第一章 転入生の秘密(7)

 日常、という言葉で少女が思い出すのは、薄暗い家の黴臭さと、家族のささやく声だった。少女とその親族たちは各地を転々としながらも平穏に暮らしていたが、軍人や警察を見かけたとなると緊張せざるを得ない。
「『デルタ』が隠れ住んでいる、って噂になってるらしい」
 叔父さんが重苦しくささやく。言葉の意味はあまりわからないのに、それを聞くと自然に肩がこわばった。少女が怯えているのに気づいたのだろう、隣にいた親族の女性が彼女の肩に手を回す。
「私たちのこととは限らないでしょう?」
「だが、同じ場所にそう何組も同族が集まるもんか」
 大人たちを取り巻く空気が、どす黒くなっていく。それは少女にとっても覚えのあるもので。こうなると、また遠くに引っ越すことになるかもしれない。少女は隣の女性に編んでもらった三つ編みを握りしめ、唇を引き結んだ。
 今度はどんな旅になるのだろう。怖いことは起きないだろうか。自分は学校に行けるだろうか。――いや、それよりも。みんなが自分のために無理をしないだろうか。
 子どもたちの笑い声が響いて、通り過ぎていく。分厚い板越しにそれを聞いて、少女は無性に泣きたくなった。

 鐘の音が、かすかに残る夜の気配を払っていく。それは同時に、彼女の頭の中の靄をもかき混ぜる。重だるい目覚めの中で、ミオンは手足をぐっと伸ばす。少しずつ、頭がはっきりしてきた。廊下が少し騒がしい。ああ、起きなければと心の中でため息をついた。寝返りを打ち、無理やり腕を動かして、薄い布団を跳ねのける。秋の冷気が体を包む。ミオンは軽く身震いして、ようやく起き上がった。
 そして目にした風景が、あまり見慣れないもので、彼女は首をかしげた。
 やけに白い寝台と、机と椅子。手狭だが清潔な部屋。どうしてこんなところにいるのだろう――寝ぼけた頭でそう考えた。けれど、机の上にある数冊の本と古ぼけたペンを見て、置かれた状況を思い出す。
「あ……授業、行かなきゃ」
 ここはクレメンツ帝国学院の女子寮。今日は寮内謹慎が明けた最初の日。ミオンは学院に行き、そして勉強しなければいけない。いや、勉強はいいのだ。学ぶことは好きだから。それよりも、たくさんの生徒の中に行かなければならないことが怖かった。
 涙が出そうだ。目をぎゅっとつぶって目頭の熱を発散する。代わりにひとつ息を吐きだして、ミオンは寝台から下りた。とりあえず湿らせた布で顔を拭き、制服に袖を通す。ふわふわとした意識を抱えたまま、ぼさぼさの髪を梳いた。時計を横目で確認しながら三つ編みをつくる。自分で髪を編むようになったのは一昨年からで、もう慣れてしまった。手早く身支度を整えた彼女は、扉の前で深呼吸をしてから廊下に踏み出した。
 朝食をとって学院に行く。それだけのことで、ひどく疲れた。周囲の視線が痛い。笑い声や話し声が怖い。数か月ぶりに、砂嵐が押し寄せてくるような感覚を味わって、ミオンは早くもその場に座り込みたくなっていた。自分が恐れるもののほとんどは思い込みだが、実際にこちらをにらんできたり、彼女のことをわざと大声で言う生徒がある程度いたのも確かだ。
 謹慎期間中に色々な噂が流れたことは知っている。このくらいの仕打ちは当然だし、予想していたことだ。だが――あの日現場に居合わせた武術科生たちは、ミオンが思っていたほど剣呑ではなかった。
 もちろん、あからさまににらんでくる人もいれば、距離を取る人もいた。けれど、それだけではなかった。
「あっ、ゼーレさん。おはよう」
 席に荷物を置こうとした瞬間、横合いから声がかかる。見覚えのある男子生徒が、手を振って近づいてきた。ミオンが落としてしまった書類を一緒に拾ってくれた人だ。ミオンは慌てて頭を下げる。
「お、おはようございます」
「謹慎明けたんだな。よかった」
 少年の声に邪気や繕いの気配はない。それでも、ミオンは顔を上げられずにいた。
「あのときは……すみませんでした」
「いやあ、俺は気にしてないよ。それより、先生呼んでくるのが遅れて申し訳ないことしたな、って思ってたんだ――だから、その、あんまり頭を下げていられると俺の方がむずむずするっていうか……」
 そう言われて、ミオンはようやく頭を上げる。少年は、ぱんぱんに膨れた鞄を肩から担ぎなおし、教室を振り返っていた。
