剣を構えたまま、初めて動きを止めた。
 彼らは今、初めて『帝国人』と言った。やはり当時の敵国の兵士たちなのだ。幼馴染の見た光景が裏付けられたわけだが、喜んでいる余裕はない。それどころか、事態は悪化する一方だ。
 影が襲いかかってくる。ステラは大きく飛び上がった。その直後、茂みの鳴る音を聞いて上半身をひねった。視線が逸れた隙にまた幽霊の影が伸びてくるが、そこへブライスの剣が到達する。風切り音を聞きながら、ステラは茂みの先から出てきた人影を見つめる。暗澹とした思考に、やわらかな光が差しこんできた気がした。
「ナタリー! ネリウスさんとカーターさんも!」
 ステラの歓声を聞いた人々も、表情をほころばせた。剣と拳の切れがよくなり、魔導士たちはレクシオのいる木のまわりに駆け寄っていく。
 カーターが駆け出した。彼を狙う霊の影が伸びる。『武術科』の三人は視線を交わしあうと、その幽霊たちのもとへ突っ込んでいった。三人が切り開いた道を司祭の卵は走り抜け、文字が刻まれた木の前で立ち止まる。
 カーターは手早く符を取り出すと、己の足もとに広げた。
「皆さん、急いで!」
 呼び声に呼応するように、紙の表面が光り出す。視界の端に銀色を見たステラたちは、武器と拳を収めて身をひるがえした。薄く広がった銀光が半球を形成していく。天から地へ、それが広がりきる前に、少女二人と少年一人はカーターのすぐそばへ飛びこんだ。
 ほどなくして結界が閉じきり、笑い声が遠ざかる。ブライス、カーター、それからナタリーの三人が大きく息を吐きだした。
「少しは落ち着けそうですね」
 青ざめた顔を結界の外に向け、カーターが呟く。銀の薄壁の先では、まだ黒々とした影がうごめいていた。彼の独白にジャックとオスカーがうなずき、全員を見渡す。
「ここでひとまず、情報共有をしようか」
「早く済ませるぞ。幽霊どもも長くは待ってくれないだろうからな」
 同好会グループの長たちの言葉に、ほかの学生たちはそれぞれの表情でうなずいた。

 ステラたちの話が長くなると判断し、ほかの六人の報告を先に聞くことにした。それぞれの組が目撃したカラスと大きな人影のことを聞き、ステラとレクシオは思案顔を見合わせる。
「黒幕の正体は見えてきたな」
「……そうだね」
 やはり、神父を殺して回っていた彼らが関わっているのだ。目的も、どのようにして幽霊たちをここまで凶暴化させたかもわからないが、少なくとも裏で糸を引いていることは間違いない。
 だが、そのことを大声で言うわけにはいかなかった。今は『ミステール研究部』の四人がいる。金眼のカラスの話をするには、教会で起きたことの詳細も話さなくてはならなくなる。それは本来、聖職者のみに伝わる秘事なのだ。
「さてさて、どうしたもんかね」
 レクシオが腕を組んでひとりごつ。あらゆる方面に向けた言葉であったろう。考え込む少年を一瞥したオスカーが、胡乱げな目つきのままステラとブライスをにらんだ。
「それで、おまえたちの方では何があった。あの幽霊どもが出てきたことに関係あんだろ」
「ん~、話すと長いんだけどねえ」
「かいつまんで話せ」
「私にそれを言われても困っちゃうなあ」
 へらりと笑うブライスへ、オスカーは怒気まじりの鋭い目を向けた。もともと険しい目つきをさらに険しくする。場の空気がこれ以上悪くなる前にと、ステラは少女の襟首をつかんだ。
「あたしたちが見つけたのは、この木とあっちにある丸い石」
 言って、ステラは目の前の木を手で示す。十二の目が木の幹をまじまじと見つめる。そこで初めて彫られた文字の存在に気づいたのか、ちらほらと驚きの声が上がった。
 そこから、ステラとレクシオが事の次第を話した。レクシオの魔導術のことはまだ口外するわけにはいかなかったため、ここにある文章と歴史的事実から推測した、ということで話を合わせた。ティルトラスの兵士の話を聞いた六人の間に、重苦しい空気が漂う。
「ここで死んだ兵士の言葉、か……。それも、当時の敵国の……」
「どうりで慰霊碑まわりに幽霊の痕跡がなかったわけです」
 トニーとカーターが目を伏せる。二人を考え深そうに見ながら、ジャックが顎に指をかけた。
「ティルトラスと帝国の争いは、最初ティルトラスが優勢だったらしいけれど、帝都の手前、つまりこの森から形勢逆転して帝国軍が彼らを追い返したらしいね。元々帝都付近まで攻め込まれた場合の作戦案が存在していて、それが速やかに実行されたことと、ぎりぎりで『北極星の騎士』の部隊が招集されたことが、勝因だといわれているよ」
「『北極星の騎士』……? あ。イルフォード家か」
 ブライスが指を鳴らして、ステラを仰ぎ見る。人数分の視線を受けたイルフォード家のご令嬢は、顔にかかった髪をつまみながらうなずいた。
「そう。当時の当主はそう呼ばれてたらしいわね」
 今でもイルフォード家は北極星の一門と呼ばれる。北方の守りを任されていることと、家紋に北極星があしらわれていることが理由らしい。
「――で。負けたティルトラスは領土の半分近くを取られちゃったってわけだよな」
 帽子越しに頭を叩いたトニーが、苦々しく吐き捨てる。「帝国人への恨みは深そうだ」と続けられた言葉に、全員が眉を寄せた。
「だからって、黙って殺されてあげるわけにもいかないでしょ。どうしようか」
 重い口を開いたナタリーが。残る仲間を順繰りに見る。だが、誰もが考え込んだきり発言しようとしなかった。ステラも、これまでの記憶と発想を総動員して考えたが、なかなかよい案が思い浮かばない。そもそも、こちらを恨んでいる上に凶暴化して聞く耳を持たない幽霊に、どう立ち向かえばよいというのか。
 空気が鈍く沈滞する。
 しかし、数秒後に、小さな一言が大きな波紋を生み出した。
「――歌」
 誰もが顔を上げ、声の主を凝視する。
 彼は、視線を受けても眉ひとつ動かさず、言葉を継いだ。
「あの歌を歌えれば、幽霊たちの気を引けるかもしれない」
 ステラは――いや、レクシオ以外の八人は、戸惑いと疑問を顔に表した。