学生の仕事は学ぶことである。ここのところ奇妙な事件に遭遇し続けているステラ・イルフォードも、そのことを忘れたわけではなかった。というより、忘れようがなかったのだ。幽霊森の調査に行く三日前に、大規模な試験が行われたのだから当然である。
教会に行った翌日、その結果が出席してすぐに手渡された。試験結果をまとめたものが、厚めの二つ折りの紙に印刷されるという形である。不自然に冷えた指先で紙を開いたステラは、その中身を噛みしめるようにながめ――机に突っ伏した。
言葉にならない悲痛な声が漏れ出る。それを聞いた通りがかりの男子生徒数人が、気味悪そうに振り返ったが、声の主がステラであるとわかると、またかと言いたげに視線を逸らした。
涙を流さず泣いていたステラの前に、小柄な生徒がやってきたのは、そのときである。通知書を握りしめて伏せていた彼女は最初、そのことに気づいていなかった。
「やっほー、ステラ! 何おもしろい格好してるの?」
底抜けに明るい少女の声がする。あまり馴染みのない音に誘われ、ステラは顔を上げた。
丸っこい顔の赤毛の少女が、すぐそばで彼女をのぞきこんでいる。榛色の瞳は、今日もくるくるよく動く。彼女の名はブライス・コナー。ステラにとっては、つい先日「名前しか知らない同級生」から「顔見知り」に昇格した相手だった。ステラはのろのろ頭を上げて、赤毛の少女を下からにらむ。
「おはようブライス。人が嘆いてるのを見ておもしろがるとは、いい性格してるわね……」
「え? だって、なんで落ち込んでるのか知らないし」
ひょこひょこと飛び上がりながら言ったブライスは、ステラが握りしめている紙を見つけて「ははあ」と目を細める。そのまま、丸い顔を突き出してきた。
「ステラ、勉強は苦手だったんだっけ。ほうほう、実技は化物じみた高評価ですなあ」
「ちょっと。勝手にのぞかないでよ」
ステラはぎょっとして身を引いたが、その前にブライスは通知書の内容すべてを見てしまったらしい。あっさり飛び跳ねて下がった後、大きな頭を傾けた。
「思ったより点数悪くなくない? つまんないの」
「つまんなくて悪かったわね」
色々とひどい少女をにらんで、ステラは声を尖らせる。これ以上話の種になる前にと、通知書を鞄に滑りこませた。と、そのとき、なじみ深い気配が後ろに立った。
「宮廷騎士団の試験を受けると想定した場合、まだまだ足りないんだよなあ」
間延びした少年の声が、二人の上から降ってくる。ステラは振り返り、肩をすくめた。幼馴染で同級生のレクシオ・エルデが彼女の肩に手を置いたところだった。
「あっ、幼馴染くん、おはよう!」
それを見つけたブライスも、両目を宝石のごとく輝かせる。レクシオは彼女に挨拶を返した後、珍しく困ったように眉を下げた。
「俺は君の幼馴染ではないんだがなあ、ブライスさんよ」
「ステラの幼馴染でしょ?」
「君がつけるあだ名って、何基準なわけ?」
「ん? てきとー」
二人の会話には、まったく着地点が見えない。レクシオも話していてそれを感じたのか、頭をかいて強引に話題を切り替えた。
「そういえば、今日、『武術科』に転入生が来るらしいぞ。知ってた?」
「そうなの? 初耳」
思いもよらぬ話題にステラは目をみはる。その横で、ブライスが元気よく挙手した。
「私、知ってるよ。珍しいよねえ、学院祭前に誰か入ってくるなんて」
「だな」
赤毛の少女の言葉に二人がうなずいていたところで、大人の声が響いた。教室に入ってきた先生である。明るい茶髪を肩口で切りそろえた女性――武術科の講義を受け持つ一人、リンダ・テイラー先生だった。彼女の一声で、生徒たちは素早く席につく。レクシオとブライスも、ステラに軽く手を振って、自分の荷物を置いている席に戻った。
そうして朝礼が始まった。高等部の朝礼では、連絡事項の伝達が行われる。毎日大量にお知らせがあるわけではないので、そっけなく終わることが多い。だが、今日は少し違った。
テイラー先生は、見知らぬ女子生徒を横に連れていた。生徒たちの意識は、どうしてもその生徒に集中する。つややかな黒髪をおさげにした少女。人の美醜にさほど関心がないステラでも、かわいらしいと思うような顔だちだ。彼女は大きな黒茶の双眸を所在なげに泳がせていた。
淡々とした通達の後、やっと転入生の話になる。先生に優しく背中を押された少女は、おさげを揺らして一歩前に出ると、やや血の気が引いた顔を前に向けた。
「ミオン・ゼーレです。よ、よろしくお願いします……」
なんとかそれだけ言って、彼女は深々とお辞儀する。沈黙の後、どこからか拍手が起きた。最初まばらだった音は徐々に輪を広げて、最後には教室じゅうに拍手の音が響き渡る。ステラにはそのとき、彼女が頭を下げたまま泣いているように見えた。
朝礼が終わった後、同じ教室でそのまま最初の講義が行われ、ステラはそれをかじりつくようにして聴いていた。試験の点数があまりよくなかった科目である。なんとか自力で頭に入れなければと思うのだが、途中でその頭が混乱しだして、結果睡魔に襲われた。居眠りすることはなかったものの、結局得るものはほとんどなかった。これは、あとでレクシオに泣きつくことになりそうである。