「そういうことは、イルフォードさんやレクシオに言ってくれ。率先して動いてくれてたのは、あいつらだからさ。あと――」
 少年の視線が戻る。彼はおどけたふうに手を挙げた。
「ハイドランジアさんにも、できたら顔見せてあげてよ。ここ数日、かなりしょげてたから」
 明るい調子の言葉を聞き、ミオンは目をみはった。

 方々に迷惑をかけていたことを再確認し、関わった人たちに顔を見せにいこうと考えていた。しかし、今日はステラやレクシオとは受ける講義があまり重ならず、重なったとしても声をかける機会を逃してしまった。
 一方、シャルロッテに会うことはできた。ミオンがこわごわと謝ると、彼女は少し硬い笑みを浮かべた。
「いいえ、私の方こそすみませんでした。もう少し言い方と接し方を考えるべきでした」
「そ、そんな。わたしが勝手に混乱しただけです……」
「自覚は、ありますから」
 シャルロッテはそう言って、笑みを崩さない。ミオンがさらに言い募ろうとしたところで次の講義が始まりそうになったので、それ以上の会話はあきらめた。だが、席に戻る前に、シャルロッテが振り返る。
「無事でよかったです。無理はなさらないでくださいね」
 彼女はそれだけ言うと、朝日のように輝く金髪を揺らして駆け去っていった。
 ――進展もあったとはいえ、非常に疲れる一日である。すべての講義が終わる頃には、ミオンは満身創痍になっていた。終礼の後、逃げるように教室を出てひと気のないところまで行くと、壁に手をついてうなだれてしまう。
 やけに明るい声を投げかけられたのは、そんなときだった。
「こんにちは、ゼーレさん!」
 ミオンは驚いて振り返る。なじみ深い女性が、いつの間にかそこに立っていた。『武術科』で数少ない女性教諭、リンダ・テイラー先生は、今日も少年のような笑顔を咲かせている。どういうわけか、分厚い書類の束を脇に抱えていた。
 おっかなびっくり挨拶をしたミオンに、テイラー先生はなおも話しかけてくる。彼女に引っ張られる形で、ミオンも廊下を歩きだした。
「お疲れ様! ちょっと日が開いちゃったから大変だったでしょう」
「ま、まあ。なんというか、いろんな人に迷惑をかけちゃいましたし……」
 繕った笑みを浮かべる。しかし、それも長くはもたなかった。通りすがった生徒の視線を避けるように頭を下げる。
「素性がばれたら騒ぎになるのはわかっているので、気を付けようと思っていたんです。でも、できなかった……」
 テイラー先生の言葉は返らない。それがなおのこと、彼女を弱気にさせた。
「わたし、やっていけるのかな」
 決して他人の前では口に出したくなかった不安。それが、ぽろりとこぼれてしまった。今まで目を背けてきたものの重みで、足が止まる。十数年間で自分の中に溜まっていた澱があふれ出してきそうだった。
「――そんなあなたに、先生からひとつ提案があるんだけど」
 先生の声がする。思ったよりもからりとしていて、優しい。ミオンがこわごわと顔を上げた先で、快活な先生は書類の束を持ち上げていた。
同好会グループに入ってみない?」
同好会グループ……?」
「学院の課外活動。生徒たちが、決まった分野について研究したり、外で調べたりするっていうものだけど、何も研究だけじゃないんだよ。伝統楽器の演奏をやってたり、怪談について調査したり、最近は本当にいろんな同好会グループがあるね」
 へえ、とミオンは目を輝かせる。話を聞いた限りでは、非常に心くすぐられる活動だ。しかし、巨大な暗闇が、弾む心を押しとどめる。
 現時点ですでに人々から避けられている自分が、集団での活動に上手くなじめるかどうか。これまでのことを思うと、心底怖かった。
 彼女の素性を知る一人である先生は、ミオンの表情からある程度を察したらしい。書類をすごい速さでめくりながら、言葉を続けた。
「だいたいの人が何かしらの同好会グループに入ってるから、ゼーレさんが少しでも話しやすい人のいるところを選ぶといいんじゃないかなあ。えーと、そうだね、このへんとか」
 テイラー先生は、数枚の紙を差し出してくる。おずおずとそれを受け取ったミオンは、首をかしげつつ目を通した。同好会グループの名前と活動内容、所属している人のことを一覧にしたものらしい。正直、期待はあまりしていなかった。しかし、ある一枚に目が留まる。見知った名前が二つ並んでいるのを見つけたのだった。
「あ、これ……」
 テイラー先生の無邪気な視線を感じつつ、ミオンは息をのむ。彼女が釘付けになった同好会グループは、名を『クレメンツ怪奇現象調査団』といった。

 最近、『クレメンツ怪奇現象調査団』はもっぱら食堂で会合している。その日も五人全員で集まって食事をとっていた。話題は学院祭フェスティバルのことに終始する。『魔導科』は、魔導理論についてまとめた展示のほかに、魔導具の試作品の発表なども行うという。
「魔導具? 何それ」
「何かしらの道具に構成式を組み込んで、魔力を注いだものだよ。魔導術に近い効果を得ることができるんだ。火やガスを使わなくても明かりが点く照明器具なんかが、いい例だね」
 首をかしげたステラに対し、ジャックが楽しそうに解説してくれる。その横から、トニーが悪戯っぽく顔を突き出した。
「まだ実際に出回ってる物は少ないから、ステラたちには馴染みがないかもな。でも、これからちょっとずつ増えていくと思うぜ」
「ふうん。でも、魔導具が増えたら魔導士の仕事がなくならない?」
 匙を置いてステラが『魔導科』の学友たちを見回すと、彼らは顔を見合わせた。奇妙な沈黙の後、三人は揃って吹き出す。ますます頭の角度を急にするステラに対し、親友が手を振った。
「確かに、仕事は減るかもね。でも、人にしかできないこともあるし、なくなりはしないよ」
「いよいよヤバくなったら、魔導具を設計したり作ったりする方に回ればいいんだしな」
 ナタリーの言葉にトニーが追随する。やはり楽しげな二人を見て、ステラはそういうものかと考えた。
 ジャックがふと視線をよそへ向けたのは、そのときである。彼の目配せにすぐ気づいたステラは、何事かと思い、その動きを追いかけた。彼女の視線に気づいたのだろう、見返してきたジャックは、片目をつぶった。
「先ほどから、見慣れぬお嬢さんが僕たちを見ているわけだけれど……『武術科』の二人に用事かな?」
「え?」
 芝居がかった団長の問いかけに、ステラとレクシオは目を丸くする。ジャックが手で示した方を見て、さらに唖然とした。
 確かに、ジャックたちにとっては見慣れないであろう少女がこちらを見ている。黒い三つ編みを肩から垂らし、黒茶の瞳をあちらへこちらへとさ迷わせているのは、ここ数日見なかった転入生だ。
「ええ……っと。ミオンさん?」
 意を決してステラが呼ぶと、ミオンは飛び上がった。誇張ではなく、本当に。その勢いで尻餅をついてしまった彼女を見て、レクシオが苦笑まじりに立ち上がる。彼はステラに悪戯を仕掛けるときのような調子で歩いていくと、少女に手を差し伸べた。
「どうしたんすか? 俺たちに用事?」
「え、ええと、い、一応」
 会話と呼べるのか定かではない会話をしながら、二人はこちらに戻ってくる。レクシオがまた着席するなり、ミオンはその場で上半身を曲げた。勢いで、三つ編みが外へ弾む。
「は、初めまして! ミオン・ゼーレと申します!」
「おっ、気になる転入生! 初めまして!」
 トニーが猫目をきらきらと輝かせる。その頭をナタリーがひっぱたいた。その後、『魔導科』の三人も彼女に対してそれぞれ名乗る。
 頬を真っ赤にして顔をひっこめた少女に、ジャックが春の日差しのような笑顔を見せた。
「それで、どうしたんだい? ステラたちに何か用事?」
「そ、それもあるんですが……」
 雪白の両手を膝のあたりで握りしめたミオンは、何かを決意したように顔を上げ、その場の五人を見た。
同好会グループ活動について、少し、お話を聞きたくて」
 転入生の発言に、五人ともが絶句する。わずかな間の後、いち早く正気に戻った団長は、団員たちの間抜け面を意にも介さず、細い指を顎にかけた。
「なるほど。そういうことなら、ぜひとも話をしたいね。けれど、その前に昼食を持ってくるといいよ。その様子だと、まだだろう?」
 ジャックに明るく指摘されたミオンは、両耳を赤く染めてうつむいた。

 ミオンが昼食を持ってきて、レクシオの隣――ステラ、レクシオ、ミオンの並びになった――に座った後、五人はここに至るまでの経緯を聞いた。
「テイラー先生、来て数日の子に同好会グループを勧めたのか。やるなあ」
 レクシオが愉快そうに目を細めて呟く。その向かいで、ジャックが大げさにうなずいていた。