最初の講義が終わると、次の実技授業に参加する生徒がばらばらと移動を始めた。武道場まで行かなければならないので、みんないつもより足が早い。ステラたちもその列の中に混じっていたが――そこで、普段は見られない光景を目撃した。
何人かの生徒が、特定の一人のまわりに輪を作って、あれこれ話しかけている。当然、輪の中心にいるのは変な時期にやってきた転入生だ。彼女は、矢継ぎ早に放たれる質問に埋もれて、窒息しそうになっている。
「入って早々人気者じゃん、あの子」
当然のようにステラの腰回りにじゃれついてきたブライスが、好奇心に目を輝かせる。ステラはそれを流れるように引きはがすと、ため息をついた。
「まあ、学院の仕組み上、転入生自体珍しいからね……」
突然やってきた少女は、一目見た限りでは華奢である。しかし、『武術科』に入ったということは、『武術科』の試験を受けて合格したということだ。何かしらの武術をたしなんでいることは間違いない。彼女の身ごなしなどを少し観察してみたいステラだったが、今のところその機会には恵まれていなかった。こういうことを考えているあたりは、彼女も転入生のまわりで輪を作っている生徒と大差ない。
「他人のことを知って何が楽しいのか、俺にはわからん」
ブライスの頭上から、低い声が降ってくる。声の主にすぐ気づいたブライスが、軽やかに反転してその人物に飛びついた。が、あっけなくかわされてつんのめった。
「あれあれ、部長じゃん! 体術専攻のみんなも、次は実技なんだっけ」
「ああ」
ブライスの所属する同好会、『ミステール研究部』の部長が、無愛想にうなずいた。相変わらず体格がいい、などと思いながらステラは彼を――オスカーを見上げる。彼が自分から話しかけてくること自体、それほどあることではないのだ。本当は、彼も転入生のことが気になっているのかもしれない。しかし、余計なことは言わないに限る。オスカーに見つめ返されたところで、ステラはさりげなく視線を逸らした。
「あの子、ちょっと不思議な感じがするんだよね」
素早く話題を転換すると、ブライスが耳ざとく食いついた。
「不思議? どういうこと?」
「うーん。上手く言えないんだけど……なんかこう、近寄りがたい気みたいなものをまとっている感じ。もしかしたら、魔力が多いのかも。レクと初めて会ったときの感覚に似てるから――」
そこまで言い、はっとして、ステラは口をつぐんだ。ブライスはともかく、ほかの人に『これ』を詮索されるのはまずい。彼女は本人ほど上手くごまかせる自信がないのだ。案の定、もの言いたげなオスカーににらまれて、ステラは下手な作り笑いを顔に貼り付けるはめになる。
オスカーの視線をやり過ごしながらふと、レクがいないな、と思った。あたりを見回しても、幼馴染らしき姿はない。生徒の群れの中、違う場所に入りこんでしまったのだろう。けれど、いつもならどちらかが姿を見つけて、もう一方に寄ってくるのだ。ステラが見つけられなくても、なぜかレクシオは彼女を見つけ出して笑顔で肩を叩いてくる。今日はそれがない。気にするほどのことではないはずなのだが、ステラは胸の内に薄い靄がかかるのを感じた。
武道場に到着すると、さっそくそれぞれの実技授業が始まった。
実技と一口に言っても、様々な内容、形式がある。今回は剣術の模擬試合だ。一対一で、剣を用いた短い試合をする。その後、お互いの技や体の使い方について意見を交わす、というものだ。
組む相手はくじ引きで決まる。記号が刻まれた小石をひとつ選んで、同じ記号の石を引いた人と組むのだ。ステラも石を適当に選んで、同じ記号の石の持ち主がいる武道場の端まで歩いた。いつもの調子で、挨拶をしようと手を挙げかけるが――相手の顔を見て、固まる。
見慣れない、おさげの少女。ついさっき来たばかりの転入生だ。むこうもこちらに気づいたらしく、おどおどと視線を泳がせる。
「あ、えっと……」
「えーっと、ミオン・ゼーレさん……?」
「は、はい」
やり取りが途切れて、沈黙が訪れる。尋常でなく気まずかった。少し考えた後、ステラは思いっきり頭を下げる。ミオンが驚いて後ずさった気配がした。
「初めまして、ステラ・イルフォードです! 今回はよろしくお願いします!」
ミオンはしばらく目を白黒させた後、「よ、よろしくお願いします……」と硬い声を返した。ステラは返答をもらえたことに安堵して、横の壁に立てかけてある剣を手に取った。柄も刃も、材質は真剣とほとんど変わりないが、安全のために刃が潰されている。握り心地を確かめている横で、ミオンもおずおずと剣を取った。その後、横目でステラを見てくる。
「あの……イルフォード、さんって、『北極星の一門』の?」
「え? ああ、そうだよ」
柄を何度か握り直しながらステラがうなずけば、ミオンは甲高い声を上げて半歩下がった。さして珍しい反応ではない。警戒されたな、とわかったステラは、右手で剣を持って左手で胸を叩いた。
「あ、気遣わなくて大丈夫だよ。あたし、家出娘だし。どんとこい!」
「えええ……」
ミオンは剣を構えながらも情けない声を上げる。対してステラは、生き生きと身構えた。なかなかに前途多難な実技の時間だ――と、心の中で苦笑しながら。