「それでゼーレさんは、うちを候補に選んでくれたわけだね。ステラたちがいるからかな?」
「それもあります。けど、昔の精霊とか死者の弔いの話とか、前にいたところで結構勉強したので……ちょっとは知識が活かせるかなって……」
 ミオンは眉と肩のあたりに力を入れて、言葉を紡いでいる。ひびが入りそうな声を聞き、トニーがからからと笑った。
「心配しなくていいよ。ステラとレクシオなんか、『怪奇現象には興味ないけど、ほかに入れるところがなさそうなんで入れてください』ってジャックに声をかけてきたんだから」
「そうだったんですか?」
 ミオンが目を真ん丸にして隣を振り返る。猫目の少年に名指しされた二人は、苦笑して首を縦に振った。当時ミオン以上に孤立し、互いしか友人と呼べる人がいなかった二人の、しぶしぶの選択であったことには違いない。彼らの反応を受けてミオンは、ふええ、などと声を上げながら少し視線を落としている。
 一見して頼りなさげな少女を見つめ、ジャックはふと笑顔を消した。
「ゼーレさんが入団したいと言ってくれるのは、僕としてはすごく嬉しい。でも、今はやすやすと了承できない事情があるんだ」
 そう言われると、ミオンは一気に悲壮な表情になる。本人では隠しているつもりかもしれないが、青白い感情の波が顔じゅうに満ちる様子は、ステラの目と心でもはっきりとわかった。ジャックもむろん、気づいたのだろう。隙を作らずに言葉を繋いだ。
「君の問題ではなく、僕たちの問題なんだよ」
 団長が何について話しているのか、五人はもちろん把握した。『銀の翼』の一件だ。ステラはさすがにいたたまれなくなって、ミオンから目を逸らす。
 そんな中で、ジャックはあくまでも穏やかに話し続けた。
「実は、少し前の活動で、僕たちはとても大きな事件に巻き込まれたんだ。それは今も続いている。今入団するということは、ゼーレさんもその事件の当事者になるということなんだ」
「そんなに大変なことが……? 先生もご存じなんですか?」
「いいや、先生方には話していない。ある決まり事があってね、先生に話すわけにはいかないんだ」
 かぶりを振ったジャックを見つめ、ミオンは真剣に考えこんでいる。それを視界の端に留めつつ、ステラたちもひそめた声をぶつけ合った。
「妙なこと言ってると思われてもしかたがないわよね。本来は、たかだが学生の活動だもん」
「だな」
「ステラから聞いた限りだと、彼女、それなりに戦えそうではあるけど……強けりゃいいってもんじゃないよね。この場合」
「当たり前だろナタリーさん。相手は神様だぜ?」
 四人の内緒話は、おそらく、ミオンにも多少聞こえただろう。それを聞いて彼女の中でどんな思いが渦巻いたのか、ステラたちにはわからない。食器の音が何度か通り過ぎたのち、少女は決然とした表情で五人を見渡した。
「故郷を出てから帝都に辿り着くまで、怖いことや危険なことはたくさんありました。だから、きっと、大丈夫です。皆さんが一緒なら」
 今までよりも凛とした声が、食卓に光を落とす。ステラにはその瞬間、彼女の瞳が神秘的に輝いたように見えた。
「それに、わたし、変わりたいんです。今まで逃げてばかりだった自分を、少しでも変えたいんです。だから、入団させてください」
「……わかった」
 吐息まじりに、ジャックが答えた。その吐息は、呆れやあきらめからくるものではない。感嘆の色が確かににじんでいた。
「それじゃあ、こうしよう。お試し期間ということで、一か月ほどゼーレさんには仮入団の上、一緒に活動してもらう。実際の調査を経験しないことには、うちが君に向いているかどうか、わからないと思うから」
 それでいいかな、とジャックが問うと、ミオンは両目を輝かせてうなずいた。胸の前で手を合わせた彼女は、かすかに口角が上がっている。喜びを全身からあふれさせている少女は、五人の視線を受けて頭を下げた。
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
「よろしく、新入り」
 レクシオが片目をつぶって言うと、ステラたちもそれに追随した。そして、最後に団長が、ミオンに向かって手を差し出す。
「『クレメンツ怪奇現象調査団』へようこそ、ミオンくん」
「――はい!」
 ミオンは満面の笑みで、ジャックの手を握った